憂苦―かなしみ―
それが夢だと気付いたのは目先に自分がいたからだ。
思い出。
懐かしい記憶が夢となっている。
ヴァレルヘリカが見ている夢は当時、まだシルターニャに居た頃の記録。
彼女は記憶というフィルムから映し出された自分を客観的に捉えている。
明るくよく笑う彼女が今の自身とは似ても似つかない、むしろ別人のように思えたから。
頬を染めてはにかむ彼女が、今では信じられない光景となっている。
姫君という立場でありながら、ドレス姿で駆ける彼女を臣下達が見れば卒倒してしまうであろう。
はしたないと思いつつもはやる気持ちが抑えきれなかった。
そう、あの大樹へと向かって走っている自分。
大好きな人が、そこにいるから。
「どうした?そんなに急いで、何かあったのかい?」
大樹の傍ら、日陰に彼は腰を下ろして読んでいた本をそっと膝元に置く。
足音が聞こえていたので、ヴァレルヘリカがたどり着く前には視線は彼女にあった。
そうして、彼は手招きをして彼女を自らの隣へと促す。
「ほら、こっちへ来て落ち着きなさい。お姫様がそんな様子じゃまずいだろう」
「ごめんなさい、お父様」
彼女はすぐにと彼の隣、肩が触れ合うほど近くに座り込む。
心なしか顔が上気しているのは恐らくは走ったせいではないだろう。
ヴァレルヘリカは物言いたげに視線を送る。
それに気付いた彼は微笑みかけて
「話がしたいのか?」
彼女の想いに応えた。
嬉しさのあまりに抱きつきたい衝動に駆られたが、何とかこらえることができた。
「はい、またいつもの……昔話をお願い出来ますか?」
控えめな問い掛け。
縮こまって弱々しい彼女の姿は少女そのもので、愛おしくもある。
たがらこそ、彼、レイン・エリシオンは快く首を縦に振った。
「いいよ、今日は何を話そうか……うぅん、まだリカに聞かせていない話はあったかな?」
レインは少しだけ困った笑顔で必死に頭から記憶を手繰る。
しかし、ほとんどが吹聴済みのものばかり。
「じゃあアル、母さんとの出会いを」
「イヤです」
「即答か……」
「どうせお母様とのノロケになるんでしょう?そんなのイヤに決まっています」
頑なに拒むヴァレルヘリカ。
決まってアルテリッシュ、すなわち母親の話になった途端、話題を変えたり不機嫌になる彼女はどうも難しい。
諦めたレインはというと、自身の七騎士時代を題材に上げた。
すると彼女は目を輝かせて、食いついてきた。
「よし!!じゃあ、どこから話そうかな」
「最初からお願いします!」
「え、最初って………物凄く最初になるんだけど」
何せ七騎士時代はそれこそ師である円からの訓練から繋がるものだったため、話としては途方もなく長くなる。
さすがにそんな長時間も話すのは出来ないので、レインは一つ妥協案を出す。
「ごめんな、今日は七騎士に入った後の」
「初めから、ですよね?」
有無を言わさぬ笑顔だった。
血は争えない、そう思ったレインはヴァレルヘリカが実によく母親に似ていると実感した。
だから余計に彼女が愛おしくなり、アルテリッシュの子、自分の愛娘であるのに気付かされる。
「わかった、わかった。でも今日は夕刻までだからな、それを過ぎると俺がアルに絞られるんだから」
「………」
途端に不機嫌を露わにするのは可愛らしく思えた。
しかし、レインは意地悪するつもりなどさらさら無く
「代わりに明日も明後日も話が続くぞ?覚悟しておくことだな」
だから彼女も一瞬で顔をほころばせて
「は、はい!約束です!」
今度は抑えることなく、レインの胸へと飛び込んで行った。
レインとしても年頃の娘、それも親バカを差し引いても十二分に美人と言えるヴァレルヘリカに抱きつかれては、恥ずかしいものがある。
照れて頭を掻くが、そのまま話しを始めた。
『そう、とても幸せだった日々。儚く砕けた私の夢』
空間が白みを増し、ぼやけだすのはきっと意識が現実へと向かっているから。
夢から醒めるのだ。
いまだにぼんやりとだが、2人は笑い合っている。
寄り添う姿は幸福の証だった。
早朝
告鳥も1日の始まりを告げない時間
日も上がってない、下手をしたら夜と言っても差し支えない中、数人の騎士達に囲われてアルテリッシュはパリバートを発つために馬車へと乗り込んだ。
「お気を付けて」
「えぇ、ローゼス王には宜しくと伝えておいてくれるかしら?」
「もちろんです」
「ありがとう、ご苦労様」
「それでは」
頃合いを見計らった行者が手綱を引いた。
ゆっくりと馬車が動き始める。窓からは未だ騎士達が立ったまま微動だにしていない姿が窺えた。
「優秀な騎士ね」
「選りすぐりの精鋭達ですからね。ローゼス王からの信頼も厚いようですし」
対面に座るマリアが答えた。
独り言のようなものだったが、聞こえていたらしい。
「そうね」
相づちをうたれて会話が終わる。マリアは何となくその理由がわかっていた。
沈黙がおりた中、無言でアルテリッシュは窓の外を見ている。
誰かを待つように。
「………お嬢様と何かあったのですか?」
口を開けたマリアは率直な質問を投げかけていた。
失言だとわかっていながら。
アルテリッシュは視線を離さないまま、静かに
「えぇ、怒られちゃったわ。もう二度と顔を見せるなぁ、って。書状がリカの元にも行ったらしくてねバレちゃった」
「っ……そんな……………酷すぎます」
それはヴァレルヘリカに向けてか、ローゼス王に向けてかはわからない。
マリアの表情は暗く、こらえれきれない悲痛なものだった。
「いいの、あたしが間違っていたんだから」
その言葉にマリアは反論したかったが、彼女の悲哀に満ちた笑顔が口をつぐませてしまっていた。
重たい空気が流れる。
どちらとも閉ざした口を開けることなく、車輪が軋みを上げ、揺られながらも馬車と時間が進んでいった。
馬車がパリバートを出た時にある動きを感知したのはヴァレルヘリカだった。
動きというよりは魔力の奔流が研ぎ澄ましていた感覚に知覚した。
早朝にもかかわらず、彼女が精神集中をして座していたのは夢から醒めて寝付くことができなかったから。
乱れた髪を整え、一束に結うと彼女はやることもなく探知に入っていた。
魔術師ならば知った相手の魔力がどういったモノかが解る。
人によっての感じ方は異なり、ヴァレルヘリカの場合は色付きの水流に見えるらしい。
彼女は時間さえあれば常に探知を行い、目当ての魔力を探していた。
人物が動けば魔力に変化があるわけではない。
もちろん魔法を使用し、なおかつ知覚範囲内での魔力の入出によって初めて感知される。
そして、今、真っ赤に染まったビジョンブラッドの水流がパリバート付近に流入していた。
「来た!!」
彼女は一目散に駆け出す。
間違いない。
探し求めた目的がついそこにいるのだから。
「逃がしません、今度こそ」
冷笑する彼女はとても残酷で
「殺す」
まるで本来の彼女とは別人であった。
馬車は停車していた。
アルテリッシュが行者に無理に頼んでいたから。
彼女ももちろん探知可能で、付近であればゆうに知覚できた。
覚えのある魔力。
当てはまったのは1人しかいなく、馬車から降りたアルテリッシュは後ろでマリアが何かを言っているのも耳には入らなかった。
体が自然と動いた。
何故か宙を浮いているような感覚で、進んでいない錯覚に陥る。
実際は確かに踏みしめ前進しているのだが、ひどく長い道にも思えた。
しかし、その道のりもやがては終着点が存在する。
慣れない獣道を駆け抜け、道中の草木をかき分け、抜けた先には草原が視界いっぱいに広がっていた。
夜故に虫がりんりんと鳴いている。
今夜は満月。
蒼く照らされた草原は草が反射して幻想的な雰囲気を醸し出している。
そこにぽつんと二つの影が並んでいた。
姿形が見えずともわかる。
それらが何だかを。
誰だかを。
アルテリッシュは叫ぶ、目一杯に2人の名を、愛する名を。
「レイン!!ローラ!!」
その刹那。
丁度彼らの間に立ちふさがる者が現れたのは。
それは草原にいる三者がよく知る人物であり、最後のピース。
6つの瞳からの注目を受けながらも、彼女は内その2つを睨みつけている。
「シャイニングライド【光の軌跡】」
紡いだのは投げかける言葉でも、叫びでも、ましてや挨拶でもない。
上級魔術。
ためらいなく1人に向けて、詠唱すらない間髪入れずの攻撃だった。
最初に動いたのはもう片方の男性。
隣の女性の体を抱き込むと、素早い動きで光の魔法を避けていた。
次に動いたのはアルテリッシュ。
「シェルプリズン【鋼殻牢】」
形成した魔法陣が最初に魔術を唱えた者の目下、地に光りを放つと、一気に彼女を囲って展開された。
対象者を閉じ込め無力化させる結界魔法の一つ。
解除にはある程度の時間がかかるだろう、いくら彼女と言えども
「リカ!あなた、何を!」
閉じ込めたのはヴァレルヘリカ。
光の軌跡を放ったのも彼女。
向かいにいる2人もその様子を窺いながらも近付いてきていた。
アルテリッシュも今はヴァレルヘリカのすぐ傍にいる。
「リカ……」
「姉様……」
月光が2人を照らし、その顔をさらけ出した。
レイン、そして、ローレライ。
皆が望む望まなくとも、運命は残酷で、皮肉にもここに家族全員が揃ってしまっていた。
「くっ、邪魔をしないで下さい!」
空間が裂き槍が具現。
間もなく投擲するが、しかし
激しい金属音が鳴るのみで結界には傷一つすらない。
ならばと手に込められたら魔力
それを一点、人差し指に収束させる。
シャイニングライド【光の軌跡】
コンバージェンシー【収斂】
複合魔法。
それも上級魔術の複合を使用した二つが更なる魔術を生み出す。
「ディバインレイ【裁きの閃光】」
貫穿する光の一閃。
煌めいた時には結界を突き破り、なお勢いはやまず矛先にはローレライ
アルテリッシュが何か叫ぼうとしたが、声になる瞬間
には既に超速の光がローレライの眼前に
「な……」
いない。
確かにそこに居たはずのローレライが見る影もなくなっていた。
矛先を失い、ただ直線する光は彼方へと消えていく。
「何処に!」
左右をはじめに確認した時
「リカ!止めるんだ!」
15メートル程離れた地点。
元居たところより右に大きく距離をとったのはローレライとレイン、さらにはそこにアルテリッシュも駆けつけていた。
三者が揃い、ヴァレルヘリカのみが対立する形。
だがしかし、彼女の闘志は鎮まるどころか、逆に氣量が膨れ上がっているのがわかる。
怒りの形相。
予想だにしない、彼女の剣幕に三者はたじろぐ。
「リカ、止めなさい!こんなことって………あなた達は血の繋がった姉妹なのよ!」
「黙れッ!!」
「………っ!!」
「許せないのです。私は、その女を……殺す」
「リカ……」
力無く座り込んだアルテリッシュ。
その様子を憂いたレインは静かに問いかける。
「どうしてっていうんだ?お前らしくもない」
「…お父様」
「そんなにローラが嫌いなのか?そんなに憎いのか?どうしてだ?」
「っ、貴方には分かるわけありません。私の気持ちなど知る由も!」
「だからといって殺すのか!この馬鹿娘!」
「!!………っ、ぅ」
「お前は我が儘なガキじゃないんだ!いつまでもいつまでもローラを目の敵にして、いい加減にしろ!」
ついにはレインも激情する。
ヴァレルヘリカにとって初めて目の当たりにする父親だった。
ゆえに彼女は言葉に詰まり、一歩退いてしまう。
父親に叱られた幼い子供のように、顔を歪めて泣きそうにもなった。
「お父様、今、なんて」
「………」
「うそ。な、んで、なんで、何であたしが怒られるの?」
信じられなかった。
彼女はただの一度も実の父親から叱られることも、怒りを買うこともなかった。
初めての体験。
特別な存在だった、一番大切な人から突き付けられたらのはナイフのようで、鋭い痛みが走る。
頭を抱える。
「うそ、うそ、嘘!!」
痛みは次第に全身にまで及び、頭痛が激しく彼女を苦しませる。
呼吸もままならない。
「ぁ…ぁ………ぅ、ぅぅ」
虚ろな瞳の先。
2人が彼女を見下ろしている。レインは冷めた目つきで、ローレライは哀れみをあらわに。
「お父様、姉様が!」
「………」
「何て惨い!お父様を信じていたのに、何であんなことを……」
「お前は殺されかけたのにそんなことが言えるのか」
「姉様はあたくしにとって実姉ですのよ!姉様の苦しみはあたくしの苦しみと同義ですわ!」
言うが同時、ヴァレルヘリカのもとへ駆けつけようとするが、レインの手がそれを阻まれてしまう。
きっと睨むが、意に介さずレインは
「放っておけ」
冷酷な一言だった。
わざとらしく聞こえるように意図した声量で、さらなる深みに突き落とされたのは言うまでもなくヴァレルヘリカだ。
「ぅぅ、ぅ」
ローレライは母親と姉を交互に見やった。
どちらか一方に行かなければならないのなら、と天秤にかけるまでもなく
ひどく辛い思いをしている姉に決まっていた。
「姉様っ!」
「ローラッ!!」
あまりの剣幕に身体が強張る。恐る恐るレインを見ると、意外にも彼は負い目を感じたように暗い表情を浮かべていた。
娘だからこそわかる。
彼の思いがまる伝わってくるのだ。
「お前はアルを」
「………わかりましたわ」
ローレライは逆らうことなくおとなしく従うと、へたり込んでいる母親を連れて2人からは距離を置いて介抱にかかることにした。
残されたのは父と長女。
どちらとも口を開かないのは、開こうとしないか、開けないかは、ごく明瞭なことだった。
そのまま沈黙は流れ、徐々に意識を回復させつつあるヴァレルヘリカの哀願にも似た眼差し。
彼は真摯に受け止める。
その真意を理解しているからこそ、レインは敢えて厳しく接しなければならないことを。
「魔力の流れを探知して来たのか?」
こくり。
「目的はローレライなんだな?」
こくり。
「まだあの事を?」
………こくり。
ため息一つ。
やるせなかった。
レインもアルテリッシュも最初こそは娘の確執の理由がわからなかった。
しかしある時を境に、確執は確固たるものとなり、執拗にローレライを狙い続けることとなる。
頭を悩ませていたが、やはり本人から聞くと余計に頭が痛くなる。
「仕方ないことだったんだ。それはお前も重々承知してるだろう」
ふるふる。
「だから今は俺達のことは忘れろ、いいな?」
ふるふる。
「母さんも気を重くしてる。シルターニャに帰れ。ローゼスは………危険だ」
ふるふる。
「頼むよ、リカ」
「…………」
俯き、うなだれる。
見てはいられない娘の姿。
それでもレインは言葉を紡ぐことだけは止めない。
「俺達の立場は知ってるだろう?世界的犯罪者の烙印を押されている。もう、一緒には居られないんだ」
「どうして」
「………」
「どうしてあの時あたしを連れて行ってくれなかったのですか?」
不意に娘の面影がアルテリッシュと重なった。
成長したヴァレルヘリカは出会ったばかりのアルテリッシュによく似ているのは、嬉しくもあり、悲しくもあった。
まるで彼女が母親の気持ちを代弁しているようで。
「あたしも行きたかった。お父様と共にありたかったのに」
「リカ」
「あ、貴方は!あの愚妹だけを連れてあたし達から離れていった!」
「すまなかったと思っている」
「あたしは、あたしは!」
日が昇る。
陽光に照らされる2人の親子。
彼女の母親譲りの金糸のつややかな髪が揺れ、煌めいて見える。
素直に綺麗だとレインはもらす。
「………」
だからだろう。
それっきりヴァレルヘリカが黙ってしまったのは。
しばらくしてローレライがアルテリッシュと手を繋いで戻って来ると、3人は一度だけ抱擁を交わした。
惜しむように離れられなかったのはローレライ。
慈しむ母親に抱かれ、幸福に満ち足りた顔で2人は別れを告げる。
ただヴァレルヘリカのみが、1人佇んでいる。
太陽が昇りきった時には彼女1人が残され、声をこらえて泣いていた。