蒼眼―であい―
澄みきった空、雲一つなく晴れ晴れとした蒼天が瞳に映る。
見渡せど見渡せど続く蒼。
空はどこまで高く深いのだろうか、何故ここまで蒼に満たされているのだろうか…
そう言わざる得ないまでに、今日の青空の景色は目を見張るものであった。
「あぁ…暇だなぁ」
だが、口に出た言葉は全く関係のないことで、自分自身何を馬鹿な、と笑う。
「こんなキレイな景色をぼぉっと見る……幸せなことだよな。平和な証拠でもあるし」
物足りない。
彼の思いは心底物足りなさに溢れていた。
不満があるわけではない
今の生活は十二分と言わんばかりに満たされているし、誰もが親切、親身である。
文句などつけては罰があたるというものだ。
にもかかわらず、彼の心は鬱々としたもので、退屈でもあった。
「退屈なんだよなぁ…本当に」
溜め息一つつく。
その時、離れた所からよく響く声がした。
「おぉい!レックスゥ!」
よくそこまで声が出るな、と少年レックスは毎度のことながら思う。
走ってくる少年が自分の元に辿り着くの待ち、それを見据えて面倒くさいように装う。
「んだよ、ロイ」
ロイと呼ばれた少年は乱れた息を整えるのに時間がかかり、また焦っているのか
「はぁ、さっき!村に、来た…はぁ…んだ」
村に来た、と言われても頭には疑問しか浮かばない。
それが何だと。
こんな田舎村ではあるが、貿易商や旅人の拠り所ともなっているので、来客など珍しいわけではない。
「ちが、ちが…ぶはっ」
なお取り乱しながら呼吸がままならないロイをとりあえず落ち着かせる。
「まま、落ち着こうぜ?全然わからんから」
「あ、あぁ……」
それからしばしロイは地面にぺたりと座り、すぐに横になって空を仰ぐ。
ロイはとりわけ運動が出来るわけではない、むしろやや太り気味な体型なので人より劣ってしまう。
対してレックスは村の子供の中でずば抜けて運動神経がいい。
二人は生まれてからの親友で、そのことについてレックスは全く気にしてはいない。
「で、何だよ?」
「あ!そうだ、レックス!」
突然、ロイは顔を緩ませてにんまりと笑った。
「うわぁ……」
つい一歩退いてしまう。
「おい!何でヒく!」
「いや、あんまり変な顔をされては」
「悪かったな!」
ロイは顔を明後日の方向へと向け、わざとらしい程に怒りを露にしている。
いつものことだった。
「ごめん、ごめん」
「………ったく、人がせっかく面白い話を知らせてやろうと…ブツブツ」
刹那にしてその一言に反射したレックス。
「面白い話だって!!」
ガシッとロイの腕を掴み、今度はレックスの顔が先程のロイのようになっていた。
「なぁなァ!面白い話って何だよ」
「聞きたいか?」
ニヒルに笑うロイ。
格好をつけてはいるが、ロイも話したくてうずうずしている。
だが、レックスにはそんなことはどうだっていい。
ロイが言う面白い話にハズレはなかった。
今までの体験から確実だ。
「いよし!聞いて驚けよ!なんと…」
「うんうん!」
もったいぶりを見せる。
それもまたレックスの期待を膨らませていく。
「それは、だな」
「早くしてくれよッ!」
ごくり、と喉が鳴る。
いよいよロイから話が出てくる。
目が見開いてしまう。
「ローゼスから騎士様がこの村に来ている!!」
「ッ!!」
世界がぐらつく。
頭を強く殴られたように、身体がふらつき鼓動がドンドンドンドンと高鳴る。
ロイの言葉が聞き間違いではないか、と疑念が上がるが、生憎様あいつは嘘をついたりはしない。
ならば、答えが導かれていく。
それが求まった時には身体が勝手に走っていた。
「あっ、レックス、待てよぉ!ひぃ、早ぇよ…」
舌を出してしんどそうな顔でノロノロとレックスの後を追う。
澄み水の村、リナール。
人口300人足らずの小さな小さな村。
自然主義のため、発展を良しとはせず
ただつつましやかに、ゆっくりと時の流れに身を任せる。
簡素で貧富の差はなく、名の通り水が澄みきっていて、作物が良く育つ。
ただそれだけの村。
レックス以外の住民はこの生活に満足し、この村をこよなく愛していたし、若者たちも自ら村を離れようとはしなかった。
外に興味はあったが、何よりリナールに立ち寄る客人たちの話を聞き、いかにリナールが良い場所かを改めて知るほど。
しかし、レックスにとっては平和で退屈な村。
だからこそ客人達の話はレックスの好奇心を駆り立てた。
そんなリナールだが、前述したように多くの人々が立ち寄っている。
にもかかわらず未だ騎士という者が訪れたことはなかった。
それもそのはず。
リナールは平和だからだ。
騎士とは民を守る者。
あらゆる危険因子から、民の剣となり盾となる存在。
危険因子、リナールには当てはまらない言葉。ゆえにリナールに騎士が訪れることはないと思っていた。
だが、やっと、やっと来てくれた。レックスにとってこの上ない吉報。
村に着くと、直ぐ様騎士がいるというのがわかった。
囲むように人垣ができているのだから。
早まる鼓動を抑えて近づいていく。
集まっていた人々は騎士を一目見たいのだろう、好奇の眼差しをしている。
レックスは一心にその人垣をかきわける。
「おう、レックス!てめぇも騎士様のお顔を拝見してぇのか」
そう言うと、気の知れた大人がレックスの隣で一点を見ていた。そして、唖然とした顔へと変貌していく。
身長が低くてレックスはその場で騎士を見ることが出来ないので、さらにかきわけて進む。
だんだんと人が視界から消えていき、やがて、一番前へと辿り着く。
そして、言葉を失った。
「…………」
目の前にいた。
騎士様が。
それは想像とは遥かにかけ離れていたのが事実。
「これは騎士様。こたびはご来訪、心よりお礼申し上げます」
「堅苦しい態度はお止め下さい、村長殿。それより詳細を」
「それは………ここでは憚れます。また後程でよろしいでしょうか?」
「…了承しました。では私は周辺を散策して参ります」
「わかりました、お気を付けて」
村長と会話をしていた騎士からは女性らしい、透き通った声だった。
レックスは彼女に釘付けにされていた。
容姿が余りにも美し過ぎた。絵画から出てきた理想的な女性の姿そのもの。
余りにも麗しき容姿
輝く金糸の長い髪
どこまでも深い蒼の瞳
女性でありながら、その背丈は170を越え
騎士でありながら、露出のあるスカートから伸びる白く細い脚線。
蒼と黒のドレスを基調とした騎士の着る装束が、彼女をより艷めかしさを上げていた。
一体どのくらい時を失っていたのだろうか。
世界の中で自分一人だけが静止してしまったかのよう、全身が麻痺している。
不意に、彼女がこちらを振り向いた。
「!!」
視線が交わり、その蒼に満ちた瞳がレックスを捉えただけで彼は痺れきってしまう。
「…では、失礼します」
表情崩さず囲まれた人垣から出ようとすると
誰しもがさも当然と言わんばかりに彼女に道を開けていく。
決して皆は彼女の姿から目を離すことなく
女性までもが心を奪われているのだから。
普通であれば、美しい容姿とは一見して目を奪われるものであるが、彼女は違う。
見れば見る程に焼きついていくのだ。
「はっ…!」
気が付いた時には既に彼女は立ち去っており、姿が消えてなお余韻は残る。
「おいおい、騎士様ってのはあんな美人ばっかなのか」
「キレイ……あんな風にわたしもなりたいわ」
「……………ヤベェよ!!」
次に起きたのは彼女についての容姿に人々はざわめき始める。
と、そこに
「ぶふぅ……ゼェゼェ……レッ、クス…はっ…どうだ、ったよ?」
ロイの言葉など耳に入って来なかった。
レックスの視線は彼女の去って行った道をずっと追っていた。
「なぁなぁ、どうだったんだよ!」
「………」
「おーい、レックス?大丈夫か?」
左右に手を振っても何の反応もない。
完全に心ここにあらずの状態
「あぁ、ダメかぁ…しゃあない、他に聞いとこう」
もはや何をしても無駄だと踏み、レックスの元から離れて騎士の容姿を聞きに回っていった。
残されたレックス。
「…あ、れ、が騎士様………ッ!!こんなことしている場合じゃねぇ」
そこで我に返る。
何かを思い立ったようで、彼は即座に彼女の後を追うために駆けた。
「はぁ、はぁ……」
村から外れる森の中
小さい頃―と言っても5、6年前―はよく遊びに行っていたが、今となっては久しく感じてしまう。
随分と遠い昔のように思える。
地理を把握していると、自分ながらに自負していたつもりだかったが
如何せん
「参った、迷った…」
この森はなかなかに広いため、小さい頃はこんな奥に来たことがないのもあったが
それ以上に彼女を夢中で追いかけていたのかと若干恥ずかしくなる。
「はぁぁ、しょうがない。とりあえず歩いてみるか」
立ち止まって思案しても仕方ないので、真っ直ぐに進む。
時刻は夕方に近くなっている。
いくら馴染みの場所でも夜の森は勘弁してほしい、率直な思いを抱く。
「騎士様ぁ!どこですかぁ!いるなら返事してくださぁぁい!」
当てもないので、呼んでみても返事など返ってくるわけもなく
「見ず知らずの他人に呼ばれても、普通は返事なんてしないか」
苦笑した。
そして再び彼女の姿を思い起こす。
言葉で言い尽くせないほど、彼女の全てがレックスには衝撃的だった。
村にも一応、美人という部類の女性はいる。
だが、次元が違う。
月とスッポン、たまらずそんなことを思ってにやけてしまった。
「綺麗だったなぁ、あんな人がいるなんて…世の中は広いもんだ」
忘れられない姿。
頭の中にその映像を流しながら、進んでいく。
「あぁ、これが一目惚れなのだろうか。俺は恋をしてしまったんだ!」
なんてことだぁ
その場で一人悶えながら叫ぶ。
顔がとても熱い。
「騎士様…そうだ!名前、名前は何ていうんだろ?」
あの時、村長に聞いておけばよかったと悔やむが
よくよく考えて村長が知っているとは限らない。
ならば、
「絶対に会って名前を聞いてやる!」
益々彼女に会う意思が強まる
ずんずんとさらに進む。
しばし進んでから視界にある人物が入ってきた。
条件反射で足に力が入って速度が早まる。
間違いない。
あの姿は
「騎士さ…」
瞬間、レックスの横に高速で物体が飛んでいった。
風がレックスの顔を撫でる。
過ぎ去った時に、叩きつけられた音が大きく鳴った。何が起きたのか、訳も分からず後ろを振り向いてみると
「な、な、な」
横に過ぎた物体は人だと理解してしまう。
樹々にぶつかり、折っていったのだろう多くの樹が倒れている。
とりわけ大きい樹がその速度を受け止め、人がそこにへばり付いていた。
普通ならば確実に死ぬ。
恐ろしさにレックスの身体が震えた。
汗がだらだらと垂れてくる
「ひ、人、人が」
声を出すこともままならないまで、動揺と恐怖を隠すことができない。
冷静さなど吹き飛んでいた。
「あ、ぁ…ぁぁ」
腰が砕ける、足に力が入らなくなる
呼吸が、できなくなる。
「なんだよ、何だよ、コレ」
血が滴っている。
樹より沿って垂直下に流れる血は、人の証拠である赤い血だった。
おびただしい程の出血量。
見ただけで、胃から消化物が一気に逆流してこようとする。
それを堪えて、胃液の酸っぱい味と鼻にツンとした匂いから涙が出てきた。
レックスは顔をそらす。
余りにも自分には辛すぎる光景だった。
今なお吐き気が止まることなく、食道をさまよっている。
ゆえに背後に人がいたこと、最初に探していた人のことなどすっかり忘れていた。
「何を、しているのですか?」
冷たく、内に怒りを感じる声色。
ビクッと肩が震えて、恐る恐るに背後に立つ人物を見た。
「あ…あ、き、し様」
そこに彼女はいた。
戦慄、全身が針を刺したように肌が痛い。
何故か、彼女が彼女だと理解しきれない。
表情が、雰囲気がレックスの見た彼女と全く違っていたのだから。
この女性は誰だ。知らない、知らない。
頭が否定し続ける。
しかし、彼女はぺたりと座り込むレックスを見下ろし
「村の者か?私を追って来るとは愚かなことを」
彼を庇うようにして前に立ち、樹にへばり付いている者を睨んでいた。
「起きなさい、貴様の芝居など三流にも及ばない」
「……………く、くけ、クケケケ」
人ならざる笑い声、いや、笑い声なのかどうかすら分からないが、それは獣の鳴き声とも言える。
次に異変が起きていた。
身体のあちこちが膨らみ曲がり変形する。
嫌な音を立てて、急激に姿が鳥の形へと露になった。
「貴様の罪は最早救い為すこと不可なり。資本家、ダリウス・コーベル・スコッタン。さぁ、執行の始まりです」
彼女の手に一瞬にして剣が持たれる。
どこから現れたのか判らないが、手には剣が存在している。
構える騎士。
対峙する異形の怪物が翼を広げて地面すれすれに飛行。
人よりも明らかに速いスピード。
まず間違いなく常人ならば、そのまま鋭い嘴に貫かれてしまう。
だが、彼女は特に臆することなく剣を振りかぶり
「ケェェェ!!」
「はぁぁあ!」
怪物の嘴が騎士の身体をかすめることなく、また、騎士の剣が怪物の足を根こそぎ斬り伏せた。
転がる怪物。
痛みの余りに嫌悪する金切り声を上げているが、相変わらず騎士は冷淡に見下ろしている。
血が流れる。青い青い血が。
そこでレックスの意識が完全に覚醒した。
「あ、青い血…」
「奴らは人では無いのです。青い血は何よりの証拠」
呟いたはずの言葉は、離れた彼女から反応が返ってきていた。
思わず、レックスは叫ぶ
「何なんだよ、アレは」
反応はもう返って来なかった。
怪物が動いていたから。
羽ばたいて空へと高く上昇している。
高度に至るとそのまま騎士から逃れようとする。
「うふふ…私から逃げようとは、愚の骨頂!」
レックスは見た。
騎士の手から剣が刹那にして消え、代わりに槍が握られていたのを。
いつの間に、という言葉を発そうとした時
彼女の槍が勢いよくその手から投擲されていく姿と
驚異的なスピードで放たれた空を切る音と
数秒も経たずして身体を貫かれた怪物の叫び声が聞こえた。
一瞬の出来事。
余りにも衝撃的で、余りにも現実離れの出来事だった。
レックスは呆然としたままで、目線が変わらない。
隣を過ぎていくのが感じた。
落ちた怪物の元へと行くのか、騎士は確かな足つきで歩み始めている
ハッとする。
気付いた時にはレックスは騎士の後ろを付いて行った。
「………」
「………」
騎士は何も言わず歩き、レックスはおずおずと騎士の様子を窺っている。
ぴたりと立ち止まり、間近に怪物がいることを確認できた。
凝視するとまた、吐き気が催される。
構わず騎士は槍を引き抜き、どこかへと消し去ってしまう。
そして、振り返り
「お怪我はありませんか?」
柔らかい表情と気遣いの声色で話しかけられる。
先程までとは違う、レックスの思う彼女だった。
不意に顔が熱くなってくる。
緊張して上手く声が出せず
「だひジョーブです!」
上擦ってしまった。
恥ずかしさに余計顔が上気する。
その様子を見て、胸を撫で下ろして
「そうですか。よかった、とても安心しました」
優しい微笑みを向けてくれていた。
「…………ブッ」
そこでレックスの意識は途絶えていた
木目の見える天井。
木の匂いが心を落ち着かせ、頭が冴えていく。
ゆっくりと起き上がり、辺りを見渡す。
自分の部屋。
両親のいないレックスはロイの家に住まわせてもらっていた。
と言ってもロイの家は宿屋を経営しているので、その一部屋を使わせてもらっている。
勿論、感謝してもし足りないのが事実。
ベッドから出て、部屋をも出ると微かに隣の部屋から話し声が聞こえた。
普段は特に気にせず通り過ぎるのだが、会話する二つの声にはどちらにも聞き覚えがあった。
何より片方が透き通った静かな声なのと、片方がよく響くこの村で一番馴染みのものだから
「これは…ロイと、ま、まさか!騎士様」
ドアを開けることも出来たが、何を思ったのかレックスは耳を当てていた。
「いやぁ、それにしてもレックスも馬鹿ですねぇ」
「そう言わないであげて下さい。きっと森の中を迷い果てて疲れていたのでしょう」
「とは言ってもね、ぶふ……鼻血ブー、って何があればなるのか」
「それは私にも分からないですね」
「アイツはむっつりなんスよ」
バンッ!
「ロイ、お前に死を与えてやろう!」
ドアを開けた瞬間、ロイの視界に入ったのは般若の形相をしたレックス。
プルプルと震える身体を見て、怒りを露にしているのがわかったし、何よりも今の会話が聞こえたいた
そう考えた時、既に遅く
ロイは羽交い締めにしてぐるぐると回し始めた。
「や、やめ、やめ」
「ギヒヒ、苦しめ、苦しめぇ!俺が受けた屈辱を今こそ晴らす時じゃ」
「ちょ、お、おぇ…気持ち、ワル」
加速する回転。
にたにた笑うレックスをよそにロイは青ざめた表情になりかけている。
「オラオラ、まだまだだぁ!」
「ヒィィィィィィィ……」
「うふふ、面白い方たちですね」
この瞬間、レックスは締めをほどいた。
回転したまま放した場合、どうなるか?
簡単なこと。
ロイの身体が投げ捨てられる。
「ぶへっ……う、レックス、このヤロ……」
「み、見苦しい姿をお見せしてしまいすいません!!」
「無視か、無視なのか!」
そそくさと地に倒れるロイを後ろにして、カカトを思いっきりロイにぶつける。
「グッ、は……む、無念」
そんなやりとりを笑みを浮かべて見る彼女は
「仲がよろしいのですね」
相変わらず優しい声で、レックスに話しかけてくる。
堪らずふらっとしてしまう。
「あ、あの、俺をこ、ここ!まで」
口が回らない。
こんな動揺している自分がいるとは予想だにしなかった。
彼女は言いたいことを察してくれたのか
「えぇ、急に倒れてしまうから村まで来るとその子が慌ててこの部屋まで」
ロイを指差してまた微笑みを見せた。
「彼、貴方のことを大切に思っていますよ。あんなに人のために必死になるなんて、中々出来ないことです」
話しができるのは嬉しいが、ロイのことばかり言われて内心落ち込むレックス。
彼女は気にせず続ける。
「仲良くするんですよ?」
姉のように優しく語りかける彼女はやはり美しく、見とれてしまう。
「は、はい!」
「はい、よろしい」
つい、彼女の微笑みに酔ってしまいそうになる。
そんな余韻に浸っていると、静かに彼女の表情が真剣なものへと変わっていった。
「今日の事は忘れなさい」
突然、今までよりも強い口調で告げられた。
忘れろ、と。
言わずもわかる、あの怪物のことだというのは
「…アレは、一体」
「知らなくて良いことはあります。そう、知らなくていい…」
それは、初めて見る、女性の悲哀に満ちた儚い表情。
胸がちくりと痛んだ。
彼女の表情と、彼女とは別世界にいることがわかったようで、酷く鬱になる。
「…はい」
頷くしかないので、頷くと少しだけ悲しそうに笑って、静かに部屋を出て行った。
残されたレックスはただぼんやりと木目の違う天井を見て、盛大な溜め息をついた。
村長の家は村の奥にひっそりと建っている。
簡素であるが、造りはしっかりしていて、一人で住む村長にはその家は大きいといつも嘆いていた。
コンコン、と扉を叩く音がすると
村長ジョージアはややあってからその扉を重たげに開けた。
前にいるのは美しさを体現した女性が、真面目な顔でジョージアを見つめている。
どうぞ、と居間へと促すと彼女は頷いて後に続く。
お茶を出そうとポットに手をかけると
「お気遣いなく」
と一蹴されてしまったので、手持ちぶさたなまま椅子へと腰かけた。
パチパチと暖炉から木が燃えて弾ける音が煩わしく聞こえる。
彼女は待っているのだ。
ジョージアから話を始めるのを
少しだけうつ向いて躊躇ってしまうが、沈黙にも堪えられず
やがて重い口を開いた
「この村に御呼びしたのは他でもありません。“天魔病”についてのことで」
“天魔病”
その単語を聞いた瞬間、彼女の眉が僅かに下がった。
気づくことなく、ジョージアは続ける。
「ダリウスという資本家がこの村付近に隠れているという噂は聞き及んでいました。ですが、その件とは別に依頼したのです」
「ダリウス以外にも“天魔病”患者が?」
言うまでもなく、ただ頷いた。
「この村の者ですね?」
再度、頷くジョージア。
「村長殿、心中はお察しいたします。ですが、心に留めることは誰の為にもなりません」
長い髭を触り、苦しげな顔でうつ向いては彼女を見て、またうつ向く。
ついには観念したのか
「宿屋の主人、バークスです」
「宿屋の……症状は?」
「第…………二段階、です」
そこで、彼女の微かな溜め息がした。
互いに辛い表情を崩さず、黙り込んでしまう。
「私のせいです。私が気にも止めずにいたから…」
嗚咽を上げ、ジョージアはしがれた声で顔を押さえていた。
この歳になって泣けるとは、この村は良い証だ。
そんな場違いな考えを振りきって
「気に病んではいけません。第一から第二への移行はすぐなのですから」
「……わかって、わかっております、それでも悔やみきれないのです」
本当に良い人。
どうにかしてやりたかったが、彼女には第二段階に移行されては成す術がない。
第二段階は処分するしかないのが現状。
「彼は何処に?」
質問に首を振り
「分かりません。夜に現れるのですが、未だ誰も襲ったりしないのです」
「まだ自我が残っているのでしょう……辛いことです」
「騎士様、どうか、どうか彼をバークスを神の名の元へお救い下さい」
すがりつくように、伏して頭を地に付けた。
悲痛な思いがよく伝わってくる。
叶うのなら救ってやりたいが…
「村長殿、私は修道協会ではないので無神論者です」
そう、神など信じてどうなる。救いなどないのだ。彼ら第二段階の者たちには。
だが、せめて
「私が出来るのは苦しみから解放させることのみです」
そう告げると、踵を返してジョージアの家から出た。
その間際
「ありがとうございます」
と彼は力を絞り出して感謝を述べた。
ぎりっ、と歯を噛み締めるのが自分自身なのに驚いていた。