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蒲公英  作者: 東間 重明
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報知


 先日、宗助の元に結婚式の招待状が届いた。それは宗助の中学校時代からの古い友人からであった。小奇麗な封筒のなかには会場案内と出欠の如何を書き記す為の紙片、それから返送用の封筒と、私達、結婚します、という至って単簡な常套句と、出欠の如何はできれば今月中にははっきりと知らせて欲しいという旨を記したカードが封入されていた。名古屋の有名な式場で挙式するようであった。


 さて、身から出た錆とはいえ、勘考するに現今人生のドン詰まりに沈湎する自分は顔を出して良いものか。酒と病苦に苛まれやつれ果てた面を式場に持ち込むのは、先方にとっても些か不体裁であり、こんな尾篭な者と懇意にしています、と縁者一同に紹介するような真似は体面上宜しくないのではあるまいか。肉の落ちた頬と病的に落ち窪んだ目元を鏡で確認しつつ、宗助は逡巡した。なにより、肉体の疲弊は挙式に向けてなんとか回復に持ってゆくにしたところで、自らの精神の不健康がこういった場面に著しくそぐわないように思われた。


 ――おれはなんだか夢うつつだ。こんな状態で心からの祝福ができるだろうか。


 そんなことを考えながら、行くとも行かぬとも片の付かぬままに幾日かが過ぎ、今度はまた別の友人から電話が掛かってきた。同じく郷里の旧友で、長らく親交のある長田という塾講師からであった。


「啓三の結婚式には当然出席するだろう。啓三は僕らにとって特別な友人だからね。まして僕らの仲間内で一番に結婚する訳だよ。先登を勤める者があの啓三だなんて、夢にも思わなかったがなあ。でも、順当といった感もあるね。それで、ご祝儀は皆一緒の五万円にすることにしました」


 しました、と断言をされて、実際宗助は受話器を片手に戦々恐々とした。一年以上も前に半ば自暴自棄で職を廃して以来、宗助は一切の実入りも無く、どこをどう探しても五万円など出て来る訳がなかったのである。ばかりか、神奈川の片田舎から名古屋までの電車賃、当座の小遣いなど、ざっと計算しても十万円近くは必要であろう。少し前に自分で泣き笑いしながら救急車を呼び、搬送された病院での入院生活に掛かった代金、薬代、滞納している保険料。支払うべき払いは幾らでもある。実際上の喫緊はメンタルではなく、物理的な不足をどう才覚するかにあった。


「なんとかしてみる。出席はするよ。行こうかどうか悩んだけど、やっぱり行きたいから行くよ」


 宗助の消息に幾らか通じている長田は、電話の向こうでしばし忖度するようであった。「……そうか。祝儀はな、無理に合わせろとは言わないからさ。近々、他にも結婚する奴が出てくるだろう。その時の懐具合で金額があまりばらばらになると悪いかなと思って、仮にそう決めたんだ」


 宗助は苦笑した。ともかく、出席すると約して電話を切った。


 そうして今日に至り、未だ金策の目処の立たない宗助は芋虫のように寝床から這い出ると、大きく伸びをした。ぽきぽきと枯れ枝の折れるような頼りない音が関節から響く。ベッドの端に座り直すと、幾らか具合の良くなった頭を撫で摩りながら時計を確認した。時刻は午前十一時を指している。どうやらあれから丸一日寝込んでいたものらしい。


 さてどう都合したものかと考え出せば、起き抜けではっきりしない意識の上にも、厭わしい生活の苦渋は雨水のように落ち掛かる。宗助は知己に対する罪悪感に胸が塞がる思いがした。出席すると口では約束したものの、方途がつかない。彼はここにきて自らの窮状に対する懶惰に身勝手な憤りをも感じていたが、奮起する元気もない因循な性質により、思考の内で泥を引っ掻き回すように低回した。そうして散々行ったり来たりを繰り返した挙句、誰か人に金を借りることに決着すると、惘然と電話に手を伸ばした。当てといっては、実家の祖母くらいのものであった。


 ――金、金だ。金がおれの友誼にも傷をつける。思えば啓三の親父が死んだときにも、おれは纏まった金を包んでやることもできなかった。あれだけ世話になったというのに。無論、金で実意が購えると確信できる程に人間が腐っている訳じゃない。ただ、金の威力をおれは知っている。おれはそれを憎悪している。如何な天然自然の実意であろうとも、金の力で如何様にも捻じ曲げられ、変質してしまうことを知っている。金がなければ理が通らぬ。そうして金を憎めば憎む程に、拘泥する。それに正比例して罪悪感は増してゆく。おれは啓三の親父さんの死顔をまともに見ることもできなかった。そうして今、老いた祖母からなけなしの年金を口八丁で奪い取ろうとしている。おれは屑だ。そこまで金の必要を認めるのなら、幾らでも金を稼げば良い。金の稼げる方法を採れば良い。金の為に? つまりは生活の無能力を馬鹿げた憤懣から説明しようと言うのだ。しかし、それならおれは……。なんだか胡乱でわからない。


 宗助の思考は空転した。自分自身でも訳の判らぬままに、実に厭だなあ、などと嘆息する宗助は単に潔癖なだけで、金銭に対する明察だとか、厭世的な思想から物事を判じるのでなかった。彼は自己の経験から、そして感情の縺れから推論し、結論を演繹するのであった。当然論理は縺れ、混濁してゆく。要するに、彼は絶対的なものに拘泥するのであった。そうして己の信ずる絶対的ななにものかを、自らの望む見当へ「そのままに」押し込もうとするのである。前提からして主観によるものだから、論理も糞もあったものではない。宗助はこのような愚鈍な性質を薄々気付いてはいるものの、面と向かって対峙する度量は有たなかった。もしそれが出来得るのならば、妥協点を模索し、水のように姿形を臨機応変に、自由闊達に世間を渡り歩いて行けたであろう。しかし、不幸なことに平々凡々な宗助が唯一他に際立っていることと言えば、怯懦にして狐疑するこの自らの劇症であり、より犀利な一面はその性質からして他者の怯懦と詭弁を見抜くことにあった。故に、宗助は自身の望まないものを、より多く感得することになる。そうしてますます自らの迷妄に絡め取られてゆくのである。一体に彼は行動の意力に不安の残る男であった。そうして今も、手に掛けた受話器を下ろすと、上着を羽織ってふらふらと、行く当てもなく室外に足を運ぶのだった。



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