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蒲公英  作者: 東間 重明
19/27

眠る十字架

 

 単身赴任している宗助の父の元に、校長から電話が掛かった。またなにか宗助がしでかしたかと話を聞くうち、どうやら緊急の面談を要する話らしく、出来得るのならば近く一席を設けたいとのことであった。


「なにかご迷惑をお掛けしましたでしょうか」


「いえ……まあ、とにかく一度こちらへお帰り願えないものでしょうか。宗助君ですがね、彼のね、最近の顔付きと言いますか、目付きと言いますか、とにかくですね、正直に申し上げますと、かなり深刻な状態です」


 父親は早々に荷物を纏めて帰郷した。父は反りの合わない宗助と祖母との仲立ちとなった。しばらく様子を見るうち、宗助が高校に進学したのを機に、実家から一度距離を取ろうと高速道路に程近いマンションの一室を借りて、そこに親子三人で暮らした。玄関から手前に妹、父、宗助の順に部屋が割り当てられた。家具は新しいものを父が選んだ。妹には赤いベッドと赤いカーテン、赤いカーペット、宗助には空色のベッドと空色のカーテン、空色のカーペット。父だけが和室であり、家具調度は書き物机一つのみ。リビングにはなにもなかった。台所に電気ポットが一つ置かれてあるだけである。まるで実験室のモルモットだな、と宗助は思った。実際に生活の実験、真似事のようなものだった。お互いに言葉少なく、食事や風呂は大体実家に戻って済ませた。ただ帰って寝るだけの冷たい部屋である。朝起きる、父の書き物机の上には封筒が置かれてある。なかには大体三百円か五百円か入っている。それが学校のある日の昼食代であった。小遣いが欲しければ昼食を抜いた。そうして学校にいる間中眠りこけ、家に帰れば無闇と描き、読んだ。それだけの三年間であった。


 或る日の夕刻、それは幾らか肌寒い三月の終わり頃であったが、宗助の描いた絵をどうしても見てみたいというクリスチャンの少女に応えて、彼は自室に少女を招じた。宗助は物珍しそうに室内を見回す少女に苦笑しながら、机から取り出したデッサン帳を手渡した。少女はそれに目を落として、何枚かページをはぐると、


「デッサンも良いけれど、油絵を始めたでしょう。それを見せてよ」


 少女は部屋の隅に押し退けられたイーゼルに目を向けた。木製のイーゼルには厚手の布が掛けられている。


「まだ完成しないんだ。出来上がったら、見せるよ」


 既にタブローは完成しているのだった。しかし、宗助はそれを頑なに秘した。少女はそういった勿体ぶった態度を常に飽き足りなく思った。宗助の中心に差し伸ばした手は、いつも柔らかい抵抗にあって本当のところを掴むことが出来ない。彼の絵画に対する真剣さや、二人の関係を証拠立てる確かな感触がない。彼女は安心が欲しかった。もうこれで大丈夫という、かつんと充実した手応えが欲しかった。宗助は少女のそういった当然の請求に圧迫されるようだった。自らの無才を彼女の前に曝け出すことは堪え難かった。正直を為しえない自分を不甲斐なく思った。自分が自分に、絡め取られるようだった。起伏のない憂鬱な、荒廃した生活の弁明を彼女の前に試みることは、尚のこと辛かった。せめてなにか保障があれば……。しかし、宗助にはどのような担保も用意がなかった。彼の芸道には、これといった手応えや感触といったものがなかった。彼もまた、少女同様に自身の正当性を保障する担保や、充実した感触を探し求めていた。


 ――せめてその端緒でも、この手に握ることができたなら。おれはそれを力一杯に最後まで引き寄せようとするだろう。どうやらおれに好意を持ってくれるものらしい彼女にも、堂々と接することができるだろう。しかし、おれには将来を保障するものなど、なにひとつないのだ。


 そうして、宗助は親交と信頼の大切を、最も陋劣な手段でもって解消しようとしたのである。果たすべき責務を、少女に押し付けるという遣り口で。


 彼は身を寄せて画帳に見入っている少女を卒然、胸に掻き抱き、侮蔑と激しい抵抗を期待しながら、醜悪な愛撫を加えたのである。振り向いた少女の顔に侮蔑の色はなかった。驚き見開かれた両目には、雲母のように幾重にも様々な感情の色が現れ、黒瞳に吸い込まれるように、ぽろぽろと剥落した。期待した抵抗はなかった。宗助に性的な興奮はなかった。ただ機械的にさもしい愛撫を続けるうち、少女の口からはくぐもった喘ぎが漏れた。少女は宗助の腕の中に身じろぎしながら、


「私、痩せているし、胸もないから、興奮しないでしょう?」


 宗助の舌に口唇を割り開かれて、少女は一瞬身を硬くした。丹念に少女の生温い口中をまさぐり、厚みのある舌を吸い出しながら、宗助は彼女の胸元に張り付いた十字架にじっと目を据えていた。宗助の頭になにか重要な考えが纏まりそうで、纏まらなかった。頭を振って、少女の下着に右手を突き込んだ。下着は小便を漏らしたように濡れて、右手の指は熱いぬかるみに苦もなく埋没した。少女の服に手を掛け、ベッドに横倒れになる。初めての性交に、宗助はそれがひどく郷愁を誘うものであることを知った。拙い愛撫のひとつひとつは、記憶を辿り、少しづつ快楽の源泉への道を見出すように、地図の道筋を入念に指先で確かめてゆく作業に似ていた。より上流へ、上流へと山中を散歩するように。少女の身体はそれに良く応えた。水のように、柔らかく、踊るように。


 快楽への円滑な没入を、閨房の技術を、宗助は特段卑しいものとは考えられなかった。少女は宗助に明らかに長じるらしかったが、彼女の生活や信仰にどのような説明を加えようとも、恐らくそれは変わらないだろう。目の前の肉体は自然と肉体であるに過ぎなかった。所有を離れた、白痴的肉塊に過ぎなかった。


 ――そうだ。所有に堪えられない。それだから無記名の肉の塊りに還元しようということなんだ。お互いの肉体はちょっとした自殺装置だな。無政府状態の肉なのだな。社会的な正当性を求めない肉。ところで愛というもの、時にエゴイスティックなものを、社会的に正当化する場合、その社会的という部分には随分と力を入れるのだが、社会は愛情によって築かれたものではないので、実際にはどのような愛情も社会が正当化するということはない。ただ、社会が必要性から認める幾つかの愛情が許されているに過ぎない。それが一応の相互関係を為しているに過ぎないのだ。これでは飽き足りない。道は幾つか用意されるだろう。あくまでも独善的に推し進めるか、現に許された社会的に通用する愛を良しとするか、例えば全人的な愛を仮定するだとか……。いずれにしても社会というものに対置された途端、愛は我々に寸毫も関わり合いのないものになる。個人においてもまた然りだ。宗教の、分けてもキリスト教の全人的な普遍化された愛は、その構図を幾らかは和らげて見せてくれるが、水で溶き過ぎた絵具のように効果の程は思わしくなく、問題となるエゴの激越を覆い隠し、なかったことにはできずにいる。それで愛の正当化は反復されるのだが、一般化されたり、普遍化されたり、公式化された愛はますます個人的に編集された道徳的ツールになってゆく。それだから加工される基となった愛というものは、いつも実体なく、気分的なものとして我々の頭上を浮遊している。そうしておれは未来へ続いてゆく伸張性発展の契機を見失って、想像力を欠いた退廃へと落ち込む。せめて再生のモメントをと、まるで仕方なしに没頭するのだな。他に遣り様を知らないので。


「ねえ、あんまり気持ち良くない?」


 宗助が無表情でいるのに、少女は些か気分を害した。どこか上の空に憮然とした顔は気に食わなかった。


「そんなことはないよ」


 行為に専心すると、少女が僅かに目に涙を溜めて、宗ちゃん、と短く名を呼んだ。宗助の背中から後頭部までを、強いキックバックのような感覚が走り抜けた。少女の無染の肌に張り付いたちっぽけな十字架。胃の腑を掴まれたような鈍重な吐き気。少女の顔を正視することは宗助に困難であった。少女をうつ伏せにすると、沸々と湧き上がる憎しみをきりきりと頭に装填しながら、犬のように腰を叩きつけた。


 ――この憎悪に対象はないのだ。この性交にも。彼女がおれを初めて愛称で呼んだことに、狼狽する理由はなんだろう。つまりは、両者の意図や懸隔に堪らないものがあるのだ。虫籠のなかに枯死する寸前の、甲虫の交尾を見たような堪らなさ。実際にこれは堪らない気がする。無残だと思う。印象はおれ自身の投影だ。けれども、結局やり切れないじゃあないか。なにを攻撃したところで、誤魔化しに過ぎないなら、復讐も愛も不可能だ。行き場がないんだ。だからせめて、ベクトルを合わせようとする。そうしてお互いを貫通して、宙に放り出されるのだ。


 せめて涜神の悦びでもあれば……。しかし、そんな考えは宗助の気持ちを萎えさせるばかりであった。思考を打ち消すように、円滑な意識の途絶をのみ期待しながら、宗助は吐精した。


 少女はベッドに腰を掛けて、傍らに苦しい寝息を立てている宗助を見下ろしている。少女は自らの心中を時間をかけて確認していた。私はもしやに引かされて、彼の才能に賭けているのではない。もっと堅実な、地に足の着いた手応えを期待しているのだ。けれども、到底そんな反応が期待できる人ではない。自分本位に徹底することも出来ない、自分を掴み損ねた、感じ易く弱いだけの人なのだ。一体なにが私と彼を取り持つのだろう。私は彼に同情しているのだろうか。庇護することに、満足を覚えているのだろうか。それに適当な言葉を添えて伝えたのなら、この意気地なしの無頼漢は自己愛だと笑うだろうか。私は思う。それは恐らく共感なのだ。彼の苦しみ、生き難さに対する、共感。余裕なく、慰めのない人生への共感なのだ。彼を拒まなかった私の、厭らしい、共感なのだ。


 これから、彼はどうなってしまうことだろう。私はいつまでも彼の傍にいることはできないだろう。彼もまた、そう考えることだろう。うう、と呻いた彼の頬を一条の涙が伝った。まるで、地獄のような人だ。


「起きたね」


「ああ、悪い。少し寝ちまってた」


「宗助くんは、卑怯だね」少女はぎこちなく微笑んで言った。


「うん。おれは卑怯なんだ」宗助は無表情にそう繰り返した。


 送って行くという宗助に柔らかく断りを入れて、少女は一人帰って行った。


 台所でコーヒーを飲んでから、宗助は自室のイーゼルに掛けられた布を取って、完成したタブローを眺めた。それは純粋に美しいものを描こうと手をつけられた、一幅の風景画であった。果たして出来上がったものは、雄大な富良野の地に一面拡がるラベンダー畑である。宗助は単調で素朴な色相の積み重なりに、見る者を漂白する作用を現すことを企図した。けれども、タブローは彼の意に沿うものとはならなかった。描き進めるうち、緑地に茂るラベンダー畑は趣をがらりと変えた。木の芽のようにぼってりと充実した匂やかな花穂は亡者の指先へと変じ、風に揺らめく様はさながら奈落へと誘う不気味な手招きのように、身をこごめて収穫にあたる青年は、地に額ずき憐恕を願う浅ましい罪人の如くあった。これら幾つかの象徴の上に、石造りの風車の羽根が緩やかに旋回している。暗鬱な浮雲を巻き込みながら、羽根車はバターのように融解し、生温い滴りが地を濡らす。パステル調の色調は陰惨な印象を助長している。


 ――これがおれに馴染みなのだな。


 宗助は自分が描き上げ、コンクールに応募した幾つかの作品を思い浮かべた。顔の潰れた裸婦像だの、抱き合った乞食の、融合した部分部分だの、死体と人形の機械仕掛けの結合だの、朽ちた社殿、或いは虫、虫、虫……。


 ――求めるものと、上手く合致しないのだな。


 少女とのことを考えると、寒々とした心持ちがした。ルドンの画集は彼女に預けたままになっている。自分から彼女に返却を求める気にはなれなかった。彼女はキュクロプスを見ただろうか。ガラテイアに焦がれる単眼の巨人。色づいた山中に抱かれるようにして眠る彼女に、悩ましい視線を投げかける異様なマッス。けれども、巨人の視線はガラテイアを捉えていただろうか。初めてこの絵を見たとき、宗助はキュクロプスの視線が画面のこちら側を見据えているような気がして、動揺したのである。そうしてもう一人のガラテイア、彫刻家の手によって創り出された白亜の彫像を連想せずにはいられなかった。自身の創り出した彫像に焦がれるピュグマリオン。彼の願いを聞き入れて、アフロディテは彫像に生命を与えた。果たして、女神はその時にどんな顔をしていたものだろう。彫像しか愛せない男が創り出した理想の彫像は、愛の女神自身に酷似していたのだ。哀しみや切なさが主題なのではないのだ。もっと、自覚的でグロテスクな戸惑いが、宗助の目をキュクロプスから逸らすことを許さなかった。


 ――おれは石像に対する愛情を知らないのだ。最も深く突き詰めたそれを知らないのだ。


 玄関が音を立てた。父親が帰って来たようだった。襖が開く音がして、間を置いて、隣室から声を潜めた父の読経が漏れ聞こえた。宗助は床に胡坐を掻いて、青一色の自室を呆然と見渡した。どこか外国で、こんな心理テストがあったような気がする。ベッドに横になり、力の入らない四肢を投げ出して、目を瞑った。自殺装置。初めて自殺というものを意識したのは何時のことであったろうと考えた。それはきっと擬似的なものとは言え、自殺と睡眠とに類似を見出した時に違いなかった。



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