キャンディ
宗助の借りているアパートは小高い丘の中途にあった。丘を削り取るようにして整地されたところへ隘路が錯綜し、土地勘のない者は例外無く道に迷う。最寄りの駅までも大分歩かなくてはならないし、なにより部屋の目前は絶壁であった。そんな利便性の悪い立地が災いし、一階、二階合わせて二十部屋のうち、実に八割が空室である。僅かな入居者のうち、隣室に住んでいた男が一月前に夜逃げした。そのときに置き去りにされた家具が、室外に運び出されたまま放置されている。木製のカラーボックスにベージュのソファ。心身になんの蟠りもなければ、打ち捨てられたソファに腰を下ろし、陽光の浸透に陶然としながら、眼下の何気ない眺望を愉しむ気にもなったのかもしれないが、今の宗助はとてもそんな気分にはなれなかった。宗助はどうかすると眼を背けたくなる生活の必然に追い立てられ、性急に歩を進めた。アパートを絶壁の際に沿って迂回し、共同の物干し場に出ると、そこではたと宗助は足を止めた。
――おれはどこに行こうというんだ? どこに行っても同じ事なのに。
やにわに宗助の思考は停止した。最前の暗鬱とした思索も立ち消え、切れ目の無い線のように組成された思考がぷつぷつと破断する。断片的なイメージが脳裏に瞬間的に浮かぶばかりで、どうにか点綴しようと心を擬しても、対象はつるりと鰻のように宗助の意識から逃れてしまう。ただ、何事かを想起しようとする意力だけが、捉えるものもなく空しく流れていった。宗助は阿呆のようにその場に悄然と立ち尽くした。
しばらくまんじりと地面に視線を落としていた宗助であったが、そうした心の空隙に、不意にひとつの対象が鮮明に浮かび上がった。それは宗助の意想外の威力をもって彼の視覚を揺さ振った。年来花をつけることも少なくなった、観賞用に植えられた白加賀梅の根方に、一株の蒲公英が生えていたのである。
――蒲公英だ。それも多分、日本蒲公英。花の数が少ないし……。
鋸のような葉、背の短い茎の上に乗せられた極単純な色彩の花。特徴を数え上げながら、宗助は快い素朴な感動を味わった。錯雑とした宗助とは対照的に、蒲公英は如何にも屈託なく、駘蕩たる春光のなかに悠揚として分明であった。
宗助は動植物の図鑑を熱心に収集していた幼少時を回顧した。熱帯に棲む極彩色の動植物。眼の覚めるような色合いの毒蛇や毒蛙、または異様な造形の深海魚。そうした色彩の連続から、宗助はふと近頃読み返した梶井基次郎の『檸檬』を思い起こした。自らの脳裏に次々と浮かんでは消える色彩が、梶井の檸檬に結実する。宗助は自らを梶井に重ね合わせ、それを胸の内から取り出すように模った。一顆の檸檬に凝結された、水の滴るような清新な詩情……。ぎゅっと引き締まり、破裂する寸前のように緊張に奮えている、充実した形状。金管楽器の音色のように冴え冴えと明朗な色調。あの染み透る冷たさ。宗助は順調にそれを取り出した。
しかし、その見事な玉石はやはり宗助のものではなかった。どこまでも自然であり間然するところのない、一切の虚飾を離れた詩情は、やはり宗助のものではなかった。彼は自らの手にした檸檬が、すぐさま変質してゆくのを確かに感じ取った。それは既に中身を失った、観念の死物に過ぎなかった。
落胆のうちに、他人の詩で自らを偽装することが叶わぬと知ると、宗助は意識の対象を足元の蒲公英へと向けた。これは蒲公英だ、と口に出してみる。単純で呆けたような色合いや、強固な感じ。座り込んで蒲公英を凝然と見詰めるうち、宗助の胸に表象された蒲公英は次第に知覚された蒲公英そのものから遠ざかっていった。これは蒲公英だ、と宗助は再度口にする。すると、言語は蒲公英自体を通り越して、なにか観念的な表象に向けてするりと身を交わしてしまうのであった。宗助はそれを追走する。花。花のイメージ。花の世界を思う。それは薄墨を刷いたような宵闇に玲瓏と月の冴え渡る、凍てついた寂寞の世界。鉱石の冷たさを象嵌した夜気と、清澄な小川の調べ。無数の花、花、花……。全ての表面にまとわりつく等質の闇のなかで、深々と降り注ぐ月光に向けて身を開き、物憂げにひっそりと己が身を横たえている。人間は夜露に溶け込むようにして消え去り、遠い記憶の甘やかな情趣のように、花々の周りにたゆたう。宗助はこの空想を一頻り弄んだ。不完全な小世界に僅かに慰藉されて、宗助は行動の指針を得た。
――花を買いに行こう。今のおれに少しでも心安いものを。快い綺麗なものひとつ。
こんな閑寂とした夢想に慰撫されて、不思議に充足している。なんのことはない、この夢想はおれ自身の心の表象なのだから。情けないことだ。そう思いつつも、宗助は最前の夢想を手放そうとはせず、街の中心へと向かって坂を下って行く間にも、飴玉かなにかのように、あくどい人工着色料に塗れたその味わいを幾度も確かめるのであった。
街の中心とはいっても多くは大学生が住む下宿街であったから、必要最低限の日用品の他に娯楽を求めるのならば、電車に乗って隣町まで足を運ばなければならない。娯楽品にも贅沢品にも用向きのない宗助にはそれで十分であった。駅前の商店街には不動産屋と飲食店ばかりが軒を連ねており、宗助の目当ては大分奥まった場所に店を構えていた。この時世に誰が花を買うのだろうと、宗助は疑問に思わずにはいられなかった。自分にしてからが、普段花などを買い求めるような人間ではなかった。それでもこの街に住み着くようになって七年、以前として変わらずここに在るということは、それなりの需要があるのであろう。
軒先には眼に鮮やかな、それでいて慎ましい花々が鉢に植えられていた。スイートピー、金蘭、ライラック。これらの花々の名を、宗助は鉢植えに括りつけられた名札から知った。名札には各々の販売価格も併記されていた。名のみ、姿のみ知っていた対象が、こういった情報によりひとつに結び合わさると、宗助は些か興を削がれた。
――なんだか息が詰まるようだ。どの鉢にも名札と値札がぶら下がっている。おれは花の名前など知りたくない。おれが覚えた花の名前が全て頭から消え去って、この鉢植えの名札も一掃されたなら、花屋の光景はどれだけ気持ちの良いものになるだろう。
宗助は印象の強いアネモネの鉢の前に座り込み、八重咲きの真紅の花弁に見入った。薄く眼を細めると、印象派の絵画のようなぼってりとした色彩の塊りのなかで、アネモネは神話の体現のように、熱い血の滴りの如く蕩けてゆく。
「あの、なにかお探しですか」
突然、横から声を掛けられて、宗助は反射的にその場に立ち上がった。見ると自分のすぐ横に女性店員が作りかけの花束を片手に立っていた。女性店員は宗助に一声掛けると、作業台のようなところへ花束を置いて、再度宗助に向き直った。先程鉢植えを前に薄ぼんやりとしていたところを目撃されていたかと思うと、宗助は顔に血が上るのを感じた。
「いや、別になにか探している訳じゃないんです」後頭部に手をやりながら、要領を得ないことを言う。
「はあ。なにか欲しいものがあったら言ってくださいね」
女性店員は店内に引っ込み、作業に戻ったものの、時折宗助の方をちらちらと観察しているようであった。視線を感じながら、おれはそんなにも挙動不審に見えるのだろうか、と考えると宗助は心細くなった。早いところ買い物を済ませて帰ろうと、適当な鉢を物色するうち、宗助は家に財布を忘れていることに気が付いた。ズボンのポケットを探る。なにもない。ジャケットのポケットには小銭が三百円と部屋の鍵、裏面にびっしりとメモ書きされたレシート、それから居酒屋のマッチが入っていた。宗助が女性店員の方を見ると、やはりあちらもこちらを見ていた。宗助は苦々しい顔をして、花屋を後にした。