薔薇と白詰草
* * *
旅をしてみたい、と切り出したのはシャムリルだった。
ロザリアの「巣」は、人里から遠く離れた深山幽谷の中にあった。シャムリルが連れて来られるまでは文字通り人跡未踏の地で、住まうものは鳥や獣、そして紅い竜だけだった。
そんな地でもひときわ深い山の、中腹あたりにロザリアの棲む洞窟はあった。
シャムリルがそこで暮らし始めて、二年の月日が経っていた。
変化したことは多々ある。――見た目に限っては、髪や瞳の色素が抜け落ちたくらいだが。
「不老にして不死」という呪いをかけられた彼は、体の成長は連れ去られてきたときのままで止まっている。
ロザリアいわく「シャムを一番おいしく食べられる年齢」だそうだ。
そんな見た目はともかく、変わったのはシャムリルの内面と、そして二人の関係だった。
初めはそれこそロザリアを嫌悪し、己の境遇を嘆いたりもした。
三日に一度、ロザリアは彼を「食べる」。
不老不死の呪いをかけられたせいで死ぬこともできず、食われても生き返り、また三日後に食われて死ぬ。
――端的に言って、地獄だった。
毎日、男に犯され続ける地獄から、三日に一度、竜に食われる地獄に落ちたのだ。
そう思っていた。
いっそのこと狂ってしまえれば、どれだけ楽だったか。
狂うことも、死ぬことも許されない地獄。
何度も食われ、何度も食われ、何度も食われ、何度も食われ、何度も食われ、
何度も食われることを繰り返しているうちに、彼は、三日に一度の「食事」に慣れてしまっていた。
もしかしたら、慣れてしまった時点で、正常な精神などとうに壊れていたのかもしれない。
ロザリアを殺して逃げ出そうとしたことも、崖から飛び降りて自死しようとしたこともある。
当然、地上で最も強い生物と言われている竜を人間が傷つけることなどできやしないし、崖から飛び降りてぺしゃんこになっても「呪い」の力ですぐに復活してしまう。
そもそも巣から逃げ出したところでロザリアにはすぐに見つかり、捕まってしまうのだが。
解放してくれ、と泣きながら懇願したこともある。そしてそれが最もロザリアの心を揺さぶる方法だったことは分かったが、何度か繰り返すと、彼女は悲しそうにこう言ったのだ。
「ごめんね。こんなことを言うのはとてもずるいと分かっている。
でも私、あなたを解放することなんてできない。
だって、こんなにも美味しい人間の味を、血のにおいを、覚えてしまったから。
もしあなたがどこかの町に逃げ込んだら、その町を滅ぼしてでも、連れて帰ろうとすると思う。
仮にあなたを解放することを私の良心が許したとしても、私の体は、あなたを忘れられない。
もしかしたら、近い人間の味を求めて、国中の人間を食い散らかす、最悪の竜になるかもしれない」
彼女にとっては、必死の説得だったのかもしれない。
「それがどうしたんですか」と突っぱねることもできただろう。
だが彼女はこうも続けた。
「キミはもう、人の世には戻れない。想像してほしい、老いず死なず、周りの人間だけが老いて死に、ひとり取り残され続ける人生を。たぶん、思っている以上に孤独だよ」
孤独――それがどうしたんですか、この地獄よりはましでしょう。
それに、いったい誰のせいでこんな体になったと思っているのか。
そう言いかけたが、彼女の続くこんな言葉がそれを遮った。
「私もね、孤独だった」
竜という生き物は、何百年も生きながらえるのだという。
そのとき、彼女は泣いていたのだ。
己の過去を思っての涙。
そして、これから先の未来を思っての涙だった。
「私と一緒に、いてくれないかな?」
その涙に、同情でもしてしまったに違いない。
彼自身、己の心の動きが信じられなかったし、本当にどうかしていたとしか思えないのだが――おそらくそのとき、彼は彼女を赦してしまったのだろう。
だが、すぐにその言葉に返事をしたというわけではない。
彼女の願いに答えたのは、この地獄から逃れることはできないと悟ってからだった。
諦めた、とも言える。
「…………ちゃんと、三日に一度の約束を、守ってくださるのであれば」
そう呟くように告げたときの彼女の笑顔は、今でも忘れられない。
そしてそれ以来、彼が逃げ出そうとすることはなくなった。
――とはいえ、互いに分かりあえるまでは、もっと長い時間がかかった。
「いい加減、キミの名前を教えてくれないかな? あと私のことも『ロザリア』と名前で呼んでほしい」
「あなたが今まで食ってきた人間全員の名前を言って、神様に謝罪したら、僕の名前も教えて差し上げます」
彼女の食事として飼われている「人間」としての、意地であり意地悪だった。
もっとも、その後彼の髪が白くなり、それを気に入ったらしい彼女が「白詰草」とあだ名を付けてきたのだが。
「キミ」とか「あなた」とか呼ばれるよりは、あだ名で呼ばれる方がいい。
そう思って、彼はその呼び名を受け入れた。
彼女の名を呼ぶようになったのにも、理由がある。
彼女の「食事」の最中に「ロザリア様」と名を呼ぶと、彼の肉を貪る勢いが僅かに遅くなって、少しだけ痛みが軽減することを知ったからだ。
「ねえシャムリル! 昨日昨日、私の名前を呼んでくれなかった!?」
食事の翌朝、巣の近くを流れている清流で水を浴びていると、遅れて起きてきたロザリアが駆け寄ってきた。
喜色満面といった様子で、竜の姿だったら犬みたいに尻尾を振っていそうだ。
「ええ、呼びましたよ、つい反射的に」
ついぶっきらぼうに、そう返事をした。
ロザリアはよほど嬉しかったのか、水の中に飛び込んで、シャムリルに抱きついてきた。
「あのね、あのね。もっと呼んでもっと呼んで! ロザリア様って! あのね、昨日のシャムリルも、とってもおいしかった!」
自分の味の感想を聞かされることにも大分慣れてはいたが、複雑である。
「それは、よかったです。……まずかったなんて言われるよりは、よっぽど」
この時点で、シャムリルの常識とか倫理観とか道徳だとか、そういった「人間」にとって大切なものは、滅茶苦茶になっていたと思う。
「水から出たら、朝食にしましょう」
もちろん、この場合の「朝食」は、「一般的な人間が必要とする、ごく普通の食事」だ。
もっとも、シャムリルには「不死」の呪いがかけられているため、本来なら食事は必要ない。
そして竜であるロザリアは、「調理」という概念は知ってはいても基本的に生食で済ませてしまうため、今までは自分で何かを調理することはなかったようだ。
以前、山で捕ってきた鹿を血抜きもせず、シャムリルの目の前でそのままばりばりと食べ始めたときはちょっと眩暈がした。
「シャムリルは食べないの?」
「……まだ人間やめたくないので」
それからシャムリルは、ロザリアが捕ってくる食材を調理するようになった。
実家が酒場兼料理屋を営んでいて、彼もそこを継ぐことを考えていたため、料理をつくるのにはそれなりに慣れていた。
必要な器具や調味料は、ロザリアが、廃墟になったリルの町まで行って取ってきてくれた。
シャムリルが用意する「料理」は、ロザリアにも好評だった。
しかも「三日目」までに彼女の腹を満たしておけば、彼が食われる部位も少しは減るのだ。
それからは、積極的に料理をするようになった。
だが、シャムリルの方は「三日目」だけ意図的に食事を抜くようにしている。
ロザリアが彼の肉を咀嚼している音を聞いている最中に、嘔吐したことがあるからだ。
己の吐瀉物の中に突っ伏しながら己の肉を食われているという、できれば二度と味わいたくない酷い体験だった。
この日は「一日目」の朝食であり、シャムリル自身の食欲もまだ戻っておらず、ロザリアも昨夜の「食事」で腹が満たされているだろうから、軽めに「キノコのスープ」ですませることにした。
食べられるものとそうでないもの、毒があるので口にいれてはならないものと、食べられはするけどおいしくはないもの。
そういった山の食材の知識に関しては、ロザリアはシャムリルよりも一枚上手だった。
彼女だけでなく、竜という種族はそういったことには詳しいらしい。
「一応、この山の主みたいなものだしね」
とはロザリアの弁。
「それにしてもこのスープもおいしい~! いつもだけどシャムリルの『料理』は最高だよ! これなら売り物にもなるんじゃないかな」
ここまで顔を輝かせて自分の作った料理をおいしいと言ってもらえると、悪い気はしない。
「でも、自分の肉は調理しませんよ、さすがに」
「うん! だって獣の臭い肉とは違って、シャムリルのお肉だけは、生が一番だもの! あのね、シャムのお肉はね、とっても甘くておいしいの! 口の中に入れると、とけちゃいそうなくらい柔らかくて、ほっぺがおっこちそうになって……」
シャムリルはゆっくりと、この生活を受け入れ始めていた。
何もかもが地獄だ、と思っていた最初のころとは変わって、「三日に一度最悪の日があるだけ」と考えられるようになっていた。
毎日、男の相手をしていたあの頃よりましかもしれない、とさえ思うようになっていた。
そうして三日に一度の食事を繰り返し、何度も食われ、気付けば二年の月日が経っていた。
その年の春。
「ロザリア様。お願いがあります」
旅をしてみたい、と告げた。
逃げ出したいわけではなく、この洞窟の外の世界に興味を持つようになったのだ。
もちろん断られるだろう、と思っていた。
彼女は、自分が離れようとするのを拒むだろうと。
だがロザリアは意外な――今考えれば、彼女にとっては「当然」ともいえる答えを返してきた。
「よし! じゃあ一緒に旅をしよう!」
「……え?」
「だいじょうぶ! 実は私、人の姿でしょっちゅう旅していたから! 旅はいいよ~、楽しくて! それとも、私と一緒に行くのは嫌? シャムリル?」
「いえ、嫌というわけでは……」
かくして紅い竜と白い少年の旅は、始まった。
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