マドレーヌのない記憶 (Fuyuki -2)
「稲城冬樹、稲城君、冬樹くん、冬樹さん、冬樹」
「ふーくん」
今までの人生で僕はこういう名前で呼ばれてた。
細かいのを含めると、他にも数えきれないほどの呼ばれ方をしてきた。
しかし、「ふーくん」というあだ名を付けてくれたのは梓さんで、他の人にはその名で呼ばれたことはない。
「ふーくん」僕はこの音を自分で呟いてみることがある。
口から出た空気や頭蓋骨の振動が、耳に伝わるとき、僕は彼女の存在を思い浮かべてしまう。
けれども彼女のように美しい声ではない。
彼女は僕の耳元で、誕生日ケーキのろうそくをいとおしそうに、そして惜しむように消す子供みたいに、「ふー」と息を吐きだす。
そして子音の「k」がぼんやり霞んでいて、「ん」は鼻にかかった溜息みたいで色っぽい。
それは彼女だけの知っている秘密の呪文で、呪文は効果として僕の幸福を満たす。
しかし僕がこれからするのは梓さんではなく、他の女性の話である。
その女性は僕にとって大切な存在”だった”。
むろん今の僕は梓さん以外、眼中にないし、その昔の女性のことがいまだに好きだということも、懐かしいということすらない。
ただ、「その女性」は僕に大きな影響と愛を与えてくれ、よって僕は梓さんを愛する気持ちの中に、梓さんを愛するやり方の中に、彼女の面影を見つけるのだ。
だから梓さんに対する誠実さを貫くために、「その女性」について思い出し、記憶と感情を整理せねばならないのだ。