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蒲公英  作者: 東間 重明
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ガンジスの餅


 飲み屋の乱立する中心街のアーケードに『よいどれ横丁』はあった。幅員は精々二メートル程しかなく、ただでさえ手狭なところをビールの空ケースやら手桶やらが表に取っ散らかっているので歩き難いこと夥しく、上を見上げればウエスやら甚だしきは肌着までが横断する洗濯紐に翩翻とひるがえっているのだから遣り切れない。矩形に切り取られた空からは日光が落ちかかり、随分と具合が良いのであろう、人馴れのした薄汚い野良猫が緊張のかけらもなく横合いを通り過ぎる宗助を前に、積み上げられた資材ダンボールの上に寝転がりながら、緑色の眼をうっすりとまどろんでいる。まるで時代にそぐわない古色蒼然の佇まいであるが、これを下町情緒と呼ぶにはあまりに退廃糜爛の気配濃厚で、これをしも中心街の九龍城と言い換えたのなら適当であろうというところ。これで虚ろな眼をした禿親父などが軒先に紫煙をくゆらせてでもいれば、ますます見栄えのしたことだろう、などとうら寂れた飲み屋の暖簾を閲しつつ横丁を通り抜けると、月極め駐車場が見えてくる。その横手の製氷店とオカマバーに挟まれた煙草屋が、啓三の実家であった。


 看板は掲げてあるものの、この昼日中に入り口には業務用の重厚なシャッターが下りたままであり、店先に二台の自動販売機がぽつねんと置かれているのみで、これとてもたまに啓三の祖母が商品を入れ替えるくらいなもので、あまり熱心に経営している様子ではない。聞けば一家の主立った収入源は賃貸収入ということであったから、近年認知症の昂進した祖母の為に用意された消閑の備えみたいなものであった。自然在庫の管理も杜撰になるところを、どら息子が友人に幾らかの値引きをした上で賞味期限の迫った商材を器用に売り捌いて小遣い銭を拵えていたりする。シャッターを引き上げて薄暗い店内に入ると、床に山と積まれたダンボールに両手をがさごそと突っ込んで中身を物色している者がある。


「マルボロ、マルボロ……キャメルでもいいかあ」


 級友の岡田が暗がりに目当ての煙草を物色していた。大方啓三の祖母は買い物にでも出ているのであろう。店の奥手から、キャメルならもう少しまかるぞ、と啓三の声がした。


「まあ、煙が出れァなんでもいいんだけえが。なんだ、お前も煙草買いに来ただ?」


 如何に割安であろうともカートンで煙草が買えるほどの持ち合わせがなかった。元より、煙草ではなく啓三に用があってやって来た宗助は、


「なんでもいいなら、みかんの皮でも刻んで吸っとけよ」


「前に混ぜ物して吸ったことはあるんよ。教科書破って巻いて」


「どうだったんだそれは」


「もうもうと黒い煙が出ちゃって、駄目だァ。ちゃんとした巻紙買って詰めるのも面倒くさいと思ってナ」


 岡田は言いながら刻み煙草とパイプやツールの陳列されたショーケースを眼もやらず指差すと、また黙々と目当ての品をダンボールの山から発掘する作業へと戻っていった。学友を残して宗助は啓三の声の聞こえた奥手に進んだ。元々は喫茶店として作られた店内には今もカウンターとスツールがそのままに残され、一家の食卓として機能していた。フロアには衝立があり、その向こうに啓三の祖母は起き伏ししている。カウンターを回り込み、テラスに続く通路に向かうと、そこに啓三は屈み込んで熱心に手元を動かしていた。


「なにをしてる」


 覗き込むと、なにか石膏粘土様の白い塊をナイフで削り込んでいたものらしい。


「工作でも始めるのか」


「違うわ。良く見てみろ。モチだよ、モチ。カビの生えてるとこ削ればまだ充分食えるからな」


 平成の世にまだこのような男がいたものかと、友人の心細い経済と反骨心に涙ぐむ思いの宗助ではあったが、なにも自分とて彼に同情するような身分、間柄でもなく、自家に於いて日々供される糧秣にまだまだ食い足らぬ成長の盛りのこと、近頃では啓三と二人して快く歓待してくれるのを良いことに、長田の家で毎晩食事をたかるという有様であるから、とやこう言えたものでない。この日も都合が良ければ啓三を伴って長田の家の厄介になろうと腹積もりをしていたものが、啓三の父が晩の肴を手にひょっくり帰って来たので、ご馳走になることになった。


「今日はボロ勝ちやったからな、奮発して自然薯買うて来たで」


「そら凄いわ。宗助、お前も大概運が良いわなァ」啓三はにっ、と宗助に笑い掛けると、彫刻を廃してカウンターに回り込み、米を研ぐ準備に掛かった。岡田はどうしているかと見れば、何時の間にやら居なくなっている。手持ち無沙汰な宗助は先の遣り取りからして疑問に思っていたことを啓三の父に問うた。


「ジネンジョって、なんです?」耳慣れない宗助には、それが珍妙な魚の別称の如く思われた。


「なんや園部、知らんのんか。自然薯言うんはな、アレや、ごっつい、長芋やな。とろろ汁も良し、刺身にしても良し、とろろ汁言うたら東海道の、ご近所丸子の名産やで。麦飯の用意ないのが玉に瑕やろうが、白米でも十分やろう。おう、啓。飯大目に準備せえよ。欠食児童が一名追加やからな」


 軽快な関西訛りで説明をしながらも、啓三の父は淀みなくその他の晩の菜を仕掛けてゆく。元は飲食店経営者だけあって、包丁捌きも手馴れたものであった。しばらくして飯も炊けると、宗助は啓三と二人スツールに腰掛けて、大盛りの丼飯と小体な皿に盛り付けられた青菜のおひたしや、きめ細かな無染の土のように稠密で、酔っ払いそうなほど濃厚な香りのとろろ汁だの、雪山から削り出された雪片のように的皪と新鮮に輝く刺身などに、猛然と箸を伸ばした。一口啜り、一口噛み締め、なにか厳粛な気色も入り混じった独特な香気を全身に薫ずる。宗助はよもや、これほど甘い食い物があろうとは思わなかった。まるで、それは精気を凝縮した土中の氷塊のようだ。


「甘いやろう。かぶれるからな、後で口やら手やら痒くなるぞ。わっはっは」


 啓三の父は自分はそれを食べようともしないで、カウンターから二人ががつがつと丼に箸を突き込む様を眺めて、すぐと二階の自室へ引き上げてしまった。


「甘いな、これ。贅沢なもん食ってんな」


「ああん? 親父が麻雀勝ったときくらいだな。それも大勝の。だから今夜のお前は特別運が良いんだよ」


 少しばかり申し訳のないような、気後れのする宗助である。二人は晩飯を綺麗に平らげると、食器を水張りしたシンクにつけ置いて、螺旋状の階段を昇って二階に上がった。昇って右手が啓三の父の書斎兼寝室である。ぼんやりとナイトランプの暖光が漏れ出る室内にご馳走様でしたと宗助が声を掛けると、内からはおーう、と気の抜けたような応えがあった。殊更気にも掛けない調子が宗助に有り難かった。二人は左手の啓三の私室に足を運んだ。


 そこは私室とは雖も、階段脇の空間を利用した小部屋に過ぎず、お世辞にも起き伏しするに十分な部屋と呼べる代物であったかどうか。物置と呼んだ方が適当なくらいのものであり、室内は縦長に凡そ二畳、奥手には古ぼけた長持ちがでんと備え付けられ、実用的な空間は凡そ一畳ほどしかなかった。その一畳にしてからが万年床の煎餅布団で、起きて半畳寝て一畳とはよく言ったものだと、しかしこれは腹蔵なく宗助の感心したところである。室内調度は過不足なく、小さなテレビと窓枠に作りつけられた小棚とがあった。この部屋に入った者は例外なく湿っぽい煎餅布団に胡坐をかいて、対面式に遣り取りをする他ないのであるが、それで一向窮屈とも思われなかった。


 当て所ない知己級友がここに集まり、てんで好き放題に振る舞った。煙草を黙々とくゆらせて、ある者は大酒を食らって高鼾をし、ある者はシンナーを吸い過ぎて言語中枢が機能不全に陥り、幼児退行したりした。ある時酔い潰れた級友を起こそうと、ライターオイルを毛脛に塗り込み、裸に剥いた級友の足指に点火したところ、下半身全体に青白い炎が瞬時に燃え広がり、米搗きバッタのように飛び起きた級友が暴れまわって、ちょっとした小火騒ぎになったりもした。そうして夜も更けて町の喧騒だけが耳につくようになると、皆で集めた小銭を持って、二階のベランダの雨樋を伝ってそっと外に出て、コンビニで夜食だの酒だのを買い求める。道中、風俗店の客引きがにやにやと笑いながらお愛想を言う。今ほどに規制されていない時分でもあったから、中学生相手の遣り取りにもどこか投げ遣りで鷹揚なウィットがあった。啓三などは町中に住んでこなれたものであるから、今要らん、の一言で済ますところを、宗助などはその薄ぼんやりした格好から南米系の女性に肩を抱かれ、股間を揉み解されながら店内へと連行されかかったことが何度もあった。今金、無い。ナンダヨー。まさか冗談だろうと思いたいところである。


 さて部屋に帰り着けば、呑んでも良し呑まずとも良しで、朝方までゆるゆると他愛もない雑談に耽る。トタン屋根をばらばらと打ち叩く雨音を聞きながら、酔漢の罵言や怒声を聞きながら。少年らしい、他愛もない話を。


「やっぱりアレだな。宇宙は良いもんだぞ園部。なんて言ったって広大だ。広大無辺だ。なにが良いって、なんだか良く判らないところが良い。果てが無い。不条理で神秘的で、ガンジス河みたいにクールだ」


 変色したガラスコップに注いだ焼酎を舐めながら、啓三が言う。つと宗助は啓三の言辞に凶兆のようなものを観取して動悸がした。ガンジス河と宇宙、不条理と神秘……。そうだ、外表的にはどうであれ、こいつだって影響を受けない訳はないんだ。一層陰惨なねじれを……。


「じゃあ、宇宙に飛んで行け」


 そう言って宗助は啓三のコップを引っ手繰って中身を一息に飲み干した。


「おう。じゃあ、おれは宇宙飛行士になるわ。おまえはどうするんだ」


 空になったコップに啓三が焼酎を注ぐ。


「おれは……、おれは画家になるわ。自分の絵を物にして、ずっと描いてゆく」


「そうか。んじゃなにか描いて、そんときはサインくれや」


「ああ、くれてやるよ。おまえにも他の奴にも」


 いつか喧騒も静まり、明け方近く白み始めた町に鴉の声が聞こえ始めた。



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