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蒲公英  作者: 東間 重明
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境界跨ぎ


 仏壇の前に座る父親の背中を静かに見詰める、その度に宗助は気味悪かった。文献を読んで感じ入る求道的な厳しさをその背中には感じ得ず、むしろそこからは人間本来の持つ陰惨な陰りが観ぜられた。手段の目的化による沈静、果ても無い自己への転落、自家撞着……。


 人間の生き方にはなにか一つの純潔が必要であろう。殊に宗助や、彼の父親のように過剰な自意識を持ち、夢想的な人間にとって、それは重要なものに違いなかった。いかに消極的な手段であろうとも、その道徳を守っている限りは自らの人間性そのものに向けられる自己の眼からは逃れることができるのだし、自らの対峙すべき運命の如きもまた、形式の進行から観て解消されるようにも思われる。


 肥大化した自意識と潜勢する被害者意識は無意識のうちに合理的な理屈を精製する。自分が被害を被ったという意識は精神を受容的に変質させ、不安の記憶は心の深層で凝結、顕在化し、以降生じた欺瞞によって強引に捻じ曲げられ、脚色を加えられ、培養される。心的体験としての事実は再構成され、当人にとっての正当な意味を持つようになる。絶望から自己を救う為の心的規制。終局的にはそれは当人を救い得ない。この手法では無理がある。だが、少なくも当人の主観においてこれは錯覚ではない。他ならぬその手法に依って自らが救われると信じるのならば、彼は無理にでも過去の体験や知識、あらゆる既得物から適当なものを選出し、定めし安息を手に取ることだろう。また、そうあらねばならないのであるから。内閉した形式におけるアタラクシアに、彼はなによりも自己の自身に対する観測の眼を解消しようとするのである。それは目的無き学問、信仰心無き信仰と、選ぶところがないではないか。


 幼少期の宗助の心中にこのような思索が在った訳ではなかったが、言葉にならずとも直感的にこれを思った。父のこれは、恐らく宗教などではない。嗚呼、そうか。そうなのだ。父の信仰とは、救いとはなにか。救いが無いから、救いを求めるのだ。救いを求めるということは、救いが無いということなのだから。救われたと感じるのは本人が救われたと感ずるが為、それを完全に信じきる為には絶対的なにかが必要なのだ。絶対的なものがなにひとつ無い。それに耐え切れないから、必要なのだ。神は存在するのではなく、存在しなければならないのだ。しかし、その信仰対象たる神は本物なのだろうか。


 ――それは少なくとも、おれの知っているものとは異なっている。人の姿なんてしていない。人間のことなんて気にも掛けない。なにも救わない。多分おれだけの、そして誰にとっても同じもの。ただ、あこがれと屈服を強いるだけの神様。おれ達をこの地表にぶち倒すもの。おれ達を否定するもの。そうして、おれ達の命と同化している要素。神と呼ぶのもおこがましい、ボウジャクブジンなそれを、おれの神としよう。おれはもう祈らない。


 宗助は父の背中に胸の内でそう呟いた。報われることは無い。それでもその前に額づくことが、恐らくは信仰の本義なのだと、宗助は気が付いた。万事、たったこれだけのことだということ。ただの、技術だということ。それが、あらゆる事柄に通底するということ。彼は信仰を手放した。


 程なく家庭は破綻し、僅かにその形式的名残りを留めているばかりであった。母は夜毎酒に酔い、自宅に帰り着くと寝ている宗助に覆い被さり、彼に酒臭い接吻を与えた。彼は無言でそれを受けとめた。唇や頬に、母の厚い唇が押し付けられる度、重ったるい油が付着した。母が横で寝息を立て始めると、宗助は顔に付いたグロスを手の甲で拭いながら、じっと天井を見詰めて涙した。


 信仰への疑義がそうさせたのか、その頃の宗助はしばしば家族の目を盗み、皆が寝静まった頃合いを見計らってはそっと寝床を抜け出し、夜道を徘徊するようになった。


 田舎の夜である。夜露に濡れた木々の濃密な匂いと、星の瞬きのような虫の声。土の匂いのなかに微かに夜明けの兆しを含んだ、丑三つ時。生来恐がりな性質であるのに、乏しい街灯の薄明かりのなかを宗助はそぞろ歩いた。――街灯にぶっつかっては跳ね返り……、それを飽くこともなく繰り返す、羽虫の群れ。


 足は自然と闇の濃い方角へと向かっていった。


 辿り着いたのは以前友人と悶着のあった神社であった。つきよみさん、つきよみさん、と地元の人間に呼ばれる八幡神社である。伏目がちに黒々と浮かび上がった鳥居を潜ると、一瞬宗助は立ち竦んだ。殆ど街灯の光も差さないのに、拝殿へと真っ直ぐに続く参道が妙に白々と眼に浮かんだのである。宗助は手をシャツの裾で拭い、思い出したように横手の手水舎で手を洗った。神道にまつわる幾つかの逸話と、太陽と月の神についての雑多な知識を思い起こしながら、参道の脇を拝殿へと向かった。


 拝殿で手を合わせるでもなく、宗助は欄干に身をもたせて座り込み、眼を閉じた。夜は彼に親密であった。月、月の神、裏返った太陽……。取り止めもない連想を続けるうち、次第に眠気に堪えられなくなり、彼も周囲と同じようにゆっくりと静かになっていった。


 ふと、なにかを感じて、宗助は眼を開けた。なんの気配もない。幾らか時の経った境内は青白み、されど変わらず閑寂と静まり返っている。――宗助、と、はっきりと名を呼ぶ声が聞こえた。それは両親の声ではなかった。誰か知らぬ、性別もはっきりとしない、しかし、湿潤な優しさそのものといった、耳に心地良い声であった。それは拝殿を回り、本殿よりも先、鎮守の杜から聞こえて来るようであった。


 宗助は奥深い杜に分け入った。朝露に湿った土。頭上に覆い被さるように参差する太く歪曲した枝々。御神木と、子供の手で乱れた注連縄。呼び声はより明瞭に。深閑とした杜に、宗助の足音が高く響く。杜は開けた。


 杜の外れに細く溝川が流れていた。そうして分かたれた対岸より声は聞こえていたのだった。落ちかかる暁光に、露を光らせ赤々と、夥しいまでの彼岸花が乱れ咲いていた。


 ああ。宗助は両手で眼を覆い、くずおれた。



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