十字架の少女
父の友人に石田という宗教家があった。父より一回り年嵩のガラス職人で、彼は仏教徒ではなくクリスチャンであり、陶芸家でもあった。二人がどのように親近したものか、宗助に委細は判らねど、大方芸事の趣味が両者を結び付けたものだろう。普段ならば他宗派、殊に禅坊主の話でもすれば露骨に顔を顰める父が、一方でキリスト教徒には胸襟を開き、愛憐の情を以って親昵であるということは、なんとしても宗助に合点がゆかぬ所であった。他者の信仰、形式に容喙し膠着するのであれば、あらゆる形式には寛解することのない病的な嚇怒を以って遇するが至当であると思われた。また、信仰が相対的であり実生活をより良く宰領する為の方便であるのならば、なにも神仏に額ずき、あれやこれやを記誦することもあるまい。よしそれが現実に即した命を生かす斯道であるにしても、信仰にはそれで済まぬ毒がある。信仰は手に掴んだ毒瓶だ。その用途だ。瓶の内はなみなみと我に満ちている。あえてそれを取る。何れ狂悖の徒に過ぎぬではないか。ならば、敵は何れも灰も残さぬ。されど膠着すれば相手を立てる。ならば全ては賢しらと、邪魔な毒瓶なぞは早々に投げ捨ててしまえば良い。
終始そんな調子であったから、父の赴任の先、連れられて石田の工房に見学しても、宗助は怏々として楽しまずにいた。父と石田は熱気に満ちた工房でなにか作っている様子だが、宗助は彼らから離れて展示室のソファに腰を下ろしていた。カルチャースクールを開催しているらしく、展示室には職人や生徒達の巧拙取り混ぜた工芸品が所狭しと並べられていた。色とりどりの涼やかなグラスの一群、動物を象った小さなガラス細工、勾玉のような様々の意匠を凝らしたとんぼ玉、流絢なガラスペンの数々、銅鏡のような細工を施された鈍重な色彩の皿……。それらひとつひとつに目を遣っていると、母屋に続くドアから菓子盆を手に少女がやって来た。石田の娘であろう。年の頃は宗助に変わらずといったところで、痩せた長身の少女である。背は宗助に比してもかなり高く、肉の薄い身体はまるで彫像のように均整が取れている。首の上に乗った顔も人並み以上には見目が良く、一見して酷薄な薄い唇の上には細い鼻梁が隆として続き、控えた目元は冷然とした印象を覆すように底深く穏やかに、草食動物の従順を溢れんばかりに湛えている。
「これ、どら焼きなんだけれど、和菓子とか平気?」
少女に見惚れていた宗助は咄嗟に返事が出来ず、有耶無耶に短く呻いた。少女はそれに小さく微笑むと、菓子盆をテーブルに置いて母屋の方へと戻るようであった。
「お茶を持って来るね」
自身のあらゆる経験の不足が、こんな場合にも宗助の自尊心を甚く刺激した。少女がその場を去りそうになると今更に背中へ向けて、いえ、おかまいなく、などと言う。時宜を逸した真面目を、それこそ真顔でやる宗助に少女は声を出して笑ってしまうところだった。
「お父さん達、まだかかるだろうから」
言葉の末を寛がせて、少女は母屋に向かった。宗助がまたおれはひとつしくじりをやったぞ、と顔を赤くして煩悶しているうち、すぐと少女が急須やら茶碗やらを手に戻ってきた。急須から茶を淹れると茶碗を宗助の前に置き、自分も彼の対面に腰を下ろした。総体に宗助の郷里では良く茶を喫む。それが特産であり、生活に馴染みのものであったから、先ず口にしない日というものはなく、まるで水の代わりのように無造作に喫する。それが無造作で水の代わりであるから、当然自ら購うでもない宗助に茶の趣味はなく、その結構も判らない。普段飲みつけたものとの単純な差異が舌の先に感ぜられるばかりである。勧められるままに口をつけて、これは宗助の舌に新しかった。僅かに黄味がかった茶は実に香ばしかった。
「あられが浮いている。初めて飲んだなあ」
「そんなに珍しい物でもないよ。近所のお茶屋さんに売っているから」
お菓子もどうぞ、と勧められて宗助は菓子盆のどら焼きに手を伸ばした。
「宗助くんはお父さん達と一緒に作らないの?」
栗入りのどら焼きを一口飲み下して、
「おれにはガラス細工は判らないし、今は見てるだけでいいかな」
少女は自分の茶碗に茶を淹れながら、なにか考えるようであった。少し笑って、
「そう。私は芸術一般が解らないよ。見て、なにか気に入ったものはあった?」
「そうだな。あのテーブルの、紐で括られたとんぼ玉なんか、凄く良いね」
「へえ。意外だな。宗助くんなら、お皿とか好きそうだけれど。細工も凝っているし、綺麗じゃない」
「皿はあまり。いいじゃない、とんぼ玉。小さくってさ、ころころしてて」
「でもそれで言ったら、あのガラスペンとかはどう? ころころして小さいよ」
「あれは駄目だな。実用的じゃない。なにより目にうるさい」
宗助は心得顔で言うと、頻りに頷いた。少女は今度は声を抑えることなく笑った。宗助もそれに笑い返した。実用的でなく、目にも煩い道具。実用的でなく、目にも煩い道具。最前の会話を反芻した。
「宗助くんにはやっぱり絵の方が良いか。私にはそういった才能は遺伝しなかったみたいで、羨ましいよ。好きな画家とかいるでしょう。どんな絵画が好きなの? お薦めがあったら教えてよ」
そう聞かれて、宗助は返答に窮した。おれはどういった絵画を好むのだろう。著名な画家の代表作が次々と脳裏をかすめる。おれはなにを……。一枚のタブローが心に留まった。ルドンのキュクロプス。イメージはピンで留められたように固定されて離れない。
「ルドンの……」
あれを見せたのなら、少女はなにを思うのだろう。少女らしく合点がいったというような顔をして見せるだろうか。呪わしく思うのだろうか。それとも、もっとグロテスクな憂鬱を……。
「君はキリスト教徒だろう。イエスのみこころなんか良いんじゃないか」
「宗教画? 宗助くんはそれが好きなの?」
「好い絵だと思うよ。良ければ今度、画集を貸すよ」
少女はそれを是非見てみたいと言って、心持ち身を乗り出すようにして菓子盆からどら焼きを手に取った。その際に首に吊るされた十字架がするりと胸元から滑り落ちた。小さな十字架が室内灯の光を受けて鈍く光りながら、彼女とテーブルの間の空間を揺曳し、身を引く彼女に合わせて遠のいていった。その様を宗助はどら焼きを齧りながら凝視した。
「それ、十字架だね」
「そう、十字架。宗助くん、どら焼きを両手で食べるんだね。可愛いね」
言われてみると、確かに自分は両手にどら焼きを持って齧り付いている。そんな所作に初めて気が付いたのだ。宗助は耳を赤く染めて噴出し笑いをした。少女は宗助が気恥ずかしいのを笑いに誤魔化そうとするものと思って、慌てて言った。
「別に変じゃないよ」心証を悪くしてしまっただろうか。これは私の言句への彼なりの対応なのだろうか。少女は些か表情を緊張させた。
「いや、いや。そうじゃなくてね」宗助は自分の所作を指摘されて、動揺するのでなかった。彼女の言句を笑殺せんと歯を剥いて威嚇するのでもなかった。
「おれはさ、言われて初めて自分が両手でどら焼きを食っていることに気が付いたんだよ。すると、今までも時とすると菓子を両手で食っていたんだ、無意識に。友達と真面目な顔して一席打っている間にも、きっとおれは摘んだ菓子を両手にしこしこ食っていたんだ。森の齧歯類みたいにだぜ。あっはっは」
そうして宗助は白い歯を覗かせて拘りなく笑う。少女もそれが自分に向けられた攻撃でないと知ると、蟠りがとけた安堵から一層、宗助に釣り込まれて、一緒になって笑い始めるのであった。少女の笑い声は耳に心地良かった。鈴のようにころころと転がるようで、けれども眠気を誘うような量感のあるふくよかな音声。宗助は思った。ああ、こういうのが良いな。とんぼ玉のような、こういうのが良いな。煩くない、こういうのが良いな。
それから半時ほどして、宗助は父と共に宅を辞した。帰りの車中で少女の名前と、彼女が自分にひとつ年上の高校生であることを知った。そうと知れば年長者に随分な口を利いたものだが、宗助の態度は普段からして尊大というよりは厚顔なのだった。他人との交渉に技術を一顧だにしない無知。子供以上に或いは自分本位な子供。後日、宗助はルドンの画集を携えて石田宅を再訪した。以来、少女との交際は断続的に宗助が郷里を離れるまでに及んだ。しかし、機縁となった夜程に両者が晴れ晴れと澄み切った心で向かい合うことは、ついになかったのである。




