螺子はにび色
宗助の中学校進学に合わせて、それまで母屋の二階に起居していた一家は離れに移り住み、代わりに地元での転職を考えていた叔父がそれを機に住居の定まるまでの間、母屋の二階に仮寓することに決まった。宗助の父もまた、職を求めて東奔西走する日々を送っていたが、こちらは芳しくなかった。当面を凌ぐだけの仕事にはありつけたものの、腰を落ち着けるような満足できるものでなく、絵本を描きながら、保育士の資格を取る為に夜毎勉強をしていた。経済的な不足もあって、父はそれまで愛好していた煙草をやめた。しかし、実家を飛び出して行って、二人の子供を抱えて実家に舞い戻った、鳴かず飛ばずのこの父に、ここは人の性というもので、始めは同情的であった者も何ら目ぼしい成果がないとなると、彼の社会的信用を疑わずにはいられない。実際に対する彼の自覚分別、明識といったものに、自然と疑いの眼は向けられるのであった。いい歳をして、二人の子供がありながら金にもならぬ絵などを描いている者はない。しっかりと自立をして、片手間にやるのが本当だ。それのできない者の手慰みだ。まったく先々の計算といったものができないのだから……。母親にしたってね……。と、まさか宗助のいる目の前に父を叱責したものでもないが、祖母と父との衝突の気配を夕食を仕掛けた食卓に感じ取ると、宗助は我事のように耳まで赤くなり、飯も碌々咽喉を通らない。皆が一様に口を噤み、黙然と食事をしている間、父は無表情に食卓に端坐しているか、さもなくば心の把持を失った夢中の人のように、虚ろで頼りない微笑を浮かべながら、宗助の学校生活の様子などに水を向けるのが常であった。屈辱とどこに尻の落ち着けどころもない憤懣とを飲み込んで、宗助はそれに答えなければならなかった。自然、剣呑な口調になるところを、傍で眺めていた妹は何事もなかったように飯を平らげ、難渋する宗助に憫笑ともつかぬ奇態な表情を向けて自室へと戻っていった。まるでこのような心事に拘泥することが心底馬鹿らしいとでも言うかのような、無造作な挙措であった。そうして、それはその通りでもあった。通り過ぎるところに非難の眼を向けた宗助に、彼女はなおも酷薄な冷笑をもって応酬した。更には、彼女が度々母親に連絡をし、小遣いを無心していることをも知っていた為に、宗助はそこに明らかな侮蔑の印を見て取った。
――貴様にはまごころというものがないのか。父親について来ながら、早々に手のひらを返し、あさましく母親に金の無心をする! なら何故始めから母親の元へ行かなかった。何故、父親の元に居ながら、父の味方をしないのだ。金が大事か! 遊ぶ為の金が大事か! 我慢のならないほどに欲しいか!
それが純然な義憤であろうとも、独善との謗りは免れぬところの激情を、宗助は律することができなかった。卓を無言で立つと、妹の方へと歩み寄り、「なに」と答える妹の顔を睨みつけると、髪を引き掴み二度三度と横面を打擲した。いざ暴力を実行に移すと、宗助は頬を張る度に悔恨の情に襲われ、言葉もなく暴力に訴えるしか能のない己の人間性の不具が厭でも意識されて思わず涙ぐんだ。妹も気丈で生意気なところのある性質ではあったけれども、そこは尋常の少女であるから、間もなく火のついたように泣き出した。宗助は妹の頬を滂沱と流れる涙をどうすることもできずこれを持て余し、過去に宗助が妹に感情的に手を上げたときには遠慮なく彼を打擲した父も黙り込んだままであった。そうしてその沈黙から、自分の幼稚な正義感に父が日頃少なからず慰撫されており、行為を代行してゆく拙い彼我同一化の過程と進行から、妹よりは自分に一層の信頼と歪んだ愛情の注がれつつあることを悟ると、宗助は何より妹と父が憐れに思われた。そうして地中の芋虫のようにぬくぬくと暖まり次第に肥えてゆく同性愛的な連帯に吐き気を催した。
「いい加減にしなよ、あんたたち!」
祖母が事態の収束を図ったが、宗助の心情はいよいよ混迷の度を加え、
「うるせえ! この馬鹿野郎どもが!」
とうとう言い捨てると、家を飛び出し一昼夜家には戻らなかった。
宗助は妹の態度にも、父のそれにも飽き足らなかった。自分を取り巻く実生活上の平面には、何ひとつ本当らしく思われるものは見当たらなかった。
――生活は不潔だ。べたべたと身体にまとわりつく。甘ったるい蜂蜜のように。にび色に光る汚水のように。おれはこの側溝の泥水の底から逃れ出たい。神仏の援けも利益も要らぬ。ただ意識の明晰をもって、灼然たる真昼の世界へと飛び出したい。もしそれが叶わぬのなら、すっかりと諦めてしまい、下劣な本性のままに側溝の底に生活をし、なおこの本願を忘れることの無い自分を再度見出したとき、おれは自らの手でこの狂った豚を殺さねばならぬ。おれは父と同じようにはならない。父と同じ失敗は繰り返さない。
宗助は奇妙な興奮を覚えながら、自己喪失の荒廃のうちに、激しい実存的な歓喜を伴う、新しい一個の問題を見出した。すなわち、
おれは父を超える画家にならねばならぬ。
そうして、父の失ったものを取り戻さねばならぬ。また、そうあらねば自己の快復も望めまい。それは自分にもっともな要求と思われた。宗助はこの一貫性を欠いた一個の想像に、しかし勇気を得て、その内奥に螺旋をきった螺子のように自らを鋭く捻じ込んでいった。
そのように奇態な主張を胸に秘めながらも、彼は自閉と興奮との振幅に己が身を預けるばかりで、その主張をどのように実現するかという実際には彼の父同様に頭が回らず、形式的な、もっとむきつけな言い方をすれば、努力を意志する為の反復的な技術修練に没頭した。彼にはなにをどのように表現したいのか、絵画に対する根本的動機が欠落していた。自らの主張を障碍し、つまるところそれが自身の個別化を成すところの真剣な対決を思うと、想像の力も現在に及ぶことなく、かえって自己実現を阻害する反動へと転化された。なんとなれば彼が自己の個別化の場に持ち来たった明証性は、父親から一時的に借り受けられたものに過ぎず、彼にとり本来的なものではなかったが為に。
――おれには、おれ自身には、賭けるべきなにものもない……。おれにはなにもない。おれには自己というべき、本来的なものなどなにひとつない。おれはおれにならなければならないのに、肝心の目的から手段まで、全てがまがいものだ!
それが宗助の悚懼するところであり、罪悪感と恐怖、また日増しに己を責め苛む廉恥心から逃れるように、彼は傍目には理解の出来ぬ奇矯な行動へと駆り立てられた。学校内での彼の道化ぶりには誰もが眉を顰めたが、(教師への度を越した放言、校内設備の破壊、窃盗、私的占有、授業の妨害など)一方でこの半気違いの少年に興味を持つ者もあり、当時学級代表を務めていた長田がそれであった。誰という馴染みもなく、ぽつねんと机に突っ伏していた宗助に、長田は誰にでもそうするように平坦な調子で世間話を始めた。
「園部はなにか部活をしないのか」
「いや、しない」
「なにか用事でもあるのかい。放課後になったらひまだろう」
宗助は机の上に肘をついて、眠たそうにまたたきした。
「ひまなことはない。家に帰って、絵を描く」
「絵が描けるのか。だったら美術部にでも入ったらどうだ? もったいないじゃないか」
面倒見が良いという人物評が適当なこの同級生に宗助は渋面を作り、更には眠気を堪えられぬのか、生欠伸を噛み殺しながらそれに答えた。
「そりゃ描きたいものがあるのだったら美術部に入るだろうさ。しかし自分で描きたいもののない者が美術部に入ってどうなる。石膏像やガラス球を描くのか? それが描きたいものなのか。それで、描けるようになるのかね」
今度は長田が顔を顰める番であった。どうしてここでこのような屁理屈が出てくるのだ。なんだか陰気で思わせぶりな奴だ、という印象だ。とはいえ、こちらから話を始めた以上、中途で終わらせるわけにも行かない。宗助は宗助で本人を目の前に露骨に顔を顰め、心の内を探るような重量を持った視線を注ぐ長田に苦笑しながら、面倒見良く、同級の者に代表らしく平等という触れ込みだが、割合に好みのはっきりしたところのある奴だ、とこちらは構わずにやにやとしている。長田はなにをへらへらしてやがる、と気に食わないところをぐっと堪えて、いい加減に話を続けた。
「そうか? 練習になると思うけどな。それじゃあ園部はなんで絵を描くんだ。描きたいものもないのに絵の練習をすることは無意味なんだろう。君の言うには」と、最後には幾分挑みかかるような調子である。これには宗助も些か居を正して、なにか思案気にぼりぼりと頭を掻いている。そうして自分でも言葉を持て余しているように当惑気味に、訥々と語り出した。
「いや、言葉が悪かったかな。なんというか、お前にはおれが美術をやっている者に対して嫌味を言っているように聞こえたかもしれない。もしかしたら、おれが部活もせずにだらだらとしているので、そこを追求されてなんだか屁理屈みたいなものを持ち出してごまかそうとしていると感じたかもしれない。だけどそれは違う。おれはおれ自身の問題を率直に話しただけで、おれ以外の人にどうこう言うつもりはない。おれは努力を馬鹿にするのじゃなくて、ただ描きたいものをしっかりと手にしている人に申し訳ないような気がするんだよ。もっと言って、恥ずかしいんだよ。自分は真剣でないという気がしてね。それでそこに参加するのは気が重い。モチロン自分は絵を描きたいよ。しかしなあ、なにを描きたいのか自分でもわからん。しかし描きたいんだよ。なにかを描きたいんだ」
長田は宗助の言わんとすることが半分も飲み込めなかった。しかし宗助の饒舌に釣り込まれるように穂を継いだ。
「なんだかよくわからない気がするが。それでも家に帰ったら随分描くんだろう。それは技術修練には違いないだろう。そうしたら美術部の連中と大差はないのじゃないか。それに目標が定まらないうちは走り出せないというのも、なんだかへんくつな気がするね」
「うん。おれもそう思うよ。大体おれは馬鹿なんだよ。それで気ばかり急いてね。絵画の技術以上に別の修練が必要なんだろう」
「それはどんな?」
「それはだから、人間的修練なんじゃないか」
「人間的修練」
「うん」
「なんだか馬鹿みたいだ」
「だから、馬鹿だと言ったろう」
二人は笑った。すると、先ほどまでの相手に対する生硬な部分は溶け消えて、打ち解けた気分がした。普段の言行はアレだが、思ったより馬鹿でもないらしい。少しは自分というものを考えている奴だ、と長田は思った。
「ところで、今までずっと帰宅部だった訳じゃないんだろう。まさか小学校でも仙人みたいに部屋にこもって絵ばかり描いていたのか?」
「馬鹿を言え。小学生のおれはずっと活動的だったよ」
「何部だ」
「グラウンドゴルフ部と園芸部だ」
長田は腹を抱えて笑い転げ、宗助はなかなか馬鹿にしたもんじゃないと、グラウンドゴルフにおけるコース生成の妙と園芸の趣味について得々と語り出したことである。




