竜玉
「なるほどの、リルの町とな。話には聞いておるぞ。紫の竜が暴れ、壊滅したとか」
「うん。私がシャムリルを見つけたのと、そのときの状況はそんな感じなんだけど。少し話をずらしてもいいかな、アステラ。その紫の竜について他に何か知らない?」
シャムリルの出自と、彼を拾ったときの状況をアステラに説明した後、ロザリアは話の流れを切ってそう尋ねた。
金色の竜は、葡萄酒の入ったグラスを手の中で転がしながら、答える。
「さて。わしも存在を知らなんだ竜じゃよ。紫の鱗、と聞けば西のイーリス老が思い浮かぶが」
「イーリス爺さんなら私も知っている。でもリルの町を襲ったのは、もっと若い竜だった。それに今生きている竜の間じゃ常識の『町を襲うべからず』って教えも知らなかったみたいだ」
隣でいぶかしむ顔をしたシャムリルに、ロザリアが補足を入れる。
「おとぎ話でシャムが知っているような『竜災』は、今の竜の間じゃ『避けるべき』っていうのが常識なんだ。町を破壊するような行為は、竜の神威を貶めることに繋がるし、縄張りの中の人間や動物がいなくなったら、正直に言って竜の方が困るから。縄張りから食べる物がなくなったら、他の竜の縄張りにまで出張らなければならない。そこの竜と喧嘩になって、下手したら共倒れってことにもなりかねない。だから今の竜は、なるべく人前に姿を見せず、人間を食うときにもいろいろと制限がかかっているんだ」
「わしもこの町を縄張りとして長いが、生きた人間など久しく食うとらん。方々に手を回して、できるだけ鮮度のいい死体を手に入れるので精いっぱいじゃよ」
「アステラだけじゃなくて、今はほとんどの竜が苦労している。さっき話に出たイーリス爺さんは、西の一地方じゃ、それこそ土地の神様みたいに崇められていて、人間からの供物が途切れないでいるみたいだけど」
「久しく会うておらんが、飯より酒が好きな老竜じゃったのう。百年前に会うたときは『牛や馬より酒の供物が欲しい』と嘆いておったわ。そのせいかは知らんが、イーリス老の縄張りは今やこの国有数の酒の産地じゃ。西の米から造った清酒は、独特の風味があって美味いぞ」
懐かしむように葡萄酒を見つめ、口に運ぶ。
「ふむ。イーリス老の話をしていたのではなかったの。件の『紫の竜』じゃが、実はリルの町で暴れる前にも、別の場所で竜災を起こしていたらしい」
「別の場所、ですか」
思わず口を挟んだのはシャムリルだ。
アステラはその金色の瞳を彼に向けて頷いてみせる。
「東の隣国じゃよ。ぬしも知っておるかもしれんが、当時、この『ライア・レース王国』と東の隣国『シュピタ』の間で小競り合いがあっての。……そういえばリルの町で竜災の被害に遭って死んだ百余人の他に、そこに駐屯していた部隊でも百名ほど殉職者が出たそうじゃが」
ロザリアが気遣うように目線を向けてくるが、シャムリルは動じていない。
「当時、国境を越えた隣国でも、同じように軍隊が展開しておった。リルの町に駐屯していたような末梢の部隊ではなく、ライア・レース国軍とシュピタ軍、双方の主力がの。その数合わせておよそ二万。それが紫の竜に襲われて、壊滅したそうじゃ」
あまりにも現実離れした数字に、シャムリルは絶句した。
二万人――それも抵抗する術を持たない民間人ではなく、兵器を持ち、訓練を受けた軍隊だ。
その数と比べれば、リルの町の被害など奇跡的なまでに小さいと言える。
「血に酔ったんだね」
ロザリアがいつになく神妙な口調で呟くと、アステラが「じゃろうな」と首肯する。
「どこで箍が外れたのかは知らぬが、ちとやりすぎじゃ。まともな精神状態ではなかったろうよ。そして彼の竜はそのような虐殺を行ったのち、リルの町に現れた、というわけじゃ」
「その後の行方は?」
ロザリアの問いに、アステラは首を横に振る。
「とんと分からぬ。どこか人里離れたところに隠れ潜んでいるのか、はたまたシュピタへと向かったのか。彼の竜の行方は杳として知れず、というやつじゃ」
三人の間に沈黙が下りる。
やがてシャムリルは、手に持った葡萄酒を一気に飲み干した。
「探し出すつもりかえ?」
アステラが問いかけてくるが、シャムリルは首を横に振る。
「いいえ。以前ロザリア様にも話しましたがが、あの竜を見つけたところで、僕には何もできません。人の手にはどうしようもない天災を相手に、怒っても仕方ありませんし」
「ふむ……」
アステラは葡萄酒を一口舐めてから、
「変わっておるの、ぬしは。その若さでそれほど達観しているとは。……これまでどれほどの地獄を味わってきた?」
まるで全てを見透かしているかのように、アステラは金色の瞳でシャムリルを見つめてくる。
「虐げられ、弄ばれ、心を砕かれ……ぬしの目にはの、ときおりそんな過去がちらつくわ」
「で、しょうね」
うつろな目で、感情のこもっていない相槌を打つ。
そんなシャムリルの様子に、隣に座るロザリアがたじろいだ。
「しゃ、シャムリル?」
重くなった空気を変えるように、アステラがこんと澄んだ音を立ててグラスを置く。
「この話は終わりにしようかの。してロザリア。竜玉について、この者にはどの程度話をしておるのじゃ?」
ロザリアが「実は、全然」と答えて、シャムリルも彼女に合わせて首を横に振る。
するとアステラは呆れたような顔をした。
「ロザリア……。ぬし、何も知らせずにこの竜玉に『呪い』をかけたのかえ?」
指摘され、ロザリアは「えへへ」と罰が悪そうに目を逸らした。
「あれ? ですがアステラ様、『呪い』のことはまだ話していませんが、何故お分かりになったのですか?」
「ぬしを一目見ただけで、見当が付いたわ。『不老にして不死』そして『再生』の呪いじゃろ? 呼吸、体温、体臭、皮膚の様子、血の巡る音。そういった何もかもがの、ぬしは人とはまるで違う。この『呪い』をかけられた人間はの、一切の成長をせず、老いもしなければ、細胞が死んで生まれ変わる周期さえ存在しないのじゃ。ぬしは汗をかかず、日に焼けず、シミができることもなく、垢も出ず、排泄もしない。そうじゃろ?」
全てを見通されているようで、少々ぞっとするが、頷いて肯定する。
「まるで生きた人形じゃの。ぬしは綺麗すぎる」
生きた人形。
昔から、容姿を「人形のよう」と褒められることは多かったが、そこに一言付け加えられただけで皮肉のように聞こえてしまう。
とはいえ、アステラ自身は皮肉を言ったつもりはないのだろう。
「さて、ではロザリアの代わりに、わしが『竜玉』について説明させてもらうぞ」
話題を戻し、空になった三人のグラスに葡萄酒を注ぐ。
「竜玉というのは『竜の宝』の意じゃ。ぬしも知っているとおり、竜は人を食う。じゃが、肉であれば豚でも牛でも構わんのに、なぜわざわざ人を食うのか。それは竜が人の持つ『エデナ』を摂取するためじゃよ」
「エデナ?」
またしても聞きなれない言葉が出てきて、シャムリルは首をかしげた。
「古の言葉じゃ。太古の昔に滅んだとされる文明のな。今ある言葉で訳すのは難しい。『命』、『心』、『魂』、あるいは『気』――そういったものの集合であり、あるいは別個の存在かもしれぬ、実体のない概念じゃよ。そしてこの『エデナ』は、竜のもつ長い寿命、そして神通力の源なのじゃ。何百年の時を生き永らえることができるのも、人の姿を取るのも、空を飛ぶのにも、炎を操るのも、すべて人の『エデナ』が源になっておる。仮に長期間に渡って人を食わず、エデナを摂取せずにおったら、その竜の寿命は大幅に縮むことになるじゃろうの」
言って金色の竜は、葡萄酒を口に運んだ。
「竜玉の話に戻そう。人の世には極稀に、常人の持つ『エデナ』の量を遥かに超越した存在が生まれてくる。頻度にして百年に一人とも、一つの国が生まれて滅ぶまでに一人とも言われておるの。そして彼の者の肉は、凡人のそれなど泥団子としか思えぬほど、美味なのだそうじゃ。……ここまで言えば分かるであろう?」
「それが、僕なんですか」
恐る恐る尋ねるが、アステラの返答は曖昧だった。
「さて? どうなのじゃ、ロザリア。百年前に竜玉を食い、わしなど足元にも及ばぬような想像を絶する神通力を得た、真紅の竜よ」
アステラの口から発せられた思いもよらぬ事実に、シャムリルは目を見開く。
ロザリアはグラスに満たされた葡萄酒を見つめながら、静かにこう言った。
「シャムリルが竜玉かどうかはわからない。でもシャムリルは、本当においしいんだ。今まで私が食べたどんな人間よりも。もうシャムリル以外の人間なんて食べる気がしない。それと……百年前に食べたあの人間の味は、シャムリルに比べれば泥団子みたいなものだった」
今度はアステラが目を丸くする番だった。
彼女は「そうか」と呟き、くつくつと笑い始める。
そしてその金色の瞳で、シャムリルを射抜くように見据えた。
「わしは長らく生きた人間など食うとらん。来る日も来る日も死んだ人間ばかりでの。エデナは人が死んだ瞬間から失われていく。死体など、酒を搾った後の葡萄の絞り粕みたいなものじゃよ。……なあロザリア、わしにもこの竜玉、食わせてはくれぬか?」
シャムリルの体は竜の目に睨まれ、再度硬直する。
だが、
「アステラ。いくらアステラでも、それ以上つまらない冗談を口にしたら、怒る」
ロザリアの静かな、だが有無を言わせない声が、アステラの視線を彼から外させた。
アステラは何事もなかったように葡萄酒を口に運びながら、
「なんじゃ。ぬしはそんなに石頭じゃったかの、ロザリア」
と笑うが、シャムリルは未だに震えが止まらないでいる。
玄関で会ったときとは比べ物にならないほどの圧力。おそらくアステラは、本気で彼を食う気でいた。
恐怖をごまかすように、何杯目かになる葡萄酒を一気に飲み干す。
やがてロザリアが立ち上がり、
「アステラ、悪いけど今夜はもう眠らせてもらうよ。旅で疲れたんだ」
とその場を辞そうとした。
「うむ。つい遅くまで話しこんでしまったの。部屋は二階の廊下の突き当たりじゃ。ベッドは一つでよかったかや?」
アステラもアステラで、先ほどのことなどなかったかのような調子だ。
「重ねがさね、心遣い感謝する。いこ、シャムリル」
ロザリアがシャムリルの手を引こうとするが、彼はそれを断った。
「ロザリア様、すみませんが、先に部屋に行っててください。僕はまだ、アステラ様に聞きたいことがあるんです」
ロザリアが驚いたように口を開き、何かを言いかけるが、
「大丈夫です。何かあったら悲鳴を上げますから。それにたぶん、ロザリア様も聞きたくない話でしょうし。――ロザリア様が僕にかけた、呪いについて」
シャムリルがそう言うと、紅い竜は目を伏せてしゅんとうなだれてしまう。
「そうだよね。シャムはまだ、私がシャムに呪いをかけたこと、怒っているんだもんね」
「ええ、まあ。ロザリア様に聞いても、絶対に教えてくれないですし。ですがもし、どうしても僕に知ってほしくないことだったら、無理やりにでも連れ出してください」
「それは、しない。シャムリルには知る権利があるもの。ちゃんと話そうとしなかった私が悪いんだ」
怒っている、というのは半分嘘だ。
ただ、この場にはロザリアがいない方がいい。そう判断して、おそらく最も効果的であろう嘘を吐いただけのこと。
シャムリル自身、これが卑怯な手だとは分かっているし、ロザリアを傷つけたかもしれないことは、少なからず――本当に少しだけ、悪くは思っている。
だが他に、アステラと二人きりになる手段は思いつかなかった。
「先に部屋に行っている。おやすみ」
おやすみなさい、と返事をし、広間を出ていくロザリアを見送った。
そしてシャムリルは、金色の竜に向き直る。
彼女の瞳は、興味深いものを見るかのように爛々と輝いていた。