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蒲公英  作者: 東間 重明
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冷雨の杜の金剛亥女

 

 啓三の結婚式前日、宗助の姿は郷里に在った。経済の不足を補う故もあったが、それほど彼に心苦しく思われないのは、応対に出た祖母の様子が一倍にやさしいものであったことによる。なにかと衝突の絶えぬ間柄ではあったものの、宗助が郷里を後にし、曲がりなりにも自活するようになると、慳貪であった祖母の態度も幾らか寛解したものと見える。只今、と玄関を潜ると、迎えに出た祖母がおかえりなさいと笑顔で迎える。こうした何気ない尋常の応酬も、宗助には酷く久しいものに思われた。それで寛いだ宗助が旅装を解いて少し休みたい旨を伝えると、祖母が部屋に布団が敷いてあるよ、と答える。それにここでいい、と答えて、宗助は居間に寝転がった。祖母は咎めるでもない。そうかねと短く相槌を打って、炬燵テーブルの脇に座椅子を用意してうつらうつらとしている。居間からは中庭の様子が一望できた。雑多な葉叢のなかに一本、山茶花の木が亭々と立ってい、それが小雨を受けて音を立てるのに心安げに聴き入りながら、宗助はしばらく眠った。


 夕刻、祖母に揺り起こされると、これから母が家にやって来ると言う。どちらの方かと聞くに、産みの親の方であった。程なくして自動車の乗り付ける物音が聞こえたので、宗助は表へ出た。外は吹き付けるような霧雨であった。


 車から母が出てくる。母は、こんなに長身であったろうか。印象に齟齬が生じる程に宗助と母とは疎遠になっていた。思えば離婚から後、こうして面と向かって話をする機会は二度しかなかった。一度目は宗助の成人式の折、そして二度目は今回である。そして二度の面接に渡って同伴した人物が、車の助手席から降り立った。母の三人目の子供であった。


「久し振りだっけねえ、お兄ちゃん」


 傍目には変わらず、随分と暢気な調子の母親である。生来の派手好きは多少控え目にはなっているようで、女手ひとつの惨苦を微塵も感じさせない様子に、多少は世間を知った宗助は感心するようであった。


「ああ、久し振り。ユーシン君も。久し振りだな。おれの成人式以来か。幾つになった?」


「十四」と、少年ははにかみながら答えた。


 ふと、宗助は自分の若かりしを目の前に見るようで、清新な感情が肺腑を満たすようであった。それから我となく、


「前に会ったときは小学生だったのに、早いものだなあ。覚えているかい。初めて会ったとき、開口一番にお兄ちゃんはお金持ってる? なんて聞かれるもんだから、おれはすっかり閉口しちまった」


 それになんと答えたものか、もじもじとしている弟の物柔らかな少年らしさに宗助はしばし陶然とした。母がすかさず助け舟を出して、


「それは丁度そのときお小遣い欲しかったからだもんねえ? 厭だよお、お兄ちゃんはそんなこと言って。昔は可愛かったに」


「全くね。人世はかくも無惨な修羅の国なり、だ」


「え? なんだって?」


 本当に散々なのはこの人なのだ。愛別離苦を繰り返し、浮世の惨に爪までも染め上げたこの人なのだ。宗助は一瞬のことそんな感懐を抱いた。


 母の人生とは蒼褪めた画布のような空白の旅程であった。行住、是、異邦人の生活であった。名家に縁した女の腹から生まれた母は物心つく先に実父を事故で喪い、生活の不足から養子に出された。宗助と智子を産み別れ、新たな伴侶とも死に別れ、そうして女手ひとつに子を育てている。そこに母の実母に対する憎しみの如き感情が存するものか否か、宗助には判断がつかない。けれども、母が自らの生みの親と全く同質の問題に逢着したことは、宗助には必然であると思われた。そうして母が今日まで育児をやりおおせたことも。これをしも業と呼ばわろうか。


 人間には誰しもその人に備わる、その人に流るる、命題のようなものが在って、それは肯定されるにしろ否定されるにしろ、当人に問題の担い手との自覚を強いるところの一種の乗り越えであるに違いない。よし問題を()に入れて留保するにしても、それはどこまでも不可避的に地を歩く人に粘着して離れるということがない。けれども、どこまでも玉の緒を牽くそれらが、問題の解決に一倍の意力を賦活することもある。ゆくりなくも我々の行く末を左右する場面にあって、判断の指針となる因果の指先は、自らが解決への一歩を差し、引かれた問題の外縁に手を掛けるまで追及と鞭撻の姿勢を決して緩めることはないのであろう。それだからこそ、一等に陋劣なことは、きっと自ずから目を閉ざすことなのだ。


 人称的なものは愛せない。求めているものは誰かではなく、何か、であるということ。けだし人間とは中身のない容れ物であろう。人生という名の一杯の苦杯。母を見ていると、しみじみと身に沁みて融和の心が胸の内から呼び覚まされるようであった。


 宗助は昔、自家に飼育したポメラニアンの牝を想起した。あの犬は確か、離婚争議の前に子宮を手術により全摘出したのだった。手術の当夜、心配で寝付かれなかったことを覚えている。腹に赤い傷痕を残して帰ってきた彼女の腹を宗助は撫でてやった。或いはどこかの種を身籠っていたかもしれぬその腹を。彼女は舌を出して目を細め、宗助の愛撫にどこまでも従順に身を任せていた。いつか癖になっていた足元に縋りつく牝犬のそれが生殖の代償行為であることを、宗助は過たず理解していた。それだけに一層、愛惜の念も深かったのである。後年両親が離婚すると、牝犬は母の手に引き取られた。動物全般は彼女の元に送られたのである。しかし、水が合わなかったものか、牝犬はふらっとどこかへ消えてしまったものらしい。いつか妹にそんな話を聞いたことがある。宗助は今もあの牝犬の亡羊とした道行きを思うと、胸が塞がるようであった。かつての主人と住処を慕って当て所なく夕暮れの町を往く姿は、年少の頃より宗助の胸打つ素描のひとつである。思いついて母にポメラニアンの顛末を聞くと、


「ああ、マルね。御婆ちゃんが散歩してくれてたんだけど、どっかの人に着いて行っちゃったみたいなんだよねえ」


「全く、笑わせてくれる」


 してみるとなんのことはない。あの牝犬はどこかの適当な人間になんとなく着いて行ったのに過ぎなかったのだ。様子を思い描いてみるに、祖母などは去り往く牝犬を目に、仔細らしく咥え煙草なぞしながら、これを黙って見送ったに違いない。どうにも祖母にはそんな所があった。郷愁をそそる心象が滑稽劇へと変じたことに、宗助はむしろ快美感を覚えた。はっはっは、とこだわりなく腹から笑った。


「喜劇ほど人間を厳粛にさせるものはないよな」


「え? なんだって? 良く分からない」


「努めて分からないように言っているんだ」


「お兄ちゃんはなんだか難しいこと言うから良く分かんないねえ。昔は素直で可愛かったに」


 それから弟の身辺の話をした。どうにも彼にも非行の兆候著しいらしく、終日パチンコだのをしていて困ったとのこと。宗助はそれに当たり障りのない見解を述べた。どうにもくすぐったくて、収まりが付かないような格好であった。


「ねえねえ、これ見てご。この時計。今の彼氏に貰ったんだけんねえ、幾らだと思う?」唐突に母が聞いた。


「なんだ。時計の値段なんて判らないよ」


「六十万円。彼氏がね、ぽーんとくれた」


「馬鹿じゃねえのか」宗助は呆れ返ってそう吐き捨てた。


 男っ気の消えない母にそのような話があるということは意外とも思われなかった。話を聞くと件の彼氏は数ヶ月前に妻を事故で亡くしたようだった。高所にある荷物を取ろうとして脚立から落下し、頭を強く打ってしまったのが原因らしい。


 誰も彼もが少しづつおかしくなってゆく。母の恋愛、それはどこか間違ったことのように思われた。真面目なところがないように思われた。しかしそれだけに切実でもあった。身に疚しいところのある宗助には母の恋路に容喙することはできなかった。


 ふと、おれは由紀を愛していただろうかと宗助は考えた。心を捉えた問いは宗助の、また彼の父母の弱所を突くものに違いなかった。今ここに答えを出すことは難しくとも、何れはそこへと辿り着く。それはそう遠いこととも思われなかった。


 宗助に現金の入った封筒を手渡すと、母と弟とは帰って行った。凡そ今回の面会も話を聞いた智子が根回しをしたに違いなかった。身内には果てもなく厚顔な宗助である。


 雨中に去り往く車のランプを眺めながら、長らく母の表象と見做していた牝犬を思った。暢気な母猫を思った。生まれた三匹の仔を思った。異邦人のことを思った。様々な表象が入り乱れて、一時宗助の頭はぐらぐらと煮立つようであった。不思議と晴れ晴れとした気分であった。自分は今の今までここに存在していなかったのだ。個我であって無記名の存在のみが立ち会ったのだ。宗助であり、宗助でないものが在ったのだ。正しく、母は子に面会したのだった。


 一筋の光明が差したようであった。思わず手を合わせたいような、それでいて随分と怖ろしい。



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