蒼いトンネル
「場所アンソロジー」企画に参加させていただいたときの作品です。
「海咲、お姉ちゃんと一緒におさかなさんやイルカさんやペンギンさんがいるところにいこうか」
そう言って笑いかけて、手を引いたら、思った通りあっさりとついてきてくれた。泣いたり嫌がったりしていない。びっくりするくらい素直。
お気に入りのキティちゃんのポケットを持たせて、フード付きの赤い上着と、動き回りやすいズボンを着せた。
お気に入りのおやつのビスケットと、ウサギの形をしたキャンディーをいっぱいポシェットに入れてやった。
このくらいのちいちゃい子って、何をあげれば喜ぶんだっけ。とりあえず、キャラクターものののおもちゃや、子供用の駄菓子でも与えておけばいいのかな。
入場券を買い、中へ進むと、すぐ正面に天井まで届く円柱の水槽がそびえていた。
小さな地元の水族館で、平日の昼間ともなると人の姿もまばらだ。
むしろ、自分の他に来ている人なんているんだろうか、と思ったが、それでもさすがに貸し切り状態とまではいかないらしい。
薄暗い照明の中で、淡く蒼く輝くガラスケースに目を引き寄せられる。
そんな中、イソギンチャクが並ぶ水槽の前に、黒いパーカーを来た男の子がたたずんでいるのに気がついた。いがぐりみたいにつんつんさせた前髪に見覚えがあった。同じくらいの男の子だ。サボり魔の、不良といつもつるんでて有名な。
あたしが思わずじっと眺めていると、向こうも、あたしの存在に気付いて視線を向けてきた。
「志茂野じゃん」
「ああ……うん」
曖昧な生返事が自分の口から零れてきた。なんで、わざわざ話しかけてくるのかわからない。じっとガン見してたあたしもいけなかったけどさ。無視して知らんぷりしておけばいいのに。
「響くん、だよね」
教室にいるときは、よく男子から名前を呼ばれているから、学校で話したことはなかったけれど、名前は憶えている。笠間響という名前でキョウくんっていつも呼ばれている。
響くんがクラスで女子と話しているところは全然見たことがないし、今まで響くんと話した記憶もなかったし、向こうがあたしの名前をすぐ呼んできたのがびっくりだ。
水槽の向こうで、額にこぶのある大きな魚が、ついっと、あたしのすぐ横を横切って行った。
「それ、志茂野の妹?」
響くんの、削いだ刃みたいな細い目が、気怠そうな半開きになって、じっとこっちを眺めている。その目線は、あたしが一緒に連れている、海咲に注がれている。
「うん、そんなもん」
一瞬、なんて返事をしようか、妹と言ってしまっていいのかどうか迷って、答えるまでにちょっとだけ変な間が空いてしまった。それに「そんなもん」なんて言い方をしてしまったことを後悔した。含みのある言い方をして、変に思われたかもしれない。
「へえ、あんまし似てねぇのな」
ストレートな物言いに、あたしは尚更のこと返事に詰まる。
いいや、無視しておこう。どうせ、たまたま居合わせただけのサボりくんだもん。
大きな水槽を見上げると、マンタがひらひらと翼を羽ばたかせるみたいにして、ゆったりと優雅に泳いでいる。海咲が、ぺったりと両手をガラスにつけて、じっと水槽の中の世界に釘付けになっていた。
サンゴがあって、鮮やかな青や黄色の魚が、キラキラしながら蒼い空間の中を泳いでいる。
魚を眺めている海咲の前に、小さな魚が寄ってくる。海咲はそれを見ながら、ペチンペチンと小さな掌で水槽のガラスを叩き始めた。人のほとんどいない静かな館内に、その甲高い音が思ったより響いたので、あたしは海咲の手を取って引っ張る。
「だめよ海咲、おさかなさんがびっくりしちゃうでしょう。そんなにパシパシ叩いて、ガラスが割れたら、おさかなさんがばしゃーんって出てきちゃうよ?」
「水族館の水槽のガラスってさ、アクリルガラスを何枚も重ねて、六十センチくらいの厚みがあるんだってね」
ぼそっとつぶやく声が聞こえてきた。つまりはそう簡単に割れるはずはないと。そのくらいわかってるけど、いちいち言わなくてもいいと思う。
なんだか気持ちがもやもやする。無邪気な目をして魚を眺めている、この小さな生き物も。なぜかこんなところで遭遇してしまった同世代の男の子も。そしてその同じクラスの同級生に、平日の昼間から、制服じゃなくてちょっと気合い入れた格好を装っている、あたしの姿を見られていることも。
「海咲、ペンギン見に行きたい?」
うろうろしている海咲の手を引っ張って、先のルートに進もうとする。次の水槽は何がいるんだっけ。チンアナゴかな。フグが泳いでるかな。あたしがまだ小さい子供だった頃に来たことあったはずなんだけど、全然思い出せない。中に入ったら少しは見覚えがある感じがするのかなと思ったけど、全然だ。初めて来るのと変わらない。
水族館なんて、テレビでしか見たことなかったなぁ。こんなに近くにあったのに。
次の水槽の中でには、クラゲが泳いでいた。大小さまざまな、半透明のクラゲがふよふよと漂っている。花が咲いているみたい。
クラゲって脳も何も無くて、消化器官だけしかないんだって、テレビ番組か何かで見たことある気がする。神経しかないんだっけ。
何も考えずに海の中を漂って、プランクトンを食べながら生きて、死んだら海に溶けてしまうんだろうか。何も考えない生き物は、死ぬ時も楽そう。
引き寄せられるようにクラゲを眺めていたら……また、響くんがあたしに近寄ってきた。
「クラゲって、楽そうだよな」
と、あたしが考えていたのと同じことを言ってくる。うん、と、率直に頷いて返事をする。
水槽の淡い照明が顔に当たって、学校で見かける時よりもずっとまじめそうな顔つきに見える。普段何考えているのかわからないし、怖そうだから近寄ったりしないけど。
「俺さー」
何かじっと考え込むような顔をしながら、更に言葉を続けて、話しかけてくる。
「人の顔色読むのはちょっと得意なほうなんだけど、志茂野、何かあっただろ」
「は?」
まさかそんなこと言われるとは思わなかった。
「あたしが、ちょっと学校さぼりたくなったら、そんなに変?」
「志茂野、別に学校サボったりしないじゃん。勉強だってできるし」
「…………」
あたしは勉強できるほうだったんだろうか。そりゃあ学校サボって不良とつるんでるような男子よりは真面目にやってると思う。でも特に良いわけでもなくて、目立たないごくごく平均的なところだろう。地元の公立高校くらいには普通に行けるかな、ぐらいの学力でいれれば十分だ。
クラゲを眺めてたら、何だか気が抜けてきた。いろんなことがどうでもよくなってくる。
「クラゲってさぁ。99%が水なんだよね」
「人間も60%は水だよ」
ぽつりと。クラゲのことなんて、意味不明なことをつぶやいて、響くんに変な顔させてやろうかと思ったのに。さらりと間髪入れずに会話を成立させてきた。
「じゃあ、残りの1%とか、40%とかって何なんだろうね」
海咲はあまりクラゲには興味はないらしい。うろうろ、うろうろ、あたしの足元を歩きまわっている。勝手に先に行かないように気を付けないといけない。でも、そんなに他のお客さんもいないから、特に迷惑にはならないかな。
なんだかいろいろどうでもよくなってくる。
「あたしさー」
「ん」
「あれ……、誘拐してきちゃったんだぁ」
と、人差し指を立てた手で、顔や体の向きは水槽のほうを向いたまま、手だけで、後ろにいる海咲のほうを指し示す。海咲は、後ろの水槽にいる、ハリセンボンの水槽を眺めているはずだ。
「まじで。幼児さらってきちゃったの」
さすがに響くんも半笑いになっている。どこまで本気にしているかわからない顔だけど。もう別に成り行きで、こいつには話しちゃってもいいかなって気持ちになっている。なんとなく、彼なら、状況を理解してくれたら、あたしがこれからしようと計画していることも、無理に邪魔しようとせずに、見逃してくれそうな気がする。
「クラゲってさぁ、神経とかあるのかなぁ。 もし痛みとか感じないんだったら、死ぬのも楽そうだよねぇ」
「で、なんだっけ。あのちっちゃい子、ミサキちゃんって言うんだっけ。あの子どしたんだよ。迷子か何かかっさらってきたの」
あたしのクラゲの話はさらりとスル―して、さっきの誘拐してきた発言のほうにつっこんでくる。
「ううん、あれはね、あたしのお母さんの、 再婚相手の、連れ子。だから、一応、妹。一応ね」
一言一言、区切るようにして話す。自分で自分に言い聞かせているような気持になる。
「響くんさぁ……、死にたくなることって、ある?」
「志茂野、死にてぇの」
「よくわかんない、でも」
よくわかんない。わかんないよ。
でも、消えたいなぁって。
言いたかった言葉の後半は、なぜか喉につっかえて、口から外に出すことができなかった。
人の前でそんな発言をしたのは初めてだった。絶対に、この種の言葉は、声に出して外に出してはいけないって固く思い続けていたから。
あたしは、どんなことがあっても、絶対に『可哀想な子』になってしまってはいけないのだ。
そう思っていたはずなのに。
消えたいなぁ。
消えたい。
消えてしまいたい。
全部消してしまいたい。
「うち、ずっと母子家庭だったんだけど、お母さんが、再婚するって言いだして……。今、おなかに、再婚相手の子供妊娠してるんだってさ」
父親の暴力がもとで離婚したと聞かされていて、あたしは本当の父親のことはほとんど覚えていない。
月並みな話ではあるけども、女手一つで、子供を育てることがとても大変だってことも理解している。
でも。
自分の知らないところで、ずっと信頼していたはずの母親が、自分の知らない男性の前で一人の『女』の顔をして、その男性の連れ子に『母親』顔をして、そして更には、相手の子供を授かっている。
急に、自分の母親が、得体のしれない気持ちの悪い生き物に思えてしまった。
「なんだかもう、自分の居場所なんかどこにもないような気がして」
ぽつり。ぽつりと。
今、かろうじて息を吐いている。
まるで重たい水の中にいるみたいだ。自分の吐いた息が、丸い空気の泡になって、浮かび上がって漂っていくのが目に見える気がする。
息苦しくてたまらない。
相手の男性と、その子供を紹介されて、家族になりましょうと話されて。
ああ、もうあたし、この家には居場所はないなと思った。だって、あたしのいない場所で、こんなに幸せそうな空間ができあがっていた。
片親の家庭で経済的にもそんなに余裕はないギリギリの暮らし。寂しかったけど我慢して、母親の負担にならないように暮らしてきた。それでもわかるよ。本当は、あたしさえいなければ、って。きっと、親からそう思われていた。
「で、親に、仕返ししてやりたいなって思って」
そっと連れ出してきた小さな子。今日の夜、この子を道連れにして死んでしまおうと思っている。それは、母への復讐だ。
自分一人が消えてしまっても、誰も苦しまない。
どうにかして苦しませてやりたい。そして 消えてしまいたかった。
巻き込んでごめんね。
これが最後の楽しみだよ。
そう思って、ここの水族館に連れてきた。
淡く蒼く光る水槽の中に、キラキラと輝く小さな魚が泳いでいる。
ゆらゆら。
青く輝く水の中。
いいなぁ。魚は気楽そうで。
「あたし、こんなちっちゃい子に嫉妬してたんだなぁ……」
虚しくて馬鹿馬鹿しくて、笑いがこみあげてくる。でも、一度言葉にして声に出して、口から外に出してしまったものは、もう引っ込ませようがない。
自分の言葉にして、自分の胸で改めて考えて受け止めたら、こんな馬鹿げたことはないって、そう気付かざるを得ないでしょう。
この、おぼつかない足取りで歩いている、小さくて柔らかくて頼りない、未完成な生き物よりも、あたし自身のほうがよっぽど未熟で幼稚な生き物だ。
それでも、胸が押しつぶされて息ができなくなるような気持ちを、どこに吐き出したらいいのか、どこにぶつけたらいいのかわからなかった。
「愛されたいなぁ……」
ぽろりと、自分の口から零れてきたのは。自分でも意外な言葉だった。
「愛されたい、よぉ……」
あたし、バカみたい。こんなこと、今まで口に出して言ったことない。ましてや外で。誰かの前で。しかも、同級生の男の子が隣で見ている前で。
海咲が羨ましかった。小さくてふわふわして、赤ちゃんってこんなに可愛いんだって思った。あたしが見ても可愛いんだもの。この子の実のお父さんの、これからうちの母の新しい旦那になろうっていうあの男の人も、とてもこの子が可愛くてたまらないでしょう。
今まではあたしだけの母親だったうちのお母さんが、今までにないくらいに、『優しいお母さん』の顔をして、この子に笑いかけたり抱っこしたり触ったり話しかけたりするんでしょう。
そしてもう半年もたてば、もっともっと優しくてゆっくりとした時間の中で、お父さんとお母さんに愛されて生まれてくる赤ちゃんが来るんでしょう。
あたしはどこに行けばいいんだろうか。あたしが小さな頃から、ずっと欲しくてたまらなかったものを、たっぷりと与えられて育っている赤ちゃんの姿を見て、あたし、一緒に幸せそうに笑っていられる自信がない。
なんて幼稚なんだろう。わかってるそんなこと。だからといって、割り切って考えることができなかった。
「こんな話聞かされても、ドン引きするよねぇ……はは。適当に見逃しといてよ」
「俺、思うんだけどさぁ」
目の前の水槽の中には、赤くてとげとげしたヒレのある魚が漂っていた。のそりのそりと、砂の上を這うようなゆっくりした動きだ。水槽の前には、ユメカサゴという魚の名前が書かれている。毒毒しい赤色をして、気持ちの悪い顔をしている。でも、魚の解説のプレートには、『色の美しさから非常に人気のある』魚と書かれている。あたしが見ると不気味に見える赤色も、魚が好きな人が見ると、美しい海の宝石に見えるらしい。
響くんは、じっと、そんな赤い魚を眺めていた。ゆっくりと動く、ずんぐりした魚を、まるでヒレの細やかな動きまでひたすら眺めているみたいに、目をそらさずに眺めている。
「志茂野はさっき、居場所がないって言ってた。でもさ、居場所がないって、なに?」
赤い魚が、水槽の中でゆっくりと泳いでいる。まぬけな顔をした、のろまな魚。ぽっかりとあいた丸い口をパクパクさせながら。尖った形のヒレを揺らめかせている。
「どこにいたって、今自分がいる場所が、自分の居場所だろ?」
低くて静かな声だった。怖いぐらいに、大人びた声だった。
薄暗い照明の館内と、蒼い水槽のライトが揺らめいて輝いている。床には水槽の水の揺らめきが影絵のように映っている。水槽からの照明に顔を照らされて、響くんの、普段気怠げに見えている、細い眼が、とても鋭い眼差しに見えた。
「……この先の、海中トンネルが好きなんだけどさ」
そう言って、ルートに沿って先へと進み始める。足元に、海咲がくっついてとてとて歩いていくのが見えた。ほったらかしていてどこにいるのか見えていなかった。さっきまでは、水槽の間をうろうろ歩いたり、足元の照明をじっと覗きこんだりしていたはずだ。相変わらず、首から下げているキティちゃんのポシェットを、両手でぎゅっと握りしめている。
「この子、何歳?」
響くんがさりげなく、海咲のすぐ後ろについて歩いていた。自分の前を歩かせるようにそっと様子を見ているような感じだ。
「三歳、だったかな。まだ二歳でもうすぐ三歳だったと思う」
「二歳か三歳くらいって、こんなに喋らないものかな」
他に小さな子なんてみかける機会もあまりないので、あたしは特に気にしていなかった。確かに、海咲はおとなしい子みたいだった。小さい子って、もっと声を出すものだろうか。
大きなアーチ状の水槽、その下を歩いて眺めることができる、ここの水族館で特に見せどころの展示水槽と謳われている、海中トンネル。
まるで海の底を歩いている気分を味わえる空間。
「俺さ、昔、兄貴にここ連れてきてもらったんだよね」
響くんが、蒼い天井を眺めながら、語り始めた。
「兄貴はすっげー頭よかったの。俺とは比べ物にならないくらい。小学生の頃から、親も学校の先生も褒めまくってて、塾も毎日通わされてて、いつも勉強してた。で、俺は全然逆。別に、クラスでドンケツってほど悪くはなかったと思うんだけどさあ。何かにつけ、親の態度や、言葉や、ちょっとした扱い方がさ、俺にこんな風に言ってるみたいだったよ。『お前には期待してないよ』って」
頭上に、小さな銀色の魚の群れが横切って行った。岩礁に隠れる青い魚や、黄色と黒の縞模様がある魚。ひらぺったい大きな体をした魚。どれも見慣れないものばかりだけど、綺麗だった。こんな変わった形の魚がいるんだってびっくりする。まるで幼い子供に戻ったように、胸がドキドキした。ふと足元を見ると、小さな丸い頬をした女の子が、熱心な目をして海中トンネルの魚を眺めている。まるで竜宮城に来たみたいに見えているのかな。 あたしも多分、同じ気持ちだよ。
響くんの横顔を、そっと眺めてみる。低くて静かな声で話している響くんの顔は、笑っていた。口調は淡々としていて、話の内容を聞くと、とても寂しくなるようなことなのに、心地よさそうな目をして、水の揺らめく光を眺めながら、上を、横を、自分の周りを流れていく魚の群れを見つめている。
「で、兄貴が、県外のちょっと有名な、頭のいい大学に合格して。そりゃあ両親とも喜んでたな。まるで兄貴を王様か何かみたいに崇めてる感じで、俺から見たらなんか、父さんも母さんもバカみたいだったなぁ。学費もけっこうかかるみたいだった。向こうに行って一人暮らしするために、マンションの部屋も用意してたんだっけ。仕送りもかなりの額送ってんじゃないかなぁ。で、兄貴の見送りというか、送別祝いというか、家族で豪華なメシ食いに行こうって話になったときに、母さんが、笑いながらこんなこと言うんだよな。『あんたはバカだから、大学にお金かける必要はないもんね』って」
ゆらゆらと。蒼い水面が揺れている。
あたしたちを包み込むように。
「それから、兄貴が出立する前日に、いきなり、俺を誘って、ここに連れてきてくれたんだよ。頭のいい兄貴だから、俺みたいに勉強できないバカとか、てっきり嫌ってると思ってたからびっくりしたよ。そして、そのとき俺に言ったんだ。『お前は、自分の好きなことして生きればいいよ』って」
海中トンネルを抜けると。今度は、ヒトデやウニの類が入っている浅い水槽がいくつも展示されている。ここでは、実際にヒトデに触って遊んでいいってことで、小さい子供に人気のふれあいコーナーだった。
それを見つけた海咲が、物凄いいきおいで走って、水槽に飛びついていた。急に力いっぱい走り出すから、こけるんじゃないかと思って一瞬ハラハラした。どうやら、生きてるヒトデが入っている水槽に絶大な興味を示している。
「これ……触りたい?」
あたしは、ちょっと引き気味の心地でその水槽の中を覗き込んだ。丸みのあって、グロテスクな赤茶色の物体が、ゆるゆる、ゆるゆると動いている。嫌だ気持ち悪い。これに素手で触ろうなんてとても思えない。
躊躇して水槽に近寄れないあたしを横目に、響くんが、海咲をひょいと抱え上げて、水槽の中に手が届くように持ち上げてくれている。海咲は嬉しそうに奇声を上げながら、一生懸命手を伸ばそうとしている。小さな小さな手だ。
「……響くんがそういうことしてくれるとは思わなかった」
「そう? でもまぁ俺こんな見た目だし、場合によっちゃ通報されてるって。ヨージユーカイで。さすがにロリはないわーやべーわー」
へらりと、茶化した半笑いで返してくる。さっき海中トンネルで見かけた横顔がまるで別人みたいだったのに対して、ここにいるのは普段教室で見かけてたバカっぽい男子の一人だった。
「女子って、やっぱこういうのダメなの? 見た目キモイから? へー。かばんに隠して教室に持って来たら面白いことになりそう」
「そんな小学生みたいなことやらないでよ……」
「やらねーよ。ヒトデがかわいそうじゃん」
前髪をつんつんさせて、制服なんか一度も真面目に着たことがなさそうな男子が、「かわいそう」とかそんな言葉を言っていることさえ意外だった。
そして、誘拐して殺してやろうと思っていたはずなのに、やっぱりちいちゃい子供はどうしても可愛くてたまらない。柔らかくて脆くて、うかつに触ったら壊れてしまいそうな生き物だ。でも、その頼りない手足が、一生懸命動いているのを見ると。ああ、可愛いな、って思えてたまらなくなる。
無垢な子供を見ていると、自分がどうしても、とんでもなく悪い人間に思えてきてしまう。
あたしは、とても幼稚だった。うんざりするくらいに。
「イルカショー、何時からだっけ。それ見てから帰ろうかな」
「帰るんだ」
「うん、とりあえず帰る」
帰ってからどうするかは、まだ考えてないけれども。周りに何言われるかも、あまり考えたくないけれども。
ひとまず、クラゲがふよふよ泳いでる光景をぼんやり眺めていただけで、だいぶ気持ちが癒された。クラゲパワーあなどりがたし。
あたしも、99%水分みたいになって、ゆるく、ゆるーく生きてみたい。
もう少し、楽に呼吸ができたらいい。どんな水槽でも生きていける魚になりたい。
「じゃあ、また学校で」
そう言って響くんがニヤリと笑った。
「学校、ちゃんと来るの?」
「さぁね。学校がつまんなかったら来ないけど」
きっと、学校がつまんないときはこうして水族館でぶらぶらしてるんだろうな。そう考えるとなんだか笑えた。案外ロマンチストな不良男子だ。
今日のイルカショーは、あと30分後に始まる。
久々に、青空を眺めたい気分になった。
きっと、イルカは高く高く翔ぶだろう。
【了】