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蒲公英  作者: 東間 重明
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浸水

 

 夕暮れ近くになって俄かに天気がぐずつき、日の沈みきるあたりから雨が降り出した。駐車場のアスファルトにびしゃびしゃと叩き付けられる雨音に耳を傾けながら、宗助は輾転としていた。花屋から帰った後は、だらしなくベッドに横倒れになっていたのである。宗助はそのまま眠ろうとした。ところが、心事から逃れる為に意識の途絶を行おうとすればするほどに、その対象たる意識は鮮明に覚醒してゆく。雨音が、間断なく聴覚を叩く。宗助は掛け布団を蹴り上げて起き上がると、勢いそのままに電話にかじり付いた。


 番号をダイヤルして、呼び出し音が鳴っている間、宗助は自分の暗記している電話番号を数え上げてみた。それがただ二つだけで、片方は実家の番号であり、もう一方は長田の実家の番号であるということを確認したところで、先方が受話器を取り上げた。


「はい、園部ですが」少しばかり癇のある高い声が応えた。


「あぁ、婆ちゃん。宗助だけども」


「あぁ、なんだ宗助。元気でやってるのかね」


 相手が身内であると知ると、世の女性の倣いで祖母の声音は一オクターブも低くなった。反対に本心に後ろめたいところのある宗助は、普段のぼそぼそと覇気のない喋り方に比して、幾分力を込めてはきはきと喋り出すのであった。


「うん、元気だよ。問題ない。そっちはどうかね。智子が婆ちゃん、眼の手術したって言ってたっけが」


「うん、大変だったけどね。その後の経過も順調でね。特に問題もないよ。ちょっとは心配だったけど、お陰様でね。やっぱり健康が第一だよ。幸いキリちゃん達も一緒だからね。これが一人きりだったら、生活にちょっと不安になったかもしれないね」

 

 祖母の述懐にあるキリちゃん達とは、園部の遠縁にあたる桐島の人間のことであった。今年の初めに自宅から出火して焼け出された桐島の人達は、諸々の始末がつくまでの間、園部の実家に身を寄せていたのである。正月に妹の智子から近況を報じられて以来、宗助はそれを忘れていた訳ではなかったが、あれからしばらく経つので、方々の整理も一段落したことだろうと予想していたのである。ところが祖母の口振りから察するに、こちらの経過は芳しくないらしい。聞けば家財一式丸ごと炎に呑まれてしまったという。そうそう簡単に落着することではないのは、当然といえば当然であった。


 さてそうなると、いよいよ宗助は暗澹たる心持ちになった。ただでさえ苦しい活計をやりくりしている善良な人間から、おれは金を引き毟ろうというのだ。傍らには家を焼け出されて困窮に喘いでいる人間があるにも係らず、それを尻目に厚かましくも金の無心をする。宗助はほとほと我が身に恥じ入った。そうして、ならば思い切りよく厚顔無恥を曝け出してやろうという気になった。無論、そんなものは詭弁に過ぎず、だからどうということもないということは明白である。それは精神の機構というよりは、もっと童子的な感情の突き上げ、技巧を離れた単なる癇癪であった。


「それはなによりだね。キリさん達も順調に行くと良いが。それで、今日電話したのはね、啓三っていただろう、おれの同級生で。あいつが結婚したんだよ」


「へえ。啓三くんが。早いもんだねえ」


「うむ。それで、今度名古屋で挙式するそうだ。おれも呼ばれているんだけども、色々不都合があって、金がない。ちょっと貸してくれないだろうか」宗助は妙に権高な口調で一息に喋った。ややあって祖母が口にしたのは、宗助の予想だにしない台詞であった。


「そりゃいいけど……。ちょっとって、いくら?」


「えっ?」宗助は情けない声をあげた。

 

 そう簡単に話が纏まると思っていなかったこともそうだが、一体に自分はどれ程の額を借り入れる積もりであったのか。感情に任せてここまで来たは良いものの、宗助はそういった部分にはまるで見当を付けていなかったのである。改めて聞かれてみると答え難い。といって、答えなければ主意が立たない。宗助はしばし懊悩した。


「いや、三万くらい。できれば。可能であればそのくらい」結局口から出たのはこのように曖昧な返事であった。


「くらいくらいってあんた。まあなんとか都合してみるからね、また連絡するから。それよりあんた、仕事は大丈夫なの? そっちの方はしっかりやってるの」


「うん。やってるよ。問題ない。それから名古屋へ行く中途にあるんだから、そっちに寄るよ。また近くこちらから連絡するから」


「まあそれなら良いけどね。仕事は忙しいくらいで丁度良いんだからね。頑張ってやりなよね。それじゃあね」


 電話を切ると、宗助はその場に凍りついたように動かない。重苦しい沮喪がそこに宗助を固く縫い止めていた。先のやりとりは結局、弥縫策を糊塗するような結果に終わった。これでは全面的な解決にならず、一向進捗したとは言えない。なにか物を売って金に変えようか。宗助は周りを見渡した。あるのはがらくたと汚らしい古本の山ばかりである。到底買い手のつきようもない。


 ――とにかく電話はしたんだ。それでいいじゃないか……。


 宗助は立ち上がると、衣服を脱ぎ捨てながら、蹌踉として浴室に向かった。温いシャワーを頭から被ったところで、熱湯に肩まで浸りたいという欲求が強く働いた。出直して湯を張るのも億劫であったので、宗助は空のバスタブに入り、シャワーを固定して自分に向けると、ひょろ長い手足を浴槽の外に放り出したまま腰を落ち着けた。熱湯が頭に降りかかり、飛沫を上げる。表の雨音とシャワーの水音が一体となり、耳朶を打った。


 次第に湯が溜まり始めると、下腹部にじっとりと快い熱が浸透する。水位は上昇してゆく。表面的な意識は解けてゆく。湯が肩まで達すると、ゆっくりと宗助は顔を浴槽に沈めてゆく。音は遠のいてゆく。その音の印象から、宗助は沛然と降りしきる夏の雨を思った。遠くそれを聴いている自分を思った。不意に閉じた目蓋の裏に赤い塊りが閃発し、宗助は飛び上がるように身を起こすと、そのまま浴室のガラスがひび割れんばかりの咳を繰り返した。恐らくは無理な姿勢で気道を圧迫した為に。一つ咳をする度に、新たに一つ咳を引きずり出すような発作。厭らしい棘を引きずり出すような咳。そうして、宗助は浴槽の湯に少量の血を吐いた。それは金魚の尾のように湯のなかにたゆたった。


 ――は、は、は。まるで小説の主人公のようだなあ。自然主義亜流、それも三流の。


 使いかけの髭剃り、水垢の付着した風呂桶、手拭、ちびた石鹸……。水音、雨音、叩きつける音……。それらすべてが身に余るほどの倦怠と疲労を抱え込み、ただ己が存在の内に重苦しく死体のように閉じ篭っている。宗助は息苦しさに身を硬くし、眼を大きく見開いた。――空気が薄い。呼吸がうまくできない。浴室が密室であることを意識すると、更に酸欠状態は悪化した。仮に浴室を脱したところで、ロシアの細工人形のように、また一回り大きな密室が用意されていて、それは仮寓している住居を逃れたところで、延々続くのではないか。生れ落ちたときに酸素の高は決まっていて、それは限度以上に増えることはなく費消されるばかりで、巨大な密室を抜け出てこの建造物の全容を捉えることもなく、とうとう窒息死してしまうのではないか。


 圧迫と疎外のうちで、宗助は脳髄に熱いしこりのような炎の表徴を観じる。湯を手荒く掻き混ぜると、性急に浴室を出た。依然、呼吸は困難なままである。棒立ちになった宗助の全身から水滴が滴り落ちる。身体を拭うでもなく、嵐が過ぎ去るのを待つように、胸に手を当てたまま、床の埃を呑み込みながら拡がっていく水溜りを見詰めている。



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