什壱 ユリ姫
什壱. 『ユリ姫』
鎖骨当たりに刃が突き刺さったソエは激痛にもがき苦しみ身をよじる。彼女の肩からは噴水のように鮮紅色の血が四方に噴き出ていた。
「うあああっ…!」
「ホオズキ!あなたシャガの娘まで…!」
噴き出る彼女の血を見て俺は焦燥感が増した。
——動け、俺の体……!
俺は必死で手足を動かしてみる。でも、全身が痺れて拳を握ることすらできなかった。六年間修行したというのに外界では毎回毎回やられっぱなしだ。
大城戸のおっさんの言う通りだ。人族の桁違いの強さを目の当たりにした俺は正直彼らに勝てる気がしなくなった。しかし、ここで諦めたら大事な人も、何の関係のない無辜の人たちもみんな殺されてしまう。
ホオズキはソエの肩から刀を抜き、今度は左太股に刀を突き立てる。
「くあああっ…!」
「国の反逆を目論んだ者の最期はどうなのか、この機会に皆に知らしめましょう。これは良い見せしめになりそうだ。くっくっく…。」
外野のその光景を見ていた人たちがざわつき始めた。
「父は…この国に逆らったことなんてなかった!!全部嘘に決まってる!!」
「そうですか、そうですか…。可哀そうに。…そうやって貴様は真実を何一つ知ることもできず哀れに死んでゆくのだ。」
「あなたは権力に目が狂ってるのよ、ホオズキ…!」
俺は全力で声を出してみる。
「や…める…。」
しかし、誰にも届かない。
そうやってうつ伏せのまま声を出していた俺は、雉山で覚えたあの感覚をまた感じた。
カチカチと時計の秒針が頭の中に鳴り響く。
——まただ…。このスーッと何かが体に入ってくる感覚。
俺は周りを見回してみた。そしてその光景に自分の目を疑った。なぜか、空を飛ぶ雉も舞い散る花びらも人たちの動きもすべて静止画のように止まっていて、自分が立っている姿が目の前に見えていたから。
——何だこれは…?みんな止まってる?しかもこれって…、あいつに刺される前の俺…?!いや、でも待って。さっき確かあいつの蹴りで口から血を吹いたぞ…?でもこの俺は口元に血が付いてない。どうなってんだ…?
俺は過去の自分の姿と少し違った格好をした自分に違和感を覚えた。これは過去の自分なんだろうか、それとも別の過去や未来の自分なんだろうか。あまりにも理解できない場面だったから答えを導けなかった。
俺は止まった空間の中で立ち上がろうとした。さっきまで力も入らなかったのに、なぜか今は腰に力を入れてドンと立ち上がることができた。割とあっさり。すると、俺の前に突っ立っているもう一人の俺の姿が少しずつ透けて見えてきた。
「消えていく?」
静止画のように止まっているもう一人の俺の姿は、やがてその身を完全に消した。すると、鳴り響いた時計の音が鳴り止む。周りの時間の流れも正常に戻ったようだ。俺はホオノキの時と同じく腹部の傷口が完全に回復されて塞がれていた。
「まただ…!よし、これなら!」
俺は地面に落ちている自分の刀を拾ってホオズキに突進した。なぜだろうか、山の時と同じく全身に力が漲って制御できないほどの速さで俺の刃はホオズキの右腕を貫いた。
「なにっ!?」
「この子から離れろ、外道野郎!これはさっきの仕返しだ!」
俺は右足でホオズキを蹴り飛ばす。ホオズキは向こうの建物まで弾き飛ばされた。
「か、海時?!」
「人が多すぎる!とりあえずずらかるぞ!立てるか?」
「うん…!」
俺は隣に倒れている佐次郎をソエに背負わた。
「ちょ、ちょっと。なに?この子は?!私も怪我人なんですけど!!」
「そいつを持って逃げるんだよ!」
その言葉だけを伝えて、俺はユリ姫を背負って空へ跳んだ。
「どうしろってんのよ!バカ!!」
「な、なんですの?!きゃああっ!」
神才のおかげなんだろうか普段よりも高く跳んだが、ユリ姫は絶叫して俺の頭をかきむしった。
「いててててテッ!!!」
「何してますの?!これは拉致よ!!」
「うっせえ!!お前も斬られそうだったろ!」
「お、お前…?!私のことお前って…。」
姫が呆れた顔で俺を見ていたが、今はいちいちリアクションする暇がない。佐次郎のことはソエに任せて、俺は全力で逃げることだけを考えた。
俺を見ていた周りの兵士たちも俺を追うために足を構えたが、ソエが阻止して俺に続く。
「『圓登の舞』」
彼女が刀を握った右腕を横に伸ばして体と垂直にさせると、円を描いた斬撃が放たれ一気にその場の兵士たち全員を斬り倒した。そして、技の回転の遠心力を利用して彼女は佐次郎を背負ったまま空へ跳躍した。それから建物の屋根に着地した俺たちはそのまま休まずに逃げ走った。
「ソエ!どこに行けばいいんだ?!」
「あんた、なんにも考えてないんでしょ!まったく!とりあえず、人目の少ない城下町の隅角に逃げ込むわよ!なんでよりによって左大臣に喧嘩売ってるのよ、この馬鹿!」
「だって、そうしなかったらお前が背負ってるそいつ死んでたんだぞ?」
「今の自分の身の程を弁えて?!そんなことしてたら二人とも死ぬかもしれないのよ?」
俺はいつも通りの彼女の説教を聞きながら隅角へ向かった。
一方、ホオズキのところでは…。
ホオズキが建物の瓦礫から身を起こす。
「クッソごみクズめ…!ただの混血だと思っていたのに…。少し違うようですね…。彼が喜びそうだ。くっくっく…。」
ホオズキは不敵な笑みを浮かべて城前へ戻り、国兵を招集して海時たちの捜索令を出した。
必死に走った俺たちは無事に隅角まで逃げ延びることができた。ソエと佐次郎の怪我があまりにもひどすぎたもので、俺はさっきの病院の医者さんに見てもらうことにした。病院の前に着くと俺におんぶされていたユリ姫が言った。
「あのぉ…。もう一人で歩けるのですが…。」
「あ、そっか!わりぃ。」
俺は彼女を下した。姫が自分の足で立つと俺に聞く。
「なぜあなたは下民でありながら、命を懸けてまでホオズキを止めようとしたのですか?」
「なぜって言われてもな…。人が殺される理由なんてないだろ。っつうか、俺下民じゃねえし!?」
すると、彼女は暫く俺の顔をじっと見て、目を細める。
「な、なんだよ!」
「いえ、何んでも。ふふっ。」
可愛らしい彼女の笑みに、俺は顔を赤らめて病院に入った。病院に入ると羊頭の医者さんが血まみれになった俺たちを見て目を丸める。
「い、一体君はどこからこんな患者さんを次々連れてくるのですかメェ…?!」
「おっさん!こいつら傷が深いんだ!ちょっと見てくれ。」
病院に入るとソエは緊張が抜けたのか、膝から崩れ落ちてしかめた顔で左腕を握った。
「ソエ!大丈夫か?」
「シャガの娘…!軟弱な私のせいでこんな目に…。ごめんなさい……。」
「私は平気ですよ…、自分を卑下するのはやめてください…!」
ソエの言葉には俺も同感だった。
「そうだぜ?お前かっこよかったから!俺のこと庇ってくれただろ?」
「そ、それは…。でも、結局誰かをまた傷つけさせました…。私は無能すぎると思いますわ……。姫である自分が憎い。」
重くなった空気の中、羊頭の医者さんが一瞬途切れた話を紡いだ。
「さ、皆ここにいないで、まずは中へ入って怪我の手当からしましょうメェ。」
「そ、そうだな!まずは止血からだぜ!」
「そうですわね、私も手伝わせていただきます!こう見えても医術には精通していますの!」
さっきまで一人で落ち込んでいたユリ姫は、何もなかったのように自信満々な決めポーズを取って頼られたがりそうな目で俺たちを見ている。
それで、ソエと気絶している佐次郎は姫と看護婦たちに運ばれ治療を受けた。
俺は心から彼女のことを心配した。病室の外の椅子に腰を掛け、背骨を丸めて合掌していると、白くて小さな手が俺の手に当たる。その手は冷たかったが柔らくて優しい感触だった。俺はすぐ顔を上げて左を向ける。目を向けた先には黄色い瞳で俺を見つめているユリ姫が俺の隣に座っていた。
「治療はもう終わったのか…?」
「はい、無事に終わりました。ずっとここで心配されていたのですか?」
「ああ、俺があの子を変なトラブルに巻き込んじゃったから…。今回の怪我は前よりもひどかったし…。」
「海時さんは優しいですね。宮内ではあまり見ない優しい心の持ち主だと思います。」
俺はポリポリと頭を掻きながら医者さんのことを思い出す。
「白い服着てるやつらはなんでみんな俺のこと優しいって言うんだ?俺のこと好きなのか?!」
「え?えーと、それがですね…。」
なぜか俺の言葉で姫が慌て出した。俺は首を垂れて話す。
「俺は喧嘩が嫌いだ。誰かが傷つくのが嫌いだから。だから、その喧嘩を避けるために行動してるだけだよ。でも、人たちは何で無意味な争いをやり続けるのかな…。」
「それは、昔からこの世界にかけられた呪いです。」
彼女の顔が曇っていく。
「呪い?」
「はい…。その呪いのせいで、人は生まれながら誰かの上に立ちたいという強欲を持って生まれるようになったのです。王家の代々に渡る創世記話によれば、元来世界は今のように分けられていなかったそうです。」
「それって…?」
「この世界は『太初の神』と呼ばれる女神アリスタータの激怒により七つに分けられたのです。なお、女神が世界を切り分けながら呪いをかけ、世界中の人たちが力と地位だけを望む生き物になるよう感情を書き換えたそうです。そこで七つの国が混乱でまた割れてしまい、今の十四の国になったという話を小さい頃から聞かされました。」
俺は彼女の話にいつの間にか耳を傾けていた。彼女は続けて話を進める。
「それ以来、世界は終わらない戦争を今に至るまでやり続けているのです。そして、各国もいろいろな対策を考え、ここキギスも何千年も前の先代王が国のためという名分を立てて、同じ人族の中でも身分を決め、搾取を始めたのです。」
「強いものが弱いものを守るどころか、支配して言いなりにしているってことか…。」
「そうですわね…。集団を保つには優しい温情より冷血なカリスマと恐怖が効果的だそうですから…。」
俺は膝を握っていた両手に力を入れて拳を固めた。
「決めた。俺が誰よりも強くなって、この世界の不条理を全て切り裂く。」
「海時さんは私と似たようなお考えをお持ちですわね。」
「この世に死んでいい人なんていない。だから俺は敵であっても絶対殺しはしない。お前も俺と似ていると言うなら、俺に力を貸してくれ。」
俺はその時、彼女に奴商所潜入と子供たちの脱出の協力を求めた。その子細を聞いた彼女は喜んで俺の頼みを承諾してくれた。
それから、彼女の話によると、人族は心臓を貫かれるか首が刎ねられない限り、刀の傷の一つや二つで死んだりはしないという。俺は安堵の吐息を漏らして緊張の糸を緩めた。すると雉山で倒れたように全身の筋肉の制御が働かなくなり、そのまま椅子から落ちて冷たい地面に頭を打つ。
「海時さん?!海時さん!!気をしっかり持ってください!」
——また同じパターンかよ……。
周りの音は徐々に耳から遠くなり、瞼が閉じていくにつれ俺の意識も遠のいていく。