一宇の伽藍
喉元にぴたりと張り付いたような、熱い不快の塊。取り除くことのできない血管よりも自身に肉薄した疼き。腹の底でとぐろを巻いている焦燥感が、ゆっくりと鎌首を擡げ始めている。宗助はこの蛇蝎から一心に遁走するのだが、直に捉えられ、その厭らしく濡れたような冷たい表皮に硬く締め上げられながら、内部へと引きずり戻される。肉体を牽引する蛇に、彼は手足を目一杯に突っ張って抵抗する。手指が、爪先が、内壁に向かって突き出され、無数の擦り傷を作り上げる。泣き腫らしたような赤い帯。彼はそれを滑稽なほど真面目な顔で眺めながら、自身が刻み込んだ傷痕を慈しみ、或いは訝りながら、自身の底深い陥穽へと声も上げず落ち込んでゆくのである。そうして既に幾度となく繰り返されたこの内的光景が、また加速度的に彼の暗鬱を深めてゆく。
万年お定まりの経路を辿って憂鬱症を悪化させてゆくのに伴って、宗助の起居する六畳間も漸次乱雑を極めた。西向きの採光用の小窓以外を締め切った薄暗いこの部屋には、木製の簡素な作りのベッド、作業用の机、本棚の他、目を引く家具調度の類はない。それにも係らず乱雑を極めているというのは他でもない。生活一般における廃棄物にも増して、板張りの床や本棚、挙句は机の上にまで珍奇な品物の数々が瀰漫している為である。それらは一様にどこかちっぽけで惨めな感じを起こさせる哀切に満ちた小物であり、例えば、外国女性の裸身がプリントされた褪色した紙トランプであったり、軽く揺すると内蔵された鈴の音の響く金属球であったり、彩りの豊かなリキュールの小瓶、ボンネットの潰れた薄桃色のキャデラックのミニチュア、下塗りを終えたまま埃を被ったキャンバス、ラメ入りのショール、安物のサングラスや、読み止しの文庫本などである。かつてはこれらの品々に少なからず慰められていたのであろうか。今となって見返してみても特別感興の湧くこともない。ばかりか、このような物品に慰撫されたという記憶すら思い起こすことができないでいる。
最初のうち机の片隅に置かれているオブジェの一つに過ぎなかったそれらは次第にその領土を拡げ、机から床下、本棚からベッドにまで展開し、今や足の踏み場も無くなった六畳間の心細い空間を我が物顔に領している。宗助はそのような部屋のなかにあって、所在無く机に向かい頭を垂れている。部屋を掃除するべきだ、と誰もが判じるところであろう。無論、彼とてそのような意志の芽生えないことはない。しかしながら、いざ行動に移ろうとするその直前、骨身を砕くような倦怠に見舞われ、この死物の山の如きを前に脱力してしまう。
自身の無気力に正比例して堆積し、室内調度あらゆる物をそのくすんだ皮膜で覆い尽くした、なめらかな塵埃。室内景観を淡い褪色の内に包み込み、不健康で鮮明な追想を喚起せしめる精神の澱。内も外も変わりはないな、と宗助は独語する。弛緩した、真昼の外気に暖められた室内に一条の光が差し込み、開け放たれた採光用の小窓から吹き込む微風が静止した埃を巻き上げ、光の帯のなかに打ち砕かれた結晶のように舞い躍らせた。しばらく陽光を乱反射させながら光のカーペットに戯れる結晶のひとつひとつを観察していると、不意に宗助は五、六度激しく咳き込み、痩身を震わせた。胸骨が軋むほどの湿った咳が断続的に内部から突き上がり、涙を溢しながら彼はよろよろとトイレに向かった。キッチンの床にはすっかり消費されたウィスキーのボトルが数え切れない程に散乱しており、そのうちのひとつに彼の足がぶつかると、ボトルは鈍重な音を響かせて倒れ込んだ。宗助は眉根を寄せながら、しかしボトルには頓着しないままに、以前友人が酔った勢いで力任せに捻った為にその機能を永久に失った、ノブの取れた歪曲したドアを軋らせて、別の友人が所属している劇団のパンフレットや藁半紙やらが雑多に貼り付けられたトイレにようよう辿り着いた。そうして便器に茶褐色の痰を吐き出すと、胸を押さえながらその場に蹲り、経験的に予測される更に激しい発作に備え、顔を便器に突き込んだ。予想の通りにたっぷりと二分間苦しむと、宗助は便器に盛大に胃液を吐いた。消化物の無い胃酸とアルコールが彼の咽喉を焼いた。
覚束ない足取りでトイレを出ると、胃酸で爛れた口中を濯ごうと流し台に向かった。シンクは久しく手入れもされておらず、水垢がべっとりとこびり付いて黒ずんでいる。脇から徳用の含嗽剤とコップを取り出して用を足すと、ようやく人間らしい心持ちを取り戻した。
――しかしまあ、なんとみすぼらしいデ・ゼッサントだろう。おれは彼程に恣意的ではないし、あの童子的な豪奢にも肖れない貧者だ。明敏な審美眼も無ければ、眼光紙背に徹する慧眼も持ち合わせてはいない。しかし、才覚の別はともかくとして、俗塵に塗れ他人の手垢で陵辱された一切事物から遠く逃れ、黄塵の及ばぬ夢想の城に我と我が身を隠し、思索の暗渠に沈潜せねばならなかった彼の精神的枯痩を考えるとき、鉱山の奥深くに発掘の時を待つ原石のような、あらゆる思索家、芸術家、宗教家に内在する一個の詩的表徴を感じ取らずにはいられない。それらは一様に反動的な、といって都合が悪ければ、相対化されたなにものかにこっぴどく痛めつけられた血の滴る紅玉だ。彼らは自身の血肉でそれを彫琢する。不断に妖光を放つ為には、彼らは自らの詩情を異化しつつ、同時に外部からの無化に堪えなければならない。この我が身喰らう蛇の原理を是認せねばならない。
なにもこのような話は彼らに固有なのではなくて、実際的にどこにでも転がっている話だ。全く子供にも理解のできる話であって、表層的なものを全て取っ払ってしまったなら、後に残るのは心的原理だけなのだから、想像も容易であろう。
おれも無数のヴァリアントのひとつなのだ。世界中に簡易的にローカライズされたデ・ゼッサントが満ち溢れ、俗衆向けのデカダンスが蔓延しているじゃないか。
どれをとっても大差はない。なにに身を差し出すかの違いだけだ。そうして大変苦労して老いぼれて死ぬ。なんて厭な世の中だろう。