廻 6
つむぴょんは、ご主人様の命令に従い、ご主人様の為に全てを捧げる必要があった。
そう自分に言い聞かせていた。つむぴょんは人形だから。
決してドールを迎え入れる事のない人の元で生きていくには、例え壊されるのだとしても、従うしかない。
つむぴょんの中には、はじめから人への恐怖と、憎しみがあった。
ご主人様は、つむぴょんに『命令』をする事がなかった。
幸せそうに、楽しそうに、つむぴょん、つむぴょんと呼んでくる。
だからご主人様が苦手だった。
ご主人様は何も求めない。それは必要ないと言われているのと同じだった。
つむぴょんは玄関の前に座り込んでいた。
その日の朝、つむぴょんはいつもの様にご主人様の部屋の前に立っち、
すぅ、と息を吸い込み「ご主人様」と声を掛け、部屋の扉をノックした。
返事は無かった。いつもの事だと思った。ご主人様は、まだ眠っているはずだから。
ご主人様と暮らし始めてまず気付いたのは、ご主人様は眠るのが好きという事だった。
いくら眠るのが好きでも、放っておくと寝息を立てていても、
規則正しい生活を送ってもらわないといけない。
それがメイ《・》ド《・》としてのつとめだった。
だから、毎朝ご主人様を起こしに行く必要があった。
いつもと違ったのは、ベッドで眠っているはずのご主人様がいなかった事と、
ベッドの上にメモが置いてあった事だった。
――つむぴょんに渡したいものがあるから、待ってて。
用意していた2人分の朝食を食べ終えたつむぴょんは、
食器を洗いながら妙に落ち着かない気持ちを静めようと、水気を綺麗にふき取ったお皿を何度も洗い、ため息をついた。
玄関の前に座り、扉が開くのを待ち続けた。
やがてお腹がすいてきたつむぴょんは昼食の用意を始めた。
つむぴょんにとってご主人様は、ほんの少しだけ、苦手な存在だった。
昼食は、ご主人様が好きだと言っていたハンバーグに決めていた。
玄関の扉が開くのを待ちながら、つむぴょんは野菜を切り、ひき肉をこねて、フライパンにタネをのせた。
焼きあがるのを待つ間、つむぴょんは玄関の前に座り、扉が開くのを待つ事にした。
冷めきったハンバーグと付け合わせのサラダを食べて、
食器を洗い終わった所でまたお腹がすいてしまい、ご主人様にと準備した、大きなハンバーグに口を付けた。
苦手なはずのご主人様のいない食事は、普段より味気なく感じた。
つむぴょんはまた玄関に向かい、扉をじっと見つめた。
ご主人様からの『待ってて』という命令に、つむぴょんは従っていた。
ご主人様を待ちながら、つむぴょんは考えた。
料理の腕に自信があるわけではないが、いつもはおいしくつくれている。
それなのに、なんで今日は違うのか。こんなのはおかしい。
なんで扉が開くのを待っているのか。なんでご主人様を待っているのか。
なんで、ご主人様をこんなにも望んでいるのか。
味はともかく、二人分の食事はつむぴょんに十分な体力を与えていた。
ご主人様の与えてくれた命令を捨てて、つむぴょんは扉を開けた。
つむぴょんは森の中へと入っていった。
何度も足を運び、りんごを取って食べていた。
街に行くときだって、何度も歩いたはずの森だった。
それなのに、慣れ親しんだはずの森の中でつむぴょんは迷ってしまった。
ご主人様も、もしかしたら。きっと朝早くに家を出て森に入って、それからずっと。
なぜか溢れてくる涙を拭い、つむぴょんはただ、歩き続けた。
何度も転び、泥だらけになりながら、つむぴょんは、ご主人様に会いたいと思っていた。
何度もご主人様と叫んだが、耳が痛くなる程の森の騒めきに掻き消されてしまう。
すっかりお腹も空いてしまい、気を抜くと倒れそうになるくらいに疲れてしまっていた。
落ちていたりんごを手に取り、口に運ぼうとして。
それは銀色の、宝石の様なりんごだった事に気付いた。
驚きのあまり落としてしまい、銀のりんごが、転がっていく。
ただの平坦な地面で、銀のりんごはまっすぐに転がり続けた。
つむぴょんは気が付くと、銀のりんごを追いかけて走っていた。
やがて、森を抜けたのかと感じるほどに開けた場所に出た。
森の中にこんな場所があった事をつむぴょんは知らなかった。
そして、その場所に聳え立つひときわ大きな樹の下で、ご主人様は眠っていた。
服は泥だらけで、手や顔には傷があった。
つむぴょんは大声で泣いた。顔中が涙でぐしゃぐしゃになっても、涙は止まらない。
溢れてくるあつい気持ちは、もう飲み込めそうになかった。
ご主人様を抱きしめ、何度も呼びかけ、頬を叩いて肩をゆすり……苦しい、と言われて手を止めた。
「あれ……なんで、つむぴょんが」
きょとんとした様子のご主人様をつむぴょんはもう一度抱きしめて、わんわん泣いた。
「そっか。探しにきてくれたんだ」
ご主人様、ご主人様。つむぴょんは泣き続けた。
「大丈夫だよ。僕はここにいるから。ね、つむぴょん。これ……見て」
必死に涙を堪えて、つむぴょんはご主人様が差し出す金色のりんごを受け取った。
銀のりんごは、つむぴょんの足元で輝いていた。
ご主人様を連れてつむぴょんはお屋敷を目指して歩き始めた。
あれだけ迷ったはずなのに、ご主人様の眠っていた大樹からまっすぐ歩けばすぐにお屋敷が見えてきた。
お屋敷の中に入り、お風呂に入って汗と泥を洗い流し、傷の手当てをして、
一息ついてから、つむぴょんは初めてご主人様をめちゃくちゃに怒った。
朝勝手に起きて勝手に外出する事を禁じた。
屋敷の外がどれだけ危険かを伝えた。森の中には蛇だって出てくるし、街で賞金を懸けられているような、頭のおかしい殺人鬼だって、邪教徒だっている。
そして、つむぴょんは初めてご主人様の事がめちゃくちゃに好きになっていた事を知った。
ただ、怒られているのになぜか嬉しそうに返事をするご主人様には、
好きですとは伝えなかった。
その日の朝、つむぴょんはいつもの様にご主人様の部屋の前に立っち、
すぅ、と息を吸い込み「ご主人様」と声を掛け、部屋の扉をノックした。
「ちょっとまって」と返事があった。
珍しい事もあるものですねと思い、つむぴょんは扉を開けた。
普段通りの、ベッドの上で寝転がったままのご主人様がそこにあった。
「あああ~まってって言ったじゃん!」
「知りませんよそんなの。ご飯が冷めるじゃないですか。
今日はパンの日です、りんごパンを貰ったんですよ」
「つむぴょんが食べさせてくれるならいいよ」
「……ぼけてるんですか?」
相変わらず変なご主人様だと、つむぴょんは思った。
「どうせまだ寝たりないとか言うんでしょう?
だめですよ、布団から引き摺り出してやります」
いやだと呻きながら布団の中に隠れるご主人様を3回叩いて布団を引きはがした。
実は知り合いに頼んで、朝からパンを焼いてもらっていた。
焼きたてのパンをご主人様と一緒に食べたい気分だった。
「つむぴょん……お願い」
「はやく降りてください。りんごパンが冷めるじゃないですか」
ご主人様を転がしてベッドから落とすとぐえーと呻いた。
これはおもしろいですね。
しゃがみこんでご主人様を眺めると、すぐに目が合った。
「つむぴょんほっぺたパン……」
「ほっぺを触らないでください、不快です」
ぺしんとご主人様の手をはたく。
ご主人様の扱いも、随分慣れてきたと思う。
「おはようございます、ご主人様」
「おはよー、つむぴょん」
いつもと同じ、良い朝ですねと思った。
いつもと違ったのは、ご主人様の部屋の窓から見えるお屋敷の庭に、
『何か』が立ち入ってきていた事だった。