二本の樹
二本の樹
なまり色の雲が、低くたれこめる冬の日の午後。
木々は枯葉を落とし、冷たい風にはだかの梢をふるわせています。
「そろそろ出かけようか」
おじいさんの呼びかけに、おばあさんはこっくりとうなずきました。
おじいさんは、おばあさんの肩にショ―ルをかけると、車いすを押し始めました。
二人の向かう先は、車も人通りも少ない道路を、ひとつへだてた公園。
そこには、二本の樹がありました。
見上げるほどの高い樹と、それに寄り添うように、やや小さめの樹。二本は夫婦の樹でした。
空の色、鳥の声、雲の流れ、公園を訪れる人々……。
長い長い時間、二本の樹はともにそれらを見て、感じて過ごしてきました。
そして二本の視線の先には、もうひとつ、ずっと変わらない光景がありました。
道路をへだてた一軒の家。
リビングのガラス戸にかかったカ―テンのすきまから、二本の樹は、常に老夫婦のすがたを見ていました。
数年前から、車いすの生活をしているおばあさん。そんなおばあさんを優しくいたわるおじいさん。
老夫婦はいつも寄り添って暮らしています。
そんな二人の何よりの楽しみは、午後の散歩のひとときでした。
おじいさんはおばあさんの車いすを押して、毎日きまって公園にやってきます。
季節ごとによそおいを変える二本の樹の下で、かけがえのない幸せな時間を過ごすのです。
「ねえ、ごらん。今日も二人は楽しそうだよ」
夫の樹が、優しいまなざしを向けると、
「そうね。いつだって笑顔ね」
妻の樹もうなずき返しました。
そんなある日の昼下がり。
いつものように二本の樹は、老夫婦がやって来るのを待ちわびていました。
「ほら、もうすぐ支度ができそうよ」
老夫婦の家に向かって、妻の樹が梢をゆらしました。
ガラス戸の向こうで、おじいさんがおばあさんの首にマフラ―を巻いているのが見えます。
と、そのとき。
おじいさんの身体が、みるみる床にくずれ落ちていくのがわかりました。ぐったりと倒れたまま、顔色はすっかり血の気を失っています。
「あなた、あなた!」
なすすべもなく、ひたすら呼びかけるおばあさん……。
とっさに、夫婦の樹はうなずきあいました。
二本の樹の梢は、小刻みにゆれはじめます。
レ―スのカ―テンが、風をはらんだように大きくひるがえりました。
それからほどなくして……。
かたく閉じられていたおじいさんのまぶたが、うっすらと開きはじめたのです。
「あなた、あなた、だいじょうぶ?」
「ああ……」
おじいさんは何事もなかったかのように、きょとんとした顔で、おばあさんを見つめました。顔色もすっかりもとにもどっています。
「いったい、どうなさったの?」
「あ、ああ。ちょっとめまいがしたみたいだ」
「よかったわ。気がついて……」
おばあさんは、安心したように大きく息をつきました。
「それがな、何だかとてもあったかいものにくるまれたようで……」
「そういえば、風が……。とてもあたたかな風が入ってきたのよ。戸は閉まっていたのに……」
二人がガラス戸に目を向けると、その向こうには、いつもと変わらない二本の樹がたたずんでいました。
それから数日後。
老夫婦のもとに、息子夫婦が訪ねてきました。
「そろそろ一緒に住まないかい? 母さんには、日中、施設のデイサ―ビスを利用してもらったら……。父さんの負担も軽くなるだろう?」
息子たちの思いやりを、老夫婦はどうしても、素直に受け入れることができませんでした。今の生活が、二人にとってはなによりも幸せでしたから………。
そのころ、二本の樹の下では、役所の職員たちが、あれやこれやと話し合っていました。
「私、これからどうなるのかしら?」
妻の樹は、不安げに夫を見上げました。
「離ればなれになるかもしれないなんて……」
夫の声もふるえています。
二本の重なった梢は、さわさわと悲しげにゆれました。
そんなところへ、いつものように、老夫婦が散歩にやってきました。
樹を見上げる職員たちに、二人は何事かと顔を見合わせ、首をかしげながら近づいていきます。
「あの……この樹になにか?」
おじいさんが職員のひとりに声をかけました。
「公園の樹木の調査中なのですが、この二本のように間隔がないと、双方ともに生育に支障が出やすいのですよ。春になって気温が上がらないうちに、片方を別の場所へ移植しようかと検討しているところなんです……」
それを聞くやいなや、老夫婦の顔がみるみる曇っていきました。
「どうしても移してしまうのでしょうか?」
おばあさんは二本の樹を見上げながら、沈んだ声でたずねました。
「まだ決定というわけではありません。なにしろ、移植するには大きすぎる木なので、たくさん根を切ってしまうと枯れるということもありますから……」
職員は、とまどい気味に二人を見ました。
「この二本の樹は……」
おじいさんが、静かに口を開きました。
「わたしどもが若い時から、ずっとここにありました。今さら一本だけがよそにやられてしまうなんて、わたしどもにはたまらなく寂しいことでして……。それに二本は、こんなにくっついていても、枯れそうになったことなど、一度もありませんでしたよ」
おじいさんのことばのひとつひとつにうなずき、言い添えるようにおばあさんが続けました。
「それに、この重なった梢を見ていると、わたしたちには、二本の樹が互いに寄り添って、手をたずさえているようでなりませんのよ」
「できましたら、どうか、このままにしておいていただけないでしょうか……」
二人は、そろって深く頭をさげました。
ひきあげていく職員たちの後ろ姿を見送りながら、おばあさんがふっとつぶやきました。
「どうなるのかしら? これから……」
「いつまでもずっといっしょだよ。この樹もわたしたちも……」
おじいさんはおばあさんの肩に手をおき、二本の樹を見上げて、そう言ったのでした。
春がめぐってきました。
暖かな日差しがふりそそぐ午後。
若葉が萌え始めた二本の樹の下で、今日も楽しげに語らう老夫婦の姿がありました。