三日ぶりの食事
その日の夜は、この町で一泊することに決めた。
初めはどこか適当な空家を借りるつもりだったが、どの家も損傷が激しく、足を踏み入れたら床が抜けたり天井が落ちてきたりと難儀したので、結局広場に戻って野宿することになったのだ。
もともとロザリアは野生の身で野宿にはなれているし、シャムリルも別段不満などない。
荷馬車の天幕の中、という案もあったが、いかんせん二人で寝るには狭すぎる。
そして何よりこの日は――。
「あのね、シャムリル。もしかしたら忘れているかも知れないけど、今日は――」
「忘れていませんよ。『三日目』、ですよね。前回は丁度、旅立ちの日の前夜でしたか。そういえば、あの洞窟の外での『食事』は初めてですね」
「うん」
二人の間で、ぱちぱちと焚火が爆ぜる。
炎の灯りの中でさえ、ロザリアの顔が紅潮しているのが分かった。
「あのね、最初の日にした約束、覚えている?」
「三日に一度、ってやつですか? もちろんです」
「それだけじゃなくて。その後にも、いろいろと約束したよね? 欲しい物はなんでも与えてあげる、願い事はなんでも叶えてあげるって。シャムはそういうことを望まなかったから、この約束を守らなきゃいけない機会はなかったけど。でも三日に一度の約束も、できるだけ優しくするって約束も、今までちゃんと守ってきた。もちろんこれからもそうする」
「何がおっしゃりたいんですか?」
「私からも一つ、約束してほしいことがある」
「なんでしょう?」
「これから一緒に旅をするでしょう? 『巣』は山の中にあったから、シャムは逃げ出すことができなかったけど……。これからは逃げようと思えばいつだって逃げられる。私が寝ているときに、この馬車に乗ってどこかに行ってしまうことだってできる。……でもね、」
「逃げませんよ」
シャムリルはロザリアの機先を制してそう言った。
「というか、竜のあなたから逃げ切る方法なんてあるんですか? その気になれば一日でこの国を一周できる。その気になれば僕が逃げ込んだ町を一瞬で更地にできる。それに今さら、こんな体の僕がいられる居場所なんてありません。せいぜいが他の竜に飼われて――」
「それはだめ! 他の竜なんかにシャムは渡さない!」
「言ってみただけです。そもそも他の竜が僕の肉を好むかどうかもわかりませんし、ロザリア様みたいに『三日に一度』の約束を守ってくれるかも――」
突然、シャムリルの口をロザリアが塞いできた。
柔らかく甘い唇を、こうして無理やり重ねてくるのは、もう何度目になるだろう。
息が荒く、体が熱っぽい。生身のまま触れたら火傷しそうなくらいだ。
もっとも、これほど体が「熱く」なるのは竜という種族の特徴なのか、ロザリア個人の問題なのかは分からない。
「ごめん、シャム。もう我慢できない」
シャムリルを地面に押し倒し、自分の着物の帯を解いていく。
「シャムがいけないの。他の竜に飼われるなんて、冗談でも言わないで」
その言葉が今回の「衝動」の引き金だったらしい。――もう言わないようにしようと内心で猛省する。
こうなったロザリアを止めるのは容易ではない。
完全に食欲が満たされるまでは、自分でも衝動に逆らえないらしい。
竜の本能にして最大の衝動。――すなわち、人を食べたい。
「ねえ、シャム。食べていい?」
「……どうぞ」
シャムリルは観念して、身を差し出す。
人間の姿を保っているうちは、まだ理性が残っている証拠だ。
この間なら、「なるべく優しくする」という約束を守ろうとしてくれる。以前食事になることを五日以上も拒み続けたときは、完全に竜化したロザリアに襲われて、ひどい目にあった。
「今日は、肩がいい。この前は腿だったから」
汚れてしまわないようにシャムリルの着物を脱がし、舌を首筋に沿って這わせる。
その舌の感触も、僅かに当たる温かい吐息も、シャムリルにはくすぐったくて仕方がない。
――嫌か、と問われれば解答に迷う。
あの男とはまるで違う。本当に大事にされているのだな、というのが分かる。
だからこそ、ここで終ってくれればそれが一番いいのに、といつも思ってしまう。
この次に訪れるのは苦痛以外の何物でのないのだから。
痛くて苦しいのは一瞬だけ。
それでもやはり、覚悟が必要になる。
やがて首筋を這う感触が変わり、固く尖った牙が皮膚に食い込もうとしているのを感じると、シャムリルは思わず口を開いた。
「ま、待ってください、ロザリアさ――」
シャムリルの声は、その瞬間に走った鋭い痛みのせいで言葉にならなかった。
代わりに口から漏れ出したのは、苦痛に悶える声だ。
牙が食い込んだ傷口が熱い。自分の血のにおいに辟易とするが、ロザリアの息づかいを聞けば、彼女はそのにおいに興奮しているのか――あるいは恍惚としているらしいのが分かる。
目線を下に向ければ、ロザリアは血を浴びて、白い顔まで赤く染めている。
やがて傷口から肉を引きはがす音がして、激痛が走り、シャムリルは悲鳴をあげた。
思わずロザリアの髪に手を伸ばす。
抵抗するのではない。むしろ自身の体に密着させるように、その小さな頭を抱えた。
こうすると何故か痛みが軽減するのだ。経験でそれを知ってからこうすることが多くなったが、何故なのか未だに理由は分からないし、シャムリル自身不思議に思っている。
あとはこのまま、彼女が満足して眠ってしまうまで、我慢するしかない。
自身の肉が咀嚼される音を聞きながら、シャムリルは夜空を見上げた。
満点の星が、真紅の竜と純白の少年を包んでいた。