永遠の始まり
「……あの若造、やってくれたわね。縄張り、ちゃんと見張っておくんだった」
暗闇の中で声を聞いた。
鈴の鳴るような女の声だった。
うっすらと瞼を開けると、覗きこんでくる顔がある。
少女だった。
「起きた?」
声を出そうとしたが、ひゅうひゅうと息が漏れる音しか出ない。
体を起こそうとすると、少女の両手がそれを制した。
「無理しないで。あんなことがあったのだもの。しばらく休みなさいな」
あんなこと――その瞬間、記憶が蘇った。
悲鳴を上げなかったのは声が潰れていたからで、声が潰れているのは気を失っている間に散々絶叫したからだった。
暴れようにも、両肩を押さえつけている少女の手を振り払うこともできない。
それだけ少年が弱っているのか――あるいは少女の力がすさまじいのか。
「落ち着いて」
少女が優しい声で言って、突然、その唇を合わせてきた。
「――っ」
少女の唇は柔らかく、そして甘かった。
「どう、少しは落ち着いた?」
唇を離した少女が、溶けそうなくらい甘い声で尋ねてくる。
少なくとも少年の方は、彼女の容姿をあらためて確認できる程度には平静を取り戻した。
年のころは彼と同じくらいか少し上。十五、六歳程度だろう。
だがあどけなさの中に、どこか大人じみた艶やかさも併せ持っている。
美醜でいえば間違いなく――それも彼が今まで出会ったことのある女性の中で最も――美しい少女だった。
暗がりに目が慣れてくると、少女の長い髪と大きな瞳が、そろって鮮やかな赤色であることに気付く。
赤毛も赤い瞳も珍しくはないが、これほど鮮やかな真紅の色は見たことがない。まるで薔薇の花弁のようだった。
透けるような白い肌も相まって、彼女の美しさはどこか神秘的でさえある。
ここは、洞窟の中らしい。彼は平らな岩に置かれたベッドに横にされている。
と、目と鼻の先にある少女の白い顔が、まるで髪や瞳の色に合わせるように赤らんでいく。
気のせいか呼吸が荒くなり、体温も上昇しているようだ。
「ごめんね。……キミがあんまりにも可愛いから、我慢できそうにない」
少年の上にまたがってきて、おもむろに着物の帯を解き始める。
「――ねえ、食べていい?」
背筋を冷たいものが走り、少年は反射的に彼女の体を突き放していた。
結果として、それが正解だったのだと悟る。
服を脱いだ少女の裸体には、宝石のように輝く赤い鱗が生えていたのだ。
「……ひどい。優しくするのに……」
ゆらりと立ちあがった彼女の背中から、巨大な四枚の翼が生える。
その赤い瞳は、瞳孔が縦長に広がって竜と同じ形になっている。
――おとぎ話の中には、竜が美しい女に変化して男を惑わし、食ってしまうという物語がある。
少年の心の奥底からふつふつとこみ上げてきたのは恐怖と、怒り、そして憎しみだった。
こいつが、家族を殺して食った、あの竜――。
彼は横にされていたベッドから跳ね起き、そして少女の形をした竜につかみかかった。
勢いそのままに地面に押し倒した。
が、すぐに体をひねられ、体勢を逆転されてしまう。
「だから落ち着いてって。……よぅく見て? 私をあんな若造と一緒にしないで」
赤い瞳に赤い髪、――赤い鱗、赤い翼。
少年の町を襲ったあの竜の鱗と翼は、「深い紫」ではなかっただろうか。
だが一度沸点に達した怒りが収まることはなく、彼は少女の下敷きになったまま、獣のような唸り声を上げた。喉が潰れていなかったら、言葉の限りをつくして罵倒していただろう。
少年の怒りと憎しみは、「竜」という存在そのものに対して向けられていた。
それを察したのか、少女は悲しげな顔をする。
「キミにとっては、私もあの若造も一緒か。……でもね、一応言っておくけど、私はキミの命の恩人なんだよ? キミはあの若造に体の半分も食べられていた。それを私が助けてあげようと、この巣に連れて帰って治療してあげたんだ。……まあ治療の途中でちょっと味見しちゃったけど。……新しい命を与えてあげたことは、感謝してほしいくらいなんだけどな」
それがどうしたと言わんばかりに、彼は少女を睨み返した。
巣、と彼女は言った。なるほどここは彼女の巣なのかもしれない。
うす暗い洞窟で、竜が寝そべることができるくらい広く、そして周囲には何かの動物の――もしかしたら人間のものも含まれているのかもしれない――骨が散乱している。
なぜ人である自分を寝かせられるようなベッドがあったのか、なぜ自分を治療した痕跡らしい布や包帯が散乱しているのか、なぜ自分をすぐに食べてしまわなかったのか。
そしてなぜ、体の半分を食べられたはずの自分が、今は五体満足なのか?
――奇妙な点はいくつもあったが、竜の考えることなど分からないし分かりたくもない。
少年は、馬乗りになって自分の体を押さえつけている少女に抵抗した。
潰れた喉で獣のように唸り、弱々しい拳で少女を叩く。
だが、唐突に――
全てがどうでもよくなった。
抵抗してもしなくても、その後に待っているのは、どうせ痛くて苦しいことなのだ。
むしろ抵抗すればするほど、その後の痛みと苦しみは増す。
――それを悟ったのは、あの男の相手をさせられるようになって一月が経ったころだった。
だったら、何も感じない、何も考えない、何も願わない。心に蓋をして、感情に栓をして、痛くて苦しいが終わるまでじっと耐えた方がいい。
男に犯されるのも、竜に食われるのも、たぶん同じだ。
むしろ竜に食われる方が、その後に待つのが「死だけ」である分、ましかもしれない。
毎日のように男の相手をしなくていい。夜が来るのを怯えなくてもいい。
たった一度の「痛くて苦しい」を我慢すればいいだけのこと。
急に少年の力が弱まったからなのか、少女がいぶかしむような顔をした。
少年は枯れた声を振り絞り、ひゅうひゅうと掠れた音で伝えた。
さっさと殺せ、と。
それを聞き、真紅の美しい竜は、ひどく悲しげな顔をした。
「……ごめんよ」
少年の胸から腹にかけてを、少女は指で、つつ……と撫でた。
鋭い爪がなぞった跡に沿って、赤い線が浮かび上がった。
だがその傷は、みるみるうちに塞がってしまうではないか。
「呪いをかけたんだよ。あのままだとキミ、死んでしまっていたから。……キミは新しい命を手に入れた。死ぬこともない、老いることもない命だ。……私には、キミを殺せない」
何を言っているのか――少女の発言の意味を遅れて理解して、全身が粟立った。
馬乗りになる少女を突き飛ばし、ベッドの脇に置いてあった医療用のハサミを掴む。
「……そんなものじゃ、竜の鱗には傷一つつけられないよ」
そんなことは分かっている。銃弾や砲弾すら弾き返すのを、この目で見たのだから。
だから少年は、ハサミを逆に握りしめ、刃を己の喉へと突き立てた。
少女が目を見開く。だが止めようとはしない。次に何が起こるのか分かっているのだ。
果たして致命傷になるはずだった少年の傷は、ハサミを引きぬいた直後から再生を始めた。
飛び散った血までもが、時間が巻き戻るように傷口から体内へと戻っていく。
――なぜ、こんな呪いをかけたのか。
地面に膝をついて呆然とする少年を、彼女は抱きしめてきた。
そして彼の耳元で、歌うように囁く。
「惚れたんだ。キミの体に。肉の味に。血のにおいに。骨の形に。……私はキミを食べたい。でも食べてしまったら、キミは死んでしまう。――だから、呪いをかけた」
彼女の言葉は、少年の耳に入ってはいても心が拒絶してしまう。
――なんのために?
「永遠にキミを食べ続けられるように。食べても死んでしまわないように」
少女の声は、どこまでも優しくて甘い。
「すごく、すごく大事にする。キミを食べるのは、三日に一度くらいにする。そのときもできるだけ痛くないように、優しくするから」
だから、と彼女は少年の顔を見つめながら、まるで求愛するような調子でこう言った。
「だから、私に飼われてくれないかい?」
彼女は少年の肩に、唇を当ててくる。
だが柔らかく温かい唇の感触は、すぐに鋭く冷たい牙が食い込む感触に変わった。
肉が千切れる音がした。
思わず言葉にならない悲鳴をあげた。
腹を食い破られた。
枯れた声で絶叫した。
少女の形をした竜は、恍惚としている。
「……ああ、美味しい」
――竜に飼われた少年の永遠は、こうして始まった。