花弁
結婚式の当日がやってきた。朝のうちから雨雲が重く垂れ込め、新幹線に乗って名古屋に着くと、表は篠突く雨であった。駅構内に示し合わせたかのように友人が一同に会した。こうして全員が顔を並べるのも珍しい。各々がスーツに身を包み、もっともらしい顔付きをして改まっているのは、どうにも気恥ずかしく、滑稽な様子でもあった。お互いの近況を語り合うに、井本は携帯電話の開発に携わり忙しく海外を行ったり来たりしているようで、数年振りに帰国したという彼の短く纏められた前髪には、一束ほどもある白髪が見えていたが、それで尚、ライトグレーのスーツに身を包んだ彼は一番端正な若さを保っていた。秋山は現在介護職をしているようで、物怖じしない人慣れた性質は変わらない。それなりに直近の消息に詳しい長田は宗助を認めると短く、おう、と口にした。それに応え、四人はそれぞれに談笑しながら、式場までの送迎バスに乗り込んだ。
車中では他愛もない会話が続いた。アイドルグループのプライベートライブについて、その如何を秋山が熱心に語っていたが、そのうちなんの弾みか先の震災の話題に移っていった。
「日本はさ、スクラップアンドビルドででかくなったら。こないだ先輩と一緒に飲みに行ったんだけんさ、丁度隣の席の兄ちゃんたちが良い加減に酔っ払ってたんだわ。その兄ちゃんたちってのが、土建屋だったんだけんね。そいつらが言うに、地震と津波で大分持ってかれたから、アレで、なんだっけこういうの」
「災害特需じゃない?」井本が答える。
「そうそう、それ。お前頭良いな。その特需でさ、会社も儲かるみたいな話がこっちに聞こえちまって、先輩が突っ掛かっていって大変だったわ。先輩もなんつうか、熱いところがある人だもんでなあ。先輩はなんつうか、兄ちゃんたちの態度が気に入らなかったんだろうな。なんていうの、自分とは関係ないっつうか、そういう」
「対岸の火事みたいな態度?」井本が言う。
「そうそう、それ。お前頭良いな。まあその、対岸の火事みたいのが気に入らなかったんだろうな、熱いところがある人だもんでな」
「まあ特需は生み出されなきゃならないものだしね。その兄さんたちもそれぞれに思うところはあったんじゃない?」
「うん? まあな。そりゃあったろうな。でも、おれが言いたいのは別のことでさ、居酒屋でそんな口争いをして騒いでる先輩やおれのがよっぽど対岸の火事式に被災者に対して失礼な人間じゃないかってさ、そう思ったんだよなあ」
「同情は不可能だからな」宗助が言う。
「うーん、なんだろう、この」と、秋山は頻りに首を傾げている。
「著名人が名前を公表して被災者支援をすることの厭らしさは?」長田が言う。
「それだって全員が望んで公表してる訳じゃないでしょ。お金はお金だし、物資は物資だし、それが事務所の意向だろうとなんだろうと復興に役立つのならそれでいいじゃない。秋山が気になっているのは、実地にそれを受けている人たちがこれをどう思うだろうかなんてことを、いちいち忖度している僕らの野次馬根性だろう」受けて井本が言う。
「そういう、どこまでもしつこく追求するような性質がおれらにはあるよ。どこまでも反応を確かめたくて仕方のないような、しつっこさがあるよ」宗助が言う。
人に隠れて善行を成すことを陰徳を積むという。名利実利の為でなく、そうあらねばならぬという峭刻たる要請にただ従う。それは実践ということだ。それは剋殺ということだ。それはどこか機械的な印象を与える。広く人の為に、己の為に。斯く在るべしを墨守する機械。そんなものに成れたらどれだけ良いだろう。
「まあ厭だなあって思ったって。そんだけの話だけんね」秋山はそう言って、他愛なく笑った。
それから秋山は、友人の結婚式の前夜に催されるという、実在するのかもあやふやな海外の因習について熱弁した。そこではありとあらゆる放埓と破戒が許され、新郎はその友人と共に独身最後の夜を肉の放縦に任せ狂態を極めるのだという。数人の男女が相手を代えながら交合する。淫臭が辺りに満ち満ちて、朝日が昇るまでその饗宴は続くのだとか。
「ただの乱痴気騒ぎじゃないか。許されるというのなら、破戒も放埓もないもんだ」
「お前はなんでそういうことを言うの?」
興を削ぐ宗助に秋山が唇を尖らせて抗議をすると、
「お前ら送迎バスのなかだぞ。親族の方に聞かれたらどうする」と長田が声を潜めて注意した。
送迎バスは街中を二十分程走行して式場へと到着した。傘を広げてエントランスに向かう途中、アーチを潜った先に、幾つかの石像が立ち並んでいた。モチーフのない女神像。長田と井本は先に記帳に向かい、残った宗助はその石像を前に傘を差して棒立ちの格好になっていた。よいしょ、と声を掛けて、何時の間にか脇に立った秋山が女神像の胸を鷲掴みにした。
「好きだねえ、お前は」
「おう、ちょうど良い大きさだな」
貸してみろと、宗助も空いたもう一方の乳房に手を置いた。
「ちょうど良いら?」
「うん。ちょうど良いみたいだ」
大の大人が二人も揃って石像の胸部を撫で回していると、そこへ見知った顔が現れた。啓三の兄であった。
「撫で牛じゃないんだぜ。そんなに熱心に撫で回しても、女運は授けちゃくれないよ」
振り向いた二人に、啓三に一回り歳の離れた兄は懐かしく笑った。長身で、弟にも増して飄逸な性質はどこか亡くなった彼らの父を偲ばせる。
「大人になっても変わらずの馬鹿で、おれはなんだか嬉しいです。ああ、これはお車代ね。記帳が終わったら、奥の控えで待っててくれな。それと、今日は来てくれて有り難う」
彼は挨拶を終えると足早にその場を離れていった。記帳を済ませて控えの間に移り、挙式までの時間を待機する。式は教会式で執り行われるようだった。実感もなく、浮き足立った調子で、宗助は菓子盆に盛られたケーキを無闇と喰った。
時間になり、式は恙無く進行した。日本語の達者な聖職者。唱和される聖歌。宗助の額には脂汗が浮かんだ。祭壇へと続く、長く紅いヴァージンロード。退出の際、それを跨ごうとした宗助に、背後から声が掛かった。恐らくは啓三の上司であろう。
「もう踏んでもいいんだよ」
そうですか、と憔悴しきった顔で返答して、式場を後にした。
時間になり、披露宴は恙無く進行した。食事をして、ビデオを観て、幾度かのお色直しがあり、写真撮影があった。交わされる祝辞。なにひとつ頭に入らなかった。
新郎新婦が退出する際、車椅子の祖母に寄り添った啓三の兄は、カメラを片手に鋭く短く叫んだ。
「啓三っ!」
その性急な呼びかけに呼応するかのように宗助の感情は蘇生した。宗助の目は、弟の名を呼びつける兄の、緊縮する白い咽喉元に縫い付けられたように固定された。兄は弟の名を二度呼んだ。嘔吐にも似た感覚を味わいながら、目を瞠り、宗助は魅了された。
どうしておれはこうも間歇的だろう。
美しいものの瞬間の凝縮、一回性を有ち、そこに在るところの綜合、あの隆起した咽喉、あの檸檬、あの瞳、そのようなものが、宗助にとって人間と見えるもののすべてであった。切り取られた情景との片々に宗助を揺す振り、鈍感な肉の眠りから覚醒させるものはそのようなものであった。そうしてようやくのこと、夢中の宗助は盲亀の浮木的に現実に相対するのであった。彼は現実をそのままに味わい得るだけの強固で壮健な歯列を有たなかった。
変転する場面の一々に、宗助はぽつねんと励起する自身を観た。
ブーケトスの段になって、広場に新郎新婦の登場を待つ間、係りの人間から手渡された幾片の花弁は、それを握り込む宗助の手中に、じっとりと熱を帯びて匂っていた。傍らに天使をモチーフとした塑像群が在った。その足元に小さな噴水が設置されており、宗助がしゃがみ込んで手指を洗っていると、その様子を長田が咎めた。
「止せよ、みっともない」
長田の諫止にしばらく水面を覗き込んでいた宗助は、ゆっくりと手を引き上げ、ハンカチで手を拭った。
「みっともない。確かにそうだ、みっともない。汗を掻いて、匂いが堪らなかったものだから」呟いて、手にした赤い花弁に眼を落とした。
おれはこの花弁を投げる。数分後に新婦がそうするように、恐らくは幸福を願ってこれを投げるのだろう。新婦は、おれは、なにを想って花弁などを仰山に中空に放るのだろう。きっと、おれはおれの荒涼を放るのだろう。
「おれはな、長田。なんだか肩の荷が降りたような気がするんだ」
由紀の話題になると、長田は緊張して何と答えたものか言い淀んだ。
「全く同時期に交際を始めたおれ達が、一方は結婚して、一方は破綻して。おれは由紀さんのことを肩を疲れさせる重荷だったと云いたい訳じゃない」
「うん」
「ただ、啓三が選ばなかった道をおれが行けば良いし、おれが失敗したことは啓三が成し遂げてくれる。己が良くすることをすれば良いという気がしているんだ。実際、おれは式に臨んで危惧していたように娼嫉の念に駆られるということがなかった」
「後悔はないのか」
「それはあるよ。けど、そのことを悔いてはいない。最後におれの手に残ったものは、一個の観念の純粋だけだったな、長田」
「お前がしたことの結果だろう」唐突に、長田の胸中には義憤めいた感情が芽生えた。そんなもの、どうして純粋なものかと。それだから、
「それにそんなものは、結局空虚じゃないか」と、これは些か語調を強めて口にした。
「そうだよ。おれたちに連続する共通のものがそれだよ。空無と無実ばかりが、おれたちを繋ぎ止める全てだよ。それだけに最も雄弁であるところの、人間的の無実だよ」
「お前は昔から少しばかり逆説が過ぎると思うね。そんなことじゃあ、いつまで経っても幸せにはなれないんじゃあないか」
「幸せって? じゃあ、反対に転がれば幸せになるのか」
「今のお前よりは幸せになるだろうさ」
「確かにそうかもしれない」
言葉少なく宗助は肩を落として呟いた。その頼りなげな姿からは程遠く、長田は彼の背後に或る気配を感じるのであった。それは長田の胸に突き刺さるような圧力をもって、凄絶な悪魔の憫笑を印象した。
そうして、華やかな喝采のなかをゆく舞台の主人公へと、宗助は手にした花弁を投げ上げた。贅肉を削ぎ落とした必然としての荒涼もまた、彼に縁遠い代物であった。なべて合理化というものは、究極的な観点からしか成されない。棄教し途方に暮れる人間のように、みっともなく自らを一色に染め上げる観念の辺縁を這いずりながら、宗助は茫漠とした心持ちで、中途半端に花弁を宙へと投げ上げた。やがて舞い落ちる花弁は前をゆく新婦のなだらかな肩を滑り落ち、後に続く出席者の靴に踏みしだかれ、誰のものとも知れぬ、赤い色斑へと変じた。