アイスクリーム
宗助と智子とは父親に引き取られることに決着した。兄ほどに感傷的でない智子は、宗助のように感情を表出することがなかった。時折、薄ぼんやりと中空に視線を彷徨わせている妹を見ると、宗助にはそれが凶兆の如くに思われた。こいつはなんだか、ぐにゃぐにゃしている。妹の精神的損害は、おれよりも深刻なのではないか。平素と変わらず、床に広げたノートに屈み込み無心に文様を描き付けている妹の姿は、傷ましくも恐ろしかった。
父親に車で連れられて、宗助は小学校に転校の挨拶に向かった。事務手続きは済ませてあったものの、家庭争議の波乱で宗助がしばらく学校を休んでいた為に、同級生に直接お別れをしよう、ということであった。妹の方は母親が方を付けた。車体の心地良い動揺に身を任せながら、宗助は細く溜め息をついた。
――親父も妙な気をつかうもんだ。おれのことなどみんなすぐに忘れるだろう。いっそすぐに忘れられるように、煙のように消えちまったがいい。
駐車場に車を停めて校舎へと向かう道すがら、宗助は憂鬱で仕方が無かった。担任教師は二人を準備室で待っていた。最近になって同職の男性と結婚したばかりの歳若い女性教師である。準備室のドアを父親がノックすると、内から柔らかい応えがあった。なかでは担任教師が椅子から立ち上がり、二人を迎え入れた。担任教師は宗助の様子を見るとほんの少しばかり当惑の表情を浮かべたが、すぐに父親が挨拶をしたので、そちらに視線を移した。
父親と担任は簡略な挨拶を済ませ、席に着いた。その場に立ち尽くしている宗助に、担任教師は微笑んだ。
「さ、宗助くんも座って」
宗助は頷いて、固いパイプ椅子に腰を落ち着けた。宗助は特に自分から言うことも無いので黙り込み、窓外へと眼を向けた。準備室からはグラウンドの様子が一望できた。遠く赤白帽を被った少年少女が鉄棒の前に列を成していて、順繰りに逆上がりを教師に披露しているのであった。彼らの声は届かない。無声映画のように展開される光景を、宗助は全く映画を観るような心持ちで眺め続けた。
「――で、本当にクラスのムードメーカーといった感じでした。人を笑わせるのが得意で、勘所を得たジョークで教室の人気者でしたよ。歳不相応な皮肉を言ったりもするので、時折びっくりさせられましたが。ねえ、宗助くん」
「えっ……はあ。すみません」
「いえ、怒っているんじゃあないのよ。次の学校でも頑張ってね。貴方は頭も良いし、とても優しい子だから、きっと次の学校にもすぐに馴染むわ」
「……どうも」
――優しさなんて、クソの役にも立たない。頭の良し悪しも、状況に関係するだけ。結果が良好なら、むしろ馬鹿の方がよっぽど得に違いない。頭が良いというけれど、おれは勉学はからきし駄目だ。結果しないのなら、無用の長物だろう。
そんな斜に構えたことを考えた。宗助は俯いたまま、担任教師の顔を正視することができないでいた。教室で生徒に対するのとは幾分異なる表情がそこにはあった。生徒の父親に対している為でもあろうが、それだけではない。職分を離れた一個人としての感情が湿潤な面貌に露となっていた。ちらと見た担任教師の顔は、今までに見たこともない程に優しく、慈愛に満ちていた。
「クラスの子は今グラウンドで体育をしています。最後にあの子達にも会ってあげてください。それと宗助くん、これはクラスの皆からよ」
そう言って担任教師が宗助に手渡したのは、ファイルなどを入れる大判の茶封筒であった。表には宗助くんへ、五年一組、と印刷されたシールが貼ってあり、随分と重量があった。裏面を確かめると、そこにはクラス全員の名前がそれぞれの筆致で記されていた。宗助は虚を衝かれて絶句した。
「全員分の手紙が入っているの。大事にしてね」
父親と宗助とは立ち上がった。
「それでは先生、ありがとうございました」
父親は宗助の背中を軽く叩いた。担任教師は宗助が何事かを口にするのをじっと待っていた。窓から差し込む物憂い微光を背に、佇む担任教師は今どんな思いでいるのだろう。若い既婚の女性は、このような場面で何を思うのであろう。表情は窺い知れない。
――まるで俳優にでもなったみたいだ。おれもドラマの一登場人物なんだ。
「じゃあ、さようなら」言って、振り返りもせずに宗助はその場を辞した。
父親と二人で廊下を歩きながら、宗助はちっぽけな復讐を遂げたような心持ちであった。
グラウンドに向かう途中、父親は車で待っていると言い残して駐車場へと別れた。宗助は一人、茶封筒を抱え夕日の拡散するグラウンドへと向かった。授業はとうに終わっており、担任の代理教師と共に同級生は一団となって彼を待ち続けていた。宗助は苦笑いをしながら、ぎこちない足取りで彼等の元へと歩み寄った。幾人かが、宗助に走り寄った。
「宗ちゃん、本当に引っ越すの」
「ああ、色々あって、引っ越すことになった」
別の少年が言う。
「でも、となりの県なんだからすぐに会えるらあ。電話するから番号を教えてや」
宗助は父親の実家の番号を口にしながら、地面にそれを書き込んだ。友人達はそれを幾度か復唱し、「友達なのに、変わりはないだもんでな」莞爾と笑い、そう言った。
――何回、電話があることだろう。そのうち掛からなくなるだろう。おれもきみらの名前を忘れるだろう。
去り行く者にとって、時間の速力は残される者に対し決して等速では有り得ない。概して、その初速において残された者は去る者に追いつくことは叶わない。宗助は彼等を思い出のなかに封印するのでなかった。失うこと恐さに、残酷な手付きで捨て去ろうとするのである。彼は自らの短い半生の全てをそのように放擲しようと考えた。それは失うものがなにひとつ無いという、矛盾に満ちた恍惚であった。
通り一遍の挨拶が済むと、なにを話し掛けたものか言い倦んでいる同級生に手を振って、宗助は父親の待つ駐車場へと向かった。グラウンドに残された生徒達は、代理教師の合図があるまでの間、しばらく無言で宗助の背中を見詰めていた。
「辛かったら、会いに行ったっていいぞ。お前のお母さんであることに変わりはないんだから」
車に戻ると、先程聞いたような台詞を唐突に父親が溢した。宗助はシートベルトを締めながらそれに答えた。
「必要ないよ。ともかくおれは親父についたんだから。それにおれが会いに行かなくても、智子が会いに行くだろう。そちらはあいつに任せる」
父親は顔を顰めた。車はスタートした。車は街道を走り、細々と続く迂路に入った。それは夜間、父親と二人でドライブをするコースであった。
「――俺はな、母さんのこと愛してなかったんだ」
父親の不意打ちに、宗助は頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。目の前で赤や白の光が続け様にぶちぶちと爆ぜた。事実かもしれない。宗助は台詞の言外の意味を考え付く限り高速で数え上げた。ともあれ、父親の迂闊は詰責されてしかるべきものであったろう。
「……そうかい」
宗助の口から出たのは怒声や吃音ではなく、簡潔な一語であった。父親も宗助も、今や家族の誰もが、打ち捨てられたゴミ屑のように疲れ果てていた。誰を面責できたものであろう。車は父親と宗助を乗せて行く当てなく夜道を滑走した。
宗助は咽喉が渇いたからアイスを買ってくれと頼んだ。父親は頷いて、コンビニエンスストアで彼にアイスクリームを買い与えた。宗助はそれを受け取り、駐車場のブロックに座り込んで食べ始めた。チョコミントのアイスを頬張りながら、彼は大声あげて泣き出したいところであった。一向、涙は湧いて来なかった。
――人間なんて馬鹿げたもんだ。大したものじゃない。反動的な関係式から成り立つ畜生だ。これを聞いて、大人達はおれを小馬鹿にするだろう。お前はふてくされているだけだ、世の中を知らないだけだ、と。それはそうだ。おれは十歳そこらのガキなんだから。でも、違う。ふてくされているだけじゃない。おれはこれから色々の経験をする。大人になる。そうして大人の知識と見解からこれを眺めるようになる。それで自分のあの時の実感は間違いではなかったと再確認する。この、途方もなさ。感情に大人も子供も関係ない。おれ達をつき動かすものはなんだ? ただ、喜怒哀楽が転がってゆく。それだけだ。
両親の肉体的特徴が子供に受け継がれるのなら、どうして両親の運命が子供に受け継がれない訳がある。おれはすでにこんなにもこだわっているじゃないか。一年前にはこんなことを考えもしなかった。いつかおれの番がやってくる。おれ特有のケースがやってくる。おれはそれを解決しなくちゃならない。吐き気がする。
アイスクリームを食べ終えると、運転席で待つ父親の元に向かった。運転席で待っている父に目を走らせた宗助は、車窓に映り込む自身の顔つきに息を呑んだ。それは幽鬼のように蒼白で、憂悶に暗く沈んだ、厭な目付きであった。
「明日には婆ちゃんち行くから、仕度しておけよ。母さんに挨拶するのなら、店に寄って行くけえが」
翌日、荷物をまとめた父親と兄妹は郷里を後にした。母親には会わなかった。