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蒲公英  作者: 東間 重明
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銀の猫


 ――ねえ、人間は死んだらどうなるの。


 物心つくかつかぬかという頃、宗助は誰となくそう尋ね回ったことがある。そのような年齢に不相応な質問をする宗助に親戚や周りの者は、これは悪い影響が出たかな、と考えないでもなかったが、割合に屈託の無い調子で話すものだから、これも幼時の好奇心から突発的に湧いて出た話題のひとつで、然したる意もないことだろうと適当に返事をした。当の宗助は与えられた答えに、じっと相手の目を見据えながら、ふうん、と息を零した。


 現在の拗曲した宗助と違い、多くの人間と同じようにその頃の彼もまた、性格の根調は同じであっても、全体の調子は幾分明るかった。幼時特有の無防備と好奇心を見境無く発揮し、誰となくすっと親近するあの気安さである。未分化であり、固着観念を持たない分、成人した者に比して幾分透徹しているようでもある。


 先の問いであるが、なにも宗助少年に考えのなかった訳ではない。ただ、彼は大人達が思うようにはこれを発しなかった。彼は死んだらどうなるのかを知りたかったのではなく、大人達が死んだらどうなると考えているのかを知りたかったのである。そうして、そのような問いを発する以上、宗助には相応の見解があった。


 ――死んだら、おわりなんだ。それは先がないとかそういうことでもなくて、おわり、ということなんだ。ぼくはぼくにむかんけいなんだ。


 問いを受けて、大概の大人は天国地獄といった判り易く観念的な話を、残りの者は儒教的な倫理道徳の絡め手できた。教説を諄々と説く大人達に対して、子供相応に扱われているな、と宗助少年は感じた。千篇一律で、彼が求める手応えが無い。それでも、突き詰めて話をしようとは思わない。このような齟齬を解消するのは面倒臭いと感じるのである。なにより、それは本当なの、と大人からすれば随分可愛げないことを口にするのも憚られる。それで内心物足りなくはあっても、外面的には不充足を感じさせないような顔で黙っている。宗助自身の言語能力も未発達なので、自然、宗助は自らがなにを不足に思っているのか理解できないし、説明も出来ない。徒に焦慮するばかりである。


 懈怠な終末思想の醸成に先んじて少年の抱いたある終末感とも呼ばわるべき一感覚の芽生えを描出するにあたっての好例が、当時自家で飼っていた愛玩動物達の急死であった。その頃自家は母親が方々から迎え入れた動物が右往左往する有様であった。保護欲の旺盛な彼女の、或いは心中の寂寞を埋めんが為か、それらは日増しに数を増していった。柴犬一匹、ポメラニアン一匹、インコが二匹、三毛猫が一匹、かてて加えて母親が快く承諾するのを良い事に、宗助が虫籠一杯の蝶々だのコオロギだのをどこからか持ち帰ってくる為に、自家はさながら動物の見本市と成り果てた。時に飼い猫が外で子を身籠ったらしく、大きな腹を揺らしながら久しぶりに家に帰ってくると、押入れに入ったままそこを動こうともしない。どうにも、ここに尻を据えて出産にあたるつもりらしいぞ、と父が言う。出産が近づけば気も荒くなろうし、過度の接触がストレスになって産んだ子猫を喰らってしまう親猫もあると言うから、しばらくはそっとしておいてやろうということに決まった。子猫を喰らうという凄惨な事例に宗助はそんなこともあるのかと眉根を寄せたものだが、当の親猫は随分惚けた猫であったから、事によると自分が妊娠していることすら気がつかないでいたものかもしれない。好き放題に餌が食べられると思ってか、しきりに押入れの隙間から顔を出してはにゃあにゃあと催促を繰り返した。二週間ほど経ったであろうか、何時もは煩いくらいの催促がないなと思っていると、夜半にたどたどしくか細い鳴き声が聞かれた。父が押入れを開けて、やあ、生まれた、生まれた、と宗助を手招きした。駆け寄って見ると押入れの暗がりのなかでは、布団の上に横になった親猫の腹に掌に収まるほどの子猫が必死に吸い付いていた。小刻みに身震いしながら乳房を無心にまさぐる小さな稚い毛玉が三つ。宗助は目を輝かせて父に訊いた。


「生まれた! もう、さわってもいいかな」


「いや、まだよそう。子猫を取り上げられると思ったら、それがストレスになるだろう? だから親猫がもう時期だと決めて、おれ達の前に子猫を連れて来たらその時にね」


 宗助は逸る気をぐっと堪えて、暗がりのなかを名残惜しそうに一瞥した。覗き込むようなこの格好からでは、子猫の仔細までは判然としないのである。いったいどんな顔付きをしているのだろう。どんな気性をしているのだろう。毛色や毛並みはどうだろう。面通しを心待ちにその日はなかなか寝付かれなかった。


 日が変わると、しかし宗助は我慢ならず父の忠告を無視してそっと押入れを開いた。暗がりに母猫の眼がきらりと光った。気だるそうに短く鳴く。滅多なことにはなるまいと高を括って、宗助はそろそろと引き戸を開いて産屋に上体を押し込んだ。確かに三匹の仔猫が母猫のそばにころころとしている。母猫と同じ三毛と丸々とした黒猫、そして同腹とは思えぬほど兄妹に比して弱々しい青みがかった銀毛の仔猫とであった。母猫はこちらを気にするでもなく仔猫に乳を与えながら、手近な仔猫を舌で時折愛撫してやった。


「あんたいい加減にしておきなよ。ダニが湧いてるに、服に移っちゃうよお」


 呆れた母親に止められるまで宗助は押入れに籠もっていた。彼は生まれた仔猫のうち、銀毛の仔猫を偏愛した。そこで他日押し入れを覗き込んだときなど、横になった母猫の乳房に吸い付いている三毛と黒に押し出される格好になっている銀毛の仔猫を認めると、他の二匹を母親の乳房から引っ剥がして場所を空けてやった。漸う銀猫は母猫の乳首を探り当てるけれども、吸い付き方が拙いのか力が足らないのか、要領悪く口の端から白い乳をとぽとぽと零した。成長もこれは随分と遅い。他の仔猫に数日遅れて銀猫が目を開くと、それは硝子細工のように薄青い静けさを湛えて脆く澄んで、見つめる宗助に不思議な共感を生んだ。なにか途方もない哀切な情が少年の胸を磅礴した。それは精確な投影として銀猫の腺病質な眉宇に漂い、結晶するものと見えた。宗助はこの美しい仔猫にふさわしい名を与えようと考え、自分の語彙にせめて印象に適う西洋人形のような名を与えた。人間的なものは全て、人間に在らざるものにより明らかであった。宗助は童話や物語に於ける人と動物のやわらかな交感を思った。この銀猫を父母にも増して恋しく思った。太陽や風を孕んだ午後の光線、刃物の切っ先や鉱石の充実した稜角により近親の情を覚える感性が、宗助を一個のいたいけなシンボルに強く結びつけた。そうして、銀猫に与えた名が女の名前であったことにはたと気がついて、銀猫を掌にひっくり返してみると、果たして銀猫は牝の猫であった。


 ――そうだ。そうにきまっていたんだ。とてもよくかんさつされた花言葉みたいなネコだ!


 してみると、これが宗助少年にとっての初恋であったかも知れぬのである。滑稽とは言え、思うがままという自他同一の一点に於いて。少女の愛が模倣ならば、少年の愛は風船のように膨らんだ空想と自己愛とであった。


 あまり宗助が猫に執心なので、飼い犬がこれに嫉妬してきゃんきゃんと良く吠えた。母親が買ってきた血統書付きの由緒ある牝のポメラニアンであったが、生まれの他になんの取り柄も芸もない駄犬であり、性愚鈍にして食い意地ばかりが張り、丸々と肥えていたことから、母親によってマルという不名誉な名前を頂戴した。一度父親が飲ませたビールに味をしめてからは、晩酌の折など喧しく催促をする。人の足にしがみ付いてはへこへこと腰を揺する癖があり、浅ましいこと夥しい。気が向けば庭に出してやって宗助がボール遊びの相手をした。足に纏わりつけば宗助はそれを邪険に振り払い、鼻面に手荒くボールを放ったり、余程遠くに投げやったりしたが、きっとどうにかボールを宗助の元へ持って帰った。またへこへことやりだすので、後はこの繰り返しである。そんな懸命で純粋なだけの犬だった。


 小学校が休みの日、朝方に宗助が祖母と一緒に犬と猫たちを庭に出して遊んでいると、父親が車のキーを弄りながら玄関から現れた。


「ちょっと今晩の会合の打ち合わせに、島田さんの家まで行ってくるから、お腹が減ったら婆ちゃんになにか作って貰って」


「わかった」


 長屋造りの住居の前は駐車場を兼ねた広々とした空き地であった。整地されていない為に雑草が好き勝手に生え、近くを流れる溝川の傍には金木犀だの枳殻だの、アロエや夾竹桃だのが乱脈に植えられている。その近くには黄色いワーゲンが放置され、長い間風雨に曝されて所々に錆を浮かせている。この車は宗助の叔父のものであったが、今は廃車も同然の扱いであった。最もこれは宗助の知るところではなかったから、専ら子供らの遊び場として機能した。祖母などは宗助の相手に疲れると、鍵の掛かっていないのを良いことに度々運転席に乗り込んでうつらうつらと昼寝をする。この日も煙草をぱかぱかやっているうち眠り込んでしまったらしい。宗助は頻りと父親に土産をせびってから、犬や猫を玄関脇に連れて行って、邪魔にならないように父が車を発進させるのを見送った。やがて車が敷地を出ようと大きく弧を描いて走り出し、前を通り過ぎようというとき、タイヤが地面を一際強く噛んで、がりがりと音を立てた。


 家に戻ろうと足元を見やったとき、銀猫の姿が見当たらなかった。僅かに離れたところに銀猫は横倒れになっていた。車までの距離はそれでも五、六メートルはあった。宗助は静かに銀猫に歩み寄った。頭からほんの僅かに血を流し、ちっぽけな赤い舌を口蓋から覗かせて、銀猫は既にぴくりともせず死んでいた。確認をしてから始めて宗助は呆然と虚脱した。


 ――なんでだ?

 

 母猫が銀猫に近づいて、何度か口元を嗅いだ。錐で突かれたように、涙が溢れた。


「ばあちゃんっ。ばあちゃん!」


 銀猫は祖母のハンカチに包まれて部屋に運ばれた。銀猫の前に座り込んで身動ぎもしない宗助の背中を祖母は幾度も撫でてやった。数時間すると父が戻った。事の仔細を祖母から聞いた父は言葉もなく端坐する宗助に当惑した。


「きっと、タイヤが弾いた小石が頭に当たってしまったんだな」


 返事もない。硬い拒絶と謂れのない責めに父親は焦れた。


「ごめんな、宗助」


 それには宗助も口をもごもごやって曖昧な返事をした。父親はそれを態度の軟化と見た。


「なんというか不幸が重なってしまったんだな。偶然とでもいうか……。正に美人薄命といったところだな。この猫が一番綺麗だった」


 ――なんてことを言うんだ……。なんてことを言いやがる!


 これ以上の八つ当たりは無様になろうとの分別が尚のこと悔しくて、宗助は歯噛みしながら泣き続けた。


「庭に埋めてやろう、宗助。お婆ちゃんの菜園を少しばかり借りていいかな」


「おう、そうしな。宗助も一緒に埋めてやりに行こう、な」


「埋めてやった後に、なにか花の種でも植えてやろう。今度は花に生まれ変わって、ずっと長生きするよ、宗助」


 ――生まれかわり? なんだそりゃあ。それじゃあこのネコはなんのために生まれてきたんだ。バカにしやがる! そんなあほうなことがあるか……。このネコにそんなことは関係ないじゃないか。そんなことは周りのものにしか関係しないじゃないか。全部が全部、どうにもならないじゃないか……。ちくしょう。ちくしょう。


 菜園の土を掘って、タオルケットに包まれた銀猫をすっかり埋葬する頃には、宗助も大分気が落ち着いた。


 ――そうだ。だからこれは全部ぼくの勝手なんだ。これは感傷だ。ションベンみたいななみだを流したんだ、ぼくは。一回きりのネコを、ぼくはどうにもできゃしない。ばかみたいな話だ……。だけどきれいなままで死ねたんだから……。そう考えるということは……。


 ――死んだら、おわりなんだ。それは先がないとかそういうことでもなくて、おわり、ということなんだ。ぼくはぼくにむかんけいだ。ネコはネコにむかんけいだ。


 宗助少年は民間に広く敷衍された天国や地獄、そういった判り易い概念を殊更に蔑視するほどに、自らの思想的部分に直接手を加えて操作などしていない。そういった改良を後々加えていくことになるのか知らないが、ともかく、自身のこの見解はなにより先に立ち現れる事物の根っこだという認識でいた。つまりは揺ぎ無い原理がこれにあり、分化されたものが宗教的認識なのだと考えている。生と死の平仄を合わせる為の紐帯がどのようにして形成されるのか。またそれは概念や技術を超越し得るのか。


 早熟、というよりは意識の焦点が異質なのであるが、以来彼の頭のなかにこのような思索が醸成され、片時も離れることがなかったのには、やはり少なからず家庭の環境が関係したのであろう。

 


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