蒲公英
翌朝、宗助が目を覚ますと、礼服に着替え終わった秋山が、
「まだ一階で飯食えるぞ。長田と井本がビュッフェなんだって言ってた。コーヒーとパンが食べ放題なんだってさ」
「飯はまだいい」
着替えを済ませると、秋山と二人連れ立って部屋を出た。ところへ、丁度朝食を終えたと思しき長田と井本に鉢合わせした。
「起きたか、朝食はあと二十分だから、食べるなら急いだほうが良いぞ。それから秋山、昨夜は宗助が随分不自由していたぜ」
それとなく先夜の行動を窘める長田であったが、当の本人は何を言われているのか解らぬ様子で、宗助の方を向いて小首など傾げている。なにも夜が明けてから蒸し返すこともあるまいに、と苦り顔の宗助は秋山に答えることはしないで、荷物をまとめて観光に出ようと皆を促した。
ホテルをチェックアウトして一行の向かった先は名古屋城ではなかった。雨に煙る城郭にはそれなりの風情のあることだろうが、反対の意見を通してプラネタリウムへと向かった。道中、思いの外人足の多く、待ち時間が長くあるので、併設された科学館へと入る。
中では特別興行として科学的お化け屋敷が催されており、興が乗った一同は日本家屋風のスペースへと進入した。これといって新奇な仕掛けもない造りで、和式便所から飛び出す生白い手首だの、暗い居間に突然点灯するブラウン管テレビだの、生温い吐息や風など、言わば常套的な仕掛けばかりなので、驚きはしたものの、ただそれだけのことだった。
屋敷を出るとそこは展示スペースとなっており、人間はどのようにして恐怖を感じるのか、そのメカニズムを科学的に考究するという趣旨で様々なボードが掲示されていた。屋敷を迂回する形で順路を進むと、丁度屋敷の横合いに位置するところへ、意味有り気に暗幕の掛かった小部屋があった。
一同が暗幕を潜り抜けて小部屋へそろそろと入ると、そこは壁面に無数のモニターが並ぶ、お化け屋敷のコントロールルームであった。
つまり、お化け屋敷を探索する者は、その初手から第三者に全てを覗き見され、ここぞという機を図って見えざる復讐者が操作する仕掛けに、一喜一憂する様を余さず目撃されていた訳だった。更には、操作室の横合いにはこれからお化け屋敷に挑もうとする人々の待機列が見渡せるような造りになっていて、秋山などは面白そうに機械仕掛けのお化けの手を操作しては嬉々としたものであったが、宗助はモニターから目を逸らして一人つくねんと同行者の飽きるのを待っていた。
「どうした、やらないのか宗助」長田が手を招いたが、
「およそ最低の仕掛けだ! それだけに良く出来ているのがまた腹立たしい」とますます顔を背ける始末。
また、真鍮製と思しき巨大な歯車式機構の前に、宗助と井本は釘付けにされた。大小様々な歯車やベルト、その他の部品から成り立つこの構造物は、他に展示された品々から遠く離れた部屋の隅に、過たず精確な挙動を碌々として刻み続けていた。
「なるほど、ここのベルトの動力はここから来てるみたいだ。一見すると前面の歯車から来ているようだけれど、ほら、ベルトの裏面に仕掛けがある。これはちょっと見ると解らないね」
井本は技術者らしく部品の連結や各部の詳細を検めていたが、隣に立つ宗助はまた別様の思案に暮れていた。
――何故、動き続けるのだろう。井本の言う、各部の連結とはなんだろう。錯視をも利用した巧妙な連続性、不連続な歯車の、相互に連関した回転と、他力による回転ではあるものの、それ自体不連続な、独立した回転。この科学展の意図とは詰まるところ、人間という化け物に科学のメスを入れ、更に滑稽な怪物を作り出そうという試みに尽きるのではないか。人間の喜劇化、機械化、目の前の歯車式機構がそれを最も明瞭に物語っているではないか。真鍮が軋みを上げる機構には、時計としての機能も、文字盤のような装飾もない。この機械に目的などないのだ。そうして、これを無目的の表象と見るおれの心象といったものも、この四角い箱に蒐集された展示物のひとつという訳なのだな。しかしそうすると、ああ、無意味が無目的的行為と同質化するという地平もまた、徹底的に徹した究境頂ということではないのだろうな。
観光を終え、土産物を買い求めると駅で井本に別れ、帰路に着いた。地元の駅まで同道して、一度は長田や秋山と共に電車を降りてみたが、心になにか目的のあるでもない。近くの本屋で車中の消閑に文庫本を一冊購入してから、しばらく郷里に身を置き、骨休めをしてから帰るつもりだと口にして、二人に別れた。毛頭、そんな心積もりはなかったというのに、そんな意味の無い言句が口を衝いて出るのはどうにも可笑しかった。宗助には、郷里に身を預けるということも、旧友との同道にも、心苦しいしこりを絶えず感じていた。友人の後姿が夜の街路に消えるのを見届けると、宗助はそっと踵を返して、逃げるように電車に飛び乗った。押し広げた文庫本の適当な項は徒に目を滑り、車窓からの景色に目を向けても、なかなか素直に心が伸し掛かってゆかなかった。
最寄り駅に着き、降車すると、なんとかこれで責めを塞ぐことは出来たと安堵した。すると、旅の疲れが全身から滲み出て、その所為か知らぬが、両手足に痺れがあった。視界が妙に狭く不明瞭で、頭痛がした。家に近づくにつれ、ますます具合が悪くなり、だんだん坂に差し掛かると、視界の端々にきりきりと明滅するものがある。形象とて判らぬが、宗助はそれを真鍮の歯車と観じた。両の手は肩口からだらりと脱力して、ぴくりとも動かず、最早感覚とてない。
坂を上り詰めると、おれは誰かに見られている、と切迫した強迫観念に駆られた。宗助は慌しく周囲に視線を泳がせたが、あたりは深閑として人の姿、虫一匹の気配とて見当たらぬ。すると、宗助には尚のこと、この視線の在り処を突き止めなければならぬ気がして、雨後の冷たいぬかるみに激しく足音を躍らせて、憑かれたように近く山林を跋渉した。このおれを掴んで離さぬ魔力はどこから来るのだ、どこから……。
無感覚な肉を引き摺り、荒びた様子で息をつき、立ち止まった宗助の目前に、月明翠柳の趣、雨露を吸い、詰屈とした枝振り黒々と、天界に手を差し伸ばす白加賀の梅、ひたひたと宗助にひとつの予感の押し迫り、むしろ愁然と頭を垂れたその先、足下の濡れ土に泥を引っ被り、うっすりと光って見える、蒲公英。あっ、と短く宗助は声を上げた。
旅立ちの先、宗助を愉しませた、この小さく、いとけない花、蒲公英は闇の中にひっそりと息づいて、死物の如くねっとりと充実して、なにも訴えかけてはこない。この夜に、蒲公英はなにものでもない。耳鳴りがする。
――なんでもないのだ。素材に過ぎぬこれらは。どのように健康な表象も、また残酷な表象だとて、抽出可能な、これはおれの空無だ。
素材、素材だ。すべてこの蒲公英と同じように。只に素材であるに過ぎない。自分もまたそのようなものなのだ。寂寥感。自分を頑なに拒む事物に囲繞されている。押し潰されそうだ。
だのに、おれはここから逃れられぬ圧触を感じてもいる。じわじわと迫り来る吐き気と共に。
自分を見つめる視線の魔力は、この得体の知れぬ蒲公英の内に在ると宗助は了解した。その魔力は今、音も無くその触手を伸ばさんと身震いしている。
瞬間、風が吹いた。ろうそくの灯火のようにか細く頼りない宗助の意識は一息に吹き飛ばされる。存在の空白に、眩暈と、狂おしい期待。蒲公英から、鋼鉄のラインが伸びる。射貫かれた宗助は総身を粟立たせ、電流に撲たれて身を竦ませる。蒲公英を中心として螺旋を描くように事物が生き生きと現象する。それは音律のように、事物が、そしてここへ立つ何者かもまた只一度きりの旋律へと化生する。音律の螺旋はその先端で事物を鮮やかに分節してゆく。目眩く蚕食の切っ先に、辺りは宝石をぶちまけたように、燦爛と世界は産出される。今や世界は別ち難く親密であった。
歓喜の涙を滂沱と流し、身体を引き攣らせ、吐瀉物を撒き散らしながら、宗助は地面に頭から倒れ込んだ。
恍惚の時は瞬く間に過ぎゆく。蒲公英は退屈な蒲公英に、退屈な人間もまた然り。ほんの一、二分、意識を手放した宗助が目を覚ますと、妖花には光輝煥発見る影もなく、後には殷々たる沈黙を湛える月下の一草。
――生きてはゆかれない。
地を匍って、宗助は蒲公英の花を引き毟った。それだけでは満足せず、手指が汚れるのも厭わず、泥中に爪先を立て、地中深くにまで真っ直ぐに達した細く強靭な根をぶちぶちと捻じ切った。涙ながらに赫怒して、
――これがおれの、毒酒の一盞だ。これがおれの福音だ。
宗助は今一度、あの致命的な問いの前に召喚された。これに、今こそ犯罪者のひたむきを以って、答えよう。そう思った。