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蒲公英  作者: 東間 重明
25/27

獣の夜に


 二次会の会場は如何にも知己には親密な木調で統一されたバーであった。そこで静かに酒を飲んで、途中新婦の具合が悪くなったので三次会の予定は流れた。啓三たちに別れると、まだまだ飲み足りないから飲みなおそう、と秋山が提案して皆がこれに頷いた。土地勘もないことだから、変な店に入るよりもホテルで飲んだ方が良いだろうということに決まって、啓三が手配したホテルへと向かう途中、コンビニエンスストアで酒を購入した。手配されたホテルの客室は二部屋で、宗助は秋山と同室と決まった。各々荷を解くと、宗助たちの部屋に集まり、車座になって三次会の運びとなった。


 宗助が瓶ビールを片手に栓抜きを探して右往左往していると、秋山が意気込んで名乗りを上げた。


「ちょっと貸してみな。これぐらいなら歯で開けられるから。なんせ、肉食系ってやつだもんでな」


 それなら頼む、と宗助がビールを手渡すと、秋山は飲み口をしっかりと咥えて、歯を剝いた。かしり、と実に小気味良い音がして、瓶から冷気が立ち上る。銅色の王冠を口に咥えて、少しく得意な様子の秋山を、宗助たちは頻りに囃し立てた。


「やあ、凄いもんだな」と宗助。


「流石は肉食ということだね」と井本。


「看板に偽りなしだな」とは長田の言であった。


 宗助は返されたメキシコビールをぐいと呷った。ビールの強い酸味は火照った頭に蟠った疲労を幾らか洗い流してくれた。しばらく談笑に興じていたところ、その様子を見るともなしにベッドに伏して雑誌に顔を突き込んでいた秋山が、やおら意を決したように面を上げて、三人に宣言した。


「いいか、おれは女を買おうと思う」


 三人は同時に目を瞠った。まさか車中の言を本気とも思わずにいたところへ、突然にそう口にされ、宗助は眼前になにか唾のようなものを吐きかけられたような気がした。秋山は言ってしまってから、いかにもバツの悪そうな様子で風俗雑誌に顔を隠しながら、


「言いたいことはわかる。友達の結婚式の夜になんてことをしやがるんだって言うんだろう。おれだってそう思うよ。でもおれは決めた。なんて言っても買うね。こんな旅行の夜にだよ、お前らには旅情ってものがないの? そんなことだから、草食だのなんだのと言われるんだ。ここは買うしかないって、誰か一緒に買う奴はいないのか」


 弁解がましい口吻の秋山に、宗助は非難の目を向けはしなかった。欲望に忠実な友人を低劣とは思わなかった。けれども、そんなことはどうにも面倒に思われた。この雨を衝いて女を買いに出る自分を想像するだけで、うんざりとした。それは人を一人殺害するよりも難しく思われた。


 ――崇高なものに魅されるように、下等低劣な欲求にもいとも容易く篭絡される、そういった趣味をおれは持っている。一方によって他方が刺激されるというような、二極的、もしくは二項対立的な図式ではなく、むしろ混然として不分明な二重所属性でそれはある。おれの目に偶さか映り込み、しばしば衝撃を与えるイメージとは、云わば不意打ちの内在性の表出に他ならない。それは花弁を毟り取られ、遂に生殖器を剥き出しにされた西洋蘭であり、毒々しい憂鬱なスカートを履いたジギタリスであり、秋山の口から排出された宣言であり、一時でも倫理道徳の番人とでもいうような顔をおれに強いるもの、そうして秋山にとっての、おれ達の一瞬の動揺なのだ。秋山が今、自分を恥じているように、一個の男女の象徴に内在する動物性に感化されたとして、何の不思議もない。一体祝福と屠殺に、どれだけの違いがあるだろう。


「買ったら良いだろう。おれは要らん」宗助は秋山に素っ気無く答えた。


 残り二人も同じ風であった。だったら断然買うぞ、おれだけでも買うぞ、と妙な具合に気炎を上げる秋山の心情を斟酌すれば心安い軽口も出てくる。それでどんな女を買うのかと雑誌を閲していると、秋山が気の強そうな女の写真を指差した。よく見ると欄外にデリバリーヘルスとの一語が見え、同室の宗助が一番に声を上げた。


「まさかお前、女を買うって、ここに上げるつもりだったのか」


「えっ、駄目なの?」秋山はきょとんと目を瞬かせた。


「駄目ってことはないが……」


「外は雨が強いからなあ。出来れば来て貰いたいんだよ。宅配は始めてだし、興味があるんだよね」


「実家暮らしで呼ぶ訳にはいかないからなあ」と、相槌を打ったのは長田であった。根本が謹直に出来ている分、足を踏み外さない限りに於いての放埓に長田は寛容な人物であった。


「なんならここで三人、見ててやろうか」と、井本が茶化す。


「部屋に入ったなり、女が逃げちまうよ」と、宗助。


 婚姻と狂宴の対比を宗助は少しく面白くも感じた。同室の誰もがそれを脳裏に思い描いたことだろう。友人は雨の降りしきる初夜に花嫁を侵し、我々は一室に横たわり身を開く娼婦を犯す。いずれ越境行為には違いないそれらに、アイロニカルな諧謔を認めて。


 けれども、よくよくと考えてみれば大して面白くもなく、つまらない空想であることが宗助に知れた。それは行為の如何ではなく、行為の深度による裁定であった。


 ――人の信奉する認識というものは常にふらついている。酒を飲み過ぎたように。人を酔わせるものはなんであれ酒精なのだ。殊に良酒を理念と呼び、卑近猥雑を以って悪酒とす。そうして酔いが覚めればまた平生の自らに呆然と立ち返る。肉の饗宴は確かに侵犯のオルギアには違いあるまいが、跨ぎ越したその先から有用ななにものかを、覚醒の明けの地平へと持ち帰ることは今の自分には出来まい。尤も徹底して悪辣にこれを成し遂げたのならば別かもしれないが、いずれにしてもおれにそんな体力はない。


 そうしているうちにも秋山は雑誌に掲載された先方と連絡を取っていた。電話でこのホテルに宅配することは可能かと確認すると、割合に有名で物堅いホテルなので、女を上げることは難しい、とのことだった。それでも未練がましく電話口にかじりつく秋山の粘りが功を奏したものか、ともかく上げられたら上げるという約束で、女を一人手配した。お客様のお名前とお部屋番号を、と尋ねられ、秋山はつい自分の名前を口に出しかけて、


「部屋は宗助で取ってある」と、井本の忠告を受けて宗助を名乗った。


 どちらにせよ女がフロントに確認すれば判ることなので、同室の者が一名あるが、外出する予定であるので問題はないとの旨を伝えると、配達時刻を告げて電話は切られた。これで女が部屋に上がれるか、目算はどうにも低く思われたが、秋山の満面の笑顔を見ると、水を差すのも忍びない。


 秋山が部屋に女を待つ間、宗助は長田たちの隣室へと避難した。途中、いい加減な雑談を交わして、お互いの近況を報じるうち、自然と話頭は宗助の直近の事情へと転じた。すなわち、画業で身を立てるという目標を持って郷里を捨てた宗助の、六年に及ぶ実りのない無為な変節について。


「おれは宗助のしてきたことを、無駄だったとは言わないよ。努力は評価されるべきだと思うしね。けれど、成果が伴わなければ結局のところ、仕様がないとも思う」立ち行かぬ宗助の芸道を井本はそう評した。


「実があるかは別として、それでもおれは宗助にはゆけるところまで行って欲しいかな。どこまでゆけるものか、見てみたいと思う」長田はそう口にする。


 そう言われては押し黙る他ない宗助であったが、会話がややともすると重くなり勝ちなところへ、機を図ったかのように秋山が度々訪れては、やれ風呂に入ったから準備は万端整っただの、今女が事業所を出発したところだのと要らぬ報告をしに現れた。その度に面々は苦笑いをしながら一言二言を投げ返してやった。


「珍しく緊張でもしているかな」


「なに、浮ついているだけだろう。なんといっても旅情の夜とのことだから」


 しばらくして頃合だろうという時分に、長田と井本が眠気を訴えたので、居場所のない宗助は仕方なく、ベッドを寄せてシーツに包まる二人の間に横になった。


「随分と静かだな。これは失敗したかな」井本が言う。


「どちらでも良いさ。がたぴし音がしないだけで充分だ。明日は皆で少し観光でもして、ゆっくり帰ろう」


 明日の旅程を話すうち、間もなく長田と井本はうとうとと寝息を立て始めたので、宗助も眠ろうとしたが、身体は疲れ切っているというのに、目ばかりが冴えて少しも眠れない。僅かに開いた二台のベッドの隙間に尻が挟まって落ち着きなく、宗助の神経は苛立った。不意に息苦しくなり、宗助は寝床を這い出して、せめて同室の二人に気取られぬよう浴室に身を隠すと、震える指先で可能な限りの照明を点灯して、バスタブに凭れ掛かると、その場に倒れ込んだ。心臓は早鐘を打ち、窒息してしまいそうで、宗助は胸を掻き毟りながら皓々と照らされた浴室の床へ頭を押し付け、蛇のようにのたうち身悶えた。


 ――おれは何故こんなところにいるのだ。こんな雨夜、異化の夜に、友人の下の世話をし、堅いベッドに尻を挟んで、床の上にのたうち回り、こんなにも息苦しい思いを、何故おれはじっと耐え忍ばなければならないのか。


 もう、帰ってしまおうか。そんな考えが浮かんだ。電車はもうない。路銀も潤沢ではない。それでも、ゆけるところまで。見知らぬ街頭に朝日を拝む羽目になろうとも、ここにこうしてあるよりは余程のこと上等であろうとまで考えた。そうして宗助はそれを半ば遂行する気持ちで上着を掴むと長田の部屋を出て、荷物を取るために自室のドアノブに手を掛けた。秋山が女を呼んでから三時間近くが経つ。行為の中途ということはあるまいが、仮にそうであったにしても構わぬ。手荷物を引っ掴んで早々にここを立ち去るだけのことだ。宗助はノブに力を込めた。しかし、扉は開かなかった。チャイムを押したが、内からの応えはない。鍵は秋山に預けてある。宗助は頭を抱え、ドアを乱暴に殴りつけると、踵を返してエレベーターホールにある喫煙所へと向かい、ジャケットから振り出した一本に火を点けた。


 窓外にばらばらと音を立てる白く細い跳躍のなかを、ビル灯と工事車両の赤い灯が音もなく眠たげに瞬いている。肺一杯に紫煙を吸い込み、宗助は脳裏に浮かんだ僅か暗誦することのできる一篇の詩を、吐き出す煙と共に口中に誦した。


 永遠の蒼空の 朗らかな皮肉は、恰も

 もろもろの花のごとく 無關心に美しく、

 懊悩の 實を結ばぬ砂漠のさなかに、自らの

 天分を呪つてゐる無力の詩人を 壓倒する。


 遁れながら、眼を閉ぢても、蒼空が 俺の空虚な魂を、

 悔恨ほどの強烈な力で地面に打ち倒して、睨めてゐるのを

 俺は感ずる。 何処へ逃げよう。そしてどんな兇暴な夜を

 投げようか、この苦痛を與へる侮辱の上に、粉々に、投げつけようか。


 ――天空は死んだ。――おお物質よ、お前の方に俺は駆け寄る、

 残酷な理想と罪業との忘却を 俺に與へろ、

 人間というお芽出度い家畜どもが臥せつてゐる

 敷藁の床に共寝するこの殉教者の俺に、


 ――終に俺の脳漿は、壁の足元に

 轉がつてゐる白粉の壺のやうに 空つぽにされ、

 噎び泣く思想を 派手に飾り立てる術もないから、

 眞暗な死に向つて沈鬱にも 寝床で欠伸をしようと思ふ……


 それも空しい、蒼空が勝利を得るのだ、鐘の中で

 その歌ふのを俺は聞く。わが魂よ、意地惡い凱歌を擧げて

 蒼空は 俺たちを一層恐れさせるため 聲と身を化し、

 生きてゐる金屬から 蒼い禱の鐘となつて飛び出してくる。


 蒼空は、昔ながらに、濃霧のなかを轉々して、手元狂わぬ

 短劒の如くに 俺の魂の生來の苦惱を 突きとほす。

 所詮無益な邪な反抗の中で 何処へ遁れよう。

 憑かれてゐるのだ 俺は。蒼空、蒼空、蒼空、蒼空。


 マラルメの呪われた連禱を口にすると、宗助の気分は快復せずとも、先程まで彼を苦しめた棘質の苛立たしさは和らいだ。宗助はせめて部屋に戻ろうとエントランスへと足を向けた。フロントに話を通すと、同室の秋山は一時間ほど前にホテルを出たようだった。宗助はスペアキーを持って部屋に戻り、服を脱いでシャワーを浴びた。化粧台の前に髪を乾かす宗助は眼窩が落ち窪み、ざんばら髪の幽鬼の如き面相であった。今頃、おれの名を名乗った売笑買いの友人はどこに彷徨っているのか。勝手気ままな分身が傍若無人の限りを尽くす有名なイギリス小説のプロットを思い起こし、エロティシズムの彷徨に暮れる、今や分身としての秋山の道行きを思った。操縦の効かぬ足生えた欲動の先を思った。


 半時も経った頃であろうか、部屋のドアが開いて、がさごそと物音を立てながら、秋山が帰った。部屋が明るかったので秋山も直ぐと気が付いたと見える。宗助は化粧台に腰掛けたまま、秋山は雨水を吸って濡れ光る礼服のボタンに手を掛けながら、互いに短く応酬した。


「帰ったか」


「おう。雨が強くてやばかったっけ」


「陰獣様の凱旋だな」


「なんだって?」


 それになんでもないと答えて、宗助はこの漆黒に濡れ光る体毛を持ち、悲哀の名を持つ陰獣をしげしげと眺めた。彼は気だるそうにごとりと音を立てて床に靴を脱ぎ捨てると、次に買い物袋をテーブルに置き、服を脱ぎ捨てて、浴室へと消えた。湯を浴びた後は寝巻きに着替え、買い物袋からチキンを取り出して口に咥え、非常な満足を示すのであった。


「それで結局、女は来たのか」


「うむ、女は来ない」快活に肉を咀嚼しながら、彼は続ける。


「だもんで、外に出たんだけど、どこでやれるかわからないもんでさ、紹介所行って、案内された先がカプセルホテルみたいなとこでさ、ヤリ部屋っていうの? そんなところで、やって来た女ってのがまた」


「酷いご面相だった訳だ」


「なんというか、顔が平たくて、顎が出ていてな、全体に湿っぽいという」


「湿気た煎餅みたいにか」


「湿気た煎餅みたいな感じだな。そんで本番は駄目って言うからさ、とりあえず咥えてもらって」


「なんだ、やれなかったのか」


「いや、頼み込んでやったよ。先っちょだけ、先っちょだけ、なんて言って。それで駄目だったもんで、今友達の結婚式の帰りで、どうにも収まりのつかない夜だから、とかなんとか言ってるうちに、入れちゃったわ」


「そいつは良かったな」


 チキンを平らげた秋山は次いで袋から巨大なカップ麺を取り出すと、常設されたポットから湯を注いだ。


「おおきい、おおきいー、なんて気分を出してくれるもんでさ、後ろから張り切って本気を出しちゃったよね」


「女の褒め言葉は大概それだよな」


「うん。だから大きさを褒められるより、かたいって言われた方が興奮するよね。ここには誤魔化しのない男の自負があるもんで」


「全く同感だけれど、心底どうでも良いな。しかし良く喰うね、お前は」


「ああいうことすると、腹減るよね」言って、今度はカップ麺に取り掛かった秋山はバケツのようなカップに割り箸を突き込んで、ずるずると麺を啜り始めた。


 話は秋山の恋人の近況に向いた。秋山の恋人は学生で、彼は彼女の卒業を待って結婚するつもりらしい。


「まあ、こんな黄色い頭してたりするけどさ、おれは皆みたいに夢とか、やりたいこととかないもんでさ。今まで通り働いて、彼女が卒業したら結婚するつもりだけんね。家も親が建てたのを改築して住むつもり」


「あれ、お前の家、人に貸していたんじゃなかったか」


「ああ、議員の娘ね。今も居るよ。でも、近々出て行ってくれとは言うつもり。あんまり親切で家なんて貸すもんじゃないね。親父があんまり安く貸すもんで、我が物顔に甘えるのか、ろくな思い出がないわ」


 聞けば家財を持ち逃げされたことは一度ならずあり、友人の頼みで部屋を貸した友人の知人というのが、前科持ちの窃盗犯であったりして、その逃亡先にまんまと利用された挙句、恩に仇で報いるとはこの事、滞納した家賃を踏み倒した挙句、箪笥の金を引っ掴んで逃走する、これに懲りずに家を貸した議員の娘は契約期間が過ぎても一向家を出る素振りもない。


「それで、俺はお前たちみたいに、素直になれないっていうか、人を信じられないようなところ、あるよね」


 凡そここまで素直に心情を吐露する人間の言葉とも思われなかったが、秋山が言うところの旅情がそうさせるものか。彼の切々とした語り口には宗助にも思うところがあった。秋山は確かに豪放磊落を地でゆく風であるが、一方には妙に可憐なところを持っている人物であった。それを再確認して、昔日の親昵な気楽さが宗助を寛がせた。秋山の飾り気なく、気負わない性質はなんといっても快かった。


「そんで、おれはこんな感じだけど、お前は彼女とは別れたんだっけ?」


 宗助は今夜幾度目になるか判らぬ由紀との顛末を話して聞かせた。


「ふうん。それで、彼女のこと今でも愛してんの」


 宗助は虚を突かれて、絶句した。秋山はごく自然に、直截に、宗助の弱所を突き通した。


 ――そも、交際のあった当時にして、おれは由紀を愛していたろうか。彼女に、おれに対する愛情があったろうか。周囲からは『解らない男』と評され、生活の立ち行かぬ芸事に拘泥するおれは、それだからこそ、どうしても由紀との結婚に踏み切れないでいたのだった。窮屈な自負心から、今ある慮外者の位置を捨て、世間と己を取り持ち、公正な取引をすることを肯んじなかった。その癖、そんな自分を一倍に恥じていた。こんな関係は許されないと、由紀の期待に応えられぬ自らを呪いながら、しかし彼女に与えたものとあっては、例の醜怪で低劣な愛撫のみだった。


 おれには愛するということが解らないのだった。彼女が有つ愛情というものに、応え、確認する手立てがないのだった。別れの際、最後の情交を終えて、さてこれでケリが着いたというように、満足そうに息を吐く彼女に、おれがこれまでに彼女に与え得たものの全てと、彼女の期待に良く応える手段をこれひとつきり有たないことを知った。おれは無残な黒い陰獣だった。女の股間にしがみ付き、浅ましくもこれを慰めるだけが能の、畜生だった。輝かしい生活の象徴を夢に見る、画布の中の単眼鬼だった。


 そして既に夢から覚めた彼女、退廃と淪落の底へと陥ることなく、故にドラスティックな聖性から峻拒された俗諦に確固として住する彼女に、愚かにも我が身の滅ぼしえぬ連続と完遂とを誓ったのだった。


 いつしかおれに関わり、周囲から同じように『解らない女』と見做されてもいただろう彼女は、幼い青春の獣に決然と袂別し、生活の刷新を成したのだ。


 今、おれは秋山の問いに答える。


「愛しているよ」


 誰にも表明したことのない心情を意味する言葉は、宗助の口を流れるように滑り出た。由紀に対する尊敬が胸の内滾るようだった。禽獣の誘惑を振り捨て、新たな伴侶と共に、意味ある地平に生活の基礎を打ち建てた彼女を、素晴らしく思った。そこには依頼心もあれば、肉の渇きもあろう。子宮を摘出された牝犬も、黒い陰獣も、共に滅ぼし得ぬものとしても、先へ伸びようとする意力に人間の尊厳を思った。宗助は肉身を以って相対するよりも、素直に心の開かれるのを感じた。別してこれを観念の遊戯と笑う者があれば、ここまでに人間的な関係が他にあろうかと強く心に念じる程に。


「ふうん。だったら、良いじゃんね」食事を終えて、早やベッドに潜り込んだ秋山が言う。


「うん。これで良いみたいだ」


 明日の旅程を話合いながら、二人は床に就いた。名古屋城を見に行くつもりだと宗助が言うと、城なんて地元で幾らでも見れるらあ、と秋山が苦り切った顔で言うのが宗助に面白かった。


 やがて目を閉じ、旅の静かな夜に魂を投げ返しながら、宗助は二人の恩人の前途を心から祝した。


 朝まだき、目を覚ましてはシャツに腕通し。覚束ない足取りで電車に乗り、隣町へ向かった。


 吐き出された街頭に、人工ダイヤの黄色じみた真昼の光線が、雨と降って、白けた街路を踏み締めてゆくおれの足元に、きしきしと軽く音を立てるものは、(駅前に立つのはモスグリーンの瞳をしたカラスの神父。それからカーディガンの少女達。神父の手にした卵に罅割れ、少女の手にしたフリップに聖句)ああ、卵のわれる音だ。卵の殻の次々われる、踏み締めてゆくおれの足音だ。足音の向かう先は町の空隙、木霊の届かぬ緩衝地帯。


 辿り着いた公園の横手に、列を成して立ち並ぶ自動販売機群。ベンチに煙草が一本経って、立ち上がり尻の紙入れから抜いた一枚を自販機の投入口に挿入する。適宜ボタンを押せば、飲料水の代わりにシュレッダーに掛けられ細切れにされた紙幣が受け取り口から、ほらよとばかり、排出される。それを心得顔に掴み、ポケットに捻じ込むと喜びに満ちた面持ちでその場を後にする。

 ああ、これは夢だ。悪い夢だ。冗漫で酷く退屈させる、これは悪い影絵だ。



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