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蒲公英  作者: 東間 重明
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囁き声

 

 父の実家は長屋造りの純日本風な旧家であった。なんでも廃校の一部を曽祖父の代に持って来たものらしい。母屋の他に離れが一宇あった。母屋の面前は五階建てのマンションであったが、こういった現代風の建築物に次々と侵食されながらも、昔ながらの家屋の数多くは未だこの町にしぶとく腰を落ち着けていた。


 実家には祖母と、足の弱った曾祖母が二人、慎ましく生活をしていた。両者との面通しは既に済んでいた。あまり親戚付き合いを愉しむでもないのに、父親は数年前から頻繁に宗助と智子を連れて実家に遊びに来ていたのである。


 父の生家に遊興するのは、宗助に面白かった。自動車を降り、古さびた門戸を潜ると神仙の香りが鼻先を掠めた。玄関の前には自転車やスケートボード、ローラースケートやゴム毬が転がっていた。それらは父の兄弟姉妹が各々の幼年時代の形見に遺したかのように、幾年月をそこに変わらず在るのであった。宗助はこういった時節の波に揉まれた物品を、特にこれといった理由も説明できないままに偏愛した。父の実家は宗助少年にとり宝物庫のように燦爛として見えたものである。彼は柱に刻まれた背比べの痕を撫で慈しみ、そこへ貼り付けられた褪色したアニメキャラのステッカーに魅入られた。父と叔父が生活した離れには、学生時代の父の手によるイラストが、部屋の白壁に大きく描かれていた。また、今は使われることもなくなった、五右衛門風呂式の旧弊な湯釜があった。なにより、離れの引き戸の、経年劣化でくすんだ薄いガラスが、強く彼の心を魅した。日が落ちれば、見知らぬ土地での一夜は寝付かれぬほどに少年の心を興奮させた。父の語る思い出を聴きながら、蚊帳の手触りを愉しみながら、追走に耽る真夏の夜は快かった。


 反面、来訪の頻度が増すにつれ、宗助は父の彼を環境に馴致させる目的を感知せざるを得なかった。そこで、今ここに祖母達の歓待を受けつつも、事前に了解のあった宗助には、どこかそれが通過儀礼じみて見えた。


「明日になったら、制服と、なにか新しい服を買いに行くかね」


 夕食が済むと、祖母は言葉少なにテレビを眺めていた宗助と智子にそう水を向けた。宗助はそれに頷いた。智子はにこにこと笑っている。曾祖母が、テレビの良く見える定位置から、それがいいね、と祖母の言を追った。


 それから祖母は仏壇に向かって、経をあげた。立ち上る線香の煙から逃げ出すように、宗助は立ち上がり、彼らの仮寓することに決まった二階部屋へと上がった。智子は風呂に入りに行ったらしい。


 宗助は片付かぬ荷物の一隅から、担任教師から手渡された封筒を取り出した。封を切って手に取った一枚の便箋を読み終えると、もうそれ以上は読むに堪えなかった。便箋には如何にも子供らしい別離の心情が縷々と記されていた。そうして、宗助自身もまた、そのようにそれを見て取った。彼は自身の直面した小事件が、自身を同級の者と引き比べて大人びた感傷を抱かせるまでに変容させたとは考えたくなかった。何故なら、友情も思い出もそのままに残されてあったので。ただ、それらには常に哀傷の陰りが拭い難く付き纏うことを知った。彼はほんの先日までを過ごしたあの町を思った。彼の心はもうそこにはなかった。かといって、ここにあるものでもなかった。彼の心は落ち着くべき場所を失い、中空に彷徨っていた。その心は栓の抜けた湯船のように、勢い良く温かな情念を吐き出し始めていた。


 彼は父母の離婚から、自らの心境の変化を演繹したくはなかった。何故なら有為転変の憂苦は万人に等しいと自覚をしていた為に。また、そうであればこそ、事実的な要素を認めることも適わなかった。彼にとって、父母は普遍妥当性に解消されるべきものではなかった。悩乱の極みにあって、宗助少年は自らのねじ切れそうな神経に自然ともっともらしい説明を求めた。父親の、または親族の没頭する宗教は一連の事件に充分ではないものの、宗助の要求にはもっともらしい回答を与えるに適当であった。宗助はこれを標的と定めた。


 この段になって、宗助は両親を心から許していた。けれども、受け容れることは到底できなかった。それではあまりに救いが無いようであったから。そうして宗助は父母を許しながらも男女の肉縄を厭悪し、仮想敵を作り上げることで父母の別離を特殊化しようと目論んだ。


 ――何故、父の信仰は二人を救わない。何故『この二人』を救わないのだ?


 しかしながら、それも仕方なし、と割り切ることのできる自分をこそ、本当は認め難く呪わしく思われたのだ。彼は宗教というものに、かの仏陀に反目した堤婆達多のように、全身これ瞋恚の塊りとなって、満腔の嘲罵を浴びせかける一方、自らの瞞着、両親の性格の不和、金銭感覚の不和、果ては愛情の形態といった諸々の問題については、これを好んで看過した。彼には仏陀の説くところがよくよく呑み込めたように感ぜられた。閑寂として平静な美が、目の当たりにされた。そうして、それが美しく映えれば映えるほどに、宗助にはいよいよ耐え難くも思われた。仏祖は今や彼の怨敵であった。


 ――意志の力だ。意志するんだ。これ以上失わない為に。飲み込まれてしまわないように。


 ――ああ。『地上的な幸福』! 地上的のものであれば悪神であろうと痴愚神であろうと構わない。おれはそれを支持するよ。おれはそれを遥拝するよ。どんなに醜悪な地平にあったとしても。どんな教義をも併呑して、おれはそこに綺麗なものを探すよ。


 ――そうして、誰か成功してくれる者はないか。


 ――そっとおれの耳に、お前はすべて間違っていると、ささやいてくれる者はないか。


 恐らくはすべてが徒爾に終わるであろうと、いつかの月夜の声が、静かに宗助に語りかけた。ゆっくりと時間をかけて、心の襞の一枚一枚に精確に刻印するかのように。



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