折衝
「夕餐の時間にはまだ早いからの。食事でもてなすことはできぬぞ。まあ茶でも飲みながらくつろげばよかろう」
屋敷の使用人たちが茶器を運んできて、卓に着いた各々に紅茶と焼き菓子を振る舞う。
全員のティーカップが満たされたのを確認すると、アステラは使用人たちを下がらせた。
するとロザリアが注がれたばかりの熱い茶を一気に飲み干して、空になったカップをこん、と音を立てソーサーに置く。
「で? 教会騎士様がアステラに何の用? いや、教会の使者としてではなく、竜殺しとしての用事かな?」
シャムリルは空になったロザリアのカップに茶を注いでやりながら、話を聞く姿勢を取る。
「ずいぶんと短気な竜だね」
と返したのはカナナだ。
物怖じという言葉を知らないらしい、二人の竜を前に緊張した様子もなく紅茶をすする。
「おいしい。でもカナは、ミルクをたっぷりと入れます。猫舌なので」
そう言って白い小瓶を引き寄せ、いかにも高級そうな紅茶にミルクを大量に入れた。
そんな従士を横目で見ながら、ベルがロザリアの問いに答える。
「先ほども申し上げましたが、我々は貴女方と敵対するつもりはありません。この町でロザリア様と出会ったのは全くの偶然ですし、この屋敷に参ったのは、アステラ様にある話をするためなのです」
「話?」
「はい。そもそも、ここで貴女方二人と敵対するような真似をしたら、この町の人々に危険が及ぶでしょう。そのことからも敵意がないことは承知していただきたく――」
「そんなことはわかっている。話って何? さっさと進めて」
ロザリアがここまで人間を嫌うところを見たのは初めてだが、意外ではない。
教会の人間で、その上に竜殺しともあれば当然だろう。
幸い、シャムリルの正体はまだ彼女たちには知られていない。
いや、
竜玉という存在をそもそも知らないのだろうし、「不老不死」の呪いに至っては、信じろという方が無茶だ。
よってシャムリルは可能な限り、押し黙っていることにした。
カナナが猫のような大きな瞳でじいっと見つめてくるのは気になるが、視線を逸らしてやり過ごす。
と、そのカナナが今度は瞳をロザリアに向けて、こう言った。
「お姉さん、さっきからベルに噛みついているけど、そもそもカナたちはアステラ様に話があってこの屋敷に来たのであって、貴女には関係がない」
確かにその通りだ。この少女は鋭いところばかり突いてくる。
「カナ。ロザリア様に失礼だぞ。ロザリア様はアステラ様のご友人でもあるのだから」
ベルが軽く叱ったが、ロザリアは緋色の唇を一文字に結んで「ぐぬぬ」と唸っている。
やがて穏やかに口を開いたのはアステラだ。
「全く関係ない、とは言えぬな。特にそこな少年にとっては関係のある話じゃ」
「……僕に?」
シャムリルはいぶかしむ。
話題が彼に振られたので、黙り通すことができなくなってしまう。
「この竜殺しはの、ぬしの町を襲った、かの紫竜を追っているのだそうじゃ」
「えっ」
かろうじて冷静さを失うことはなかったが、その瞬間にシャムリルの心臓は跳ね上がった。
だがシャムリル以上に驚いた様子なのは、当の竜殺しであるベルだ。
「まさか! シャムリル殿はリルの町の――」
「生き残りじゃよ。本人も紫竜に襲われて死にかけていたところをロザリアに拾われ、命を救われたのじゃ。……そうじゃったな、ロザリア?」
間違ってはいないし、これなら一応、普通の人間であるシャムリルがロザリアと一緒にいることの説明にもなる。
ロザリアもアステラに合わせて「う、うん。そうだよ」と頷く。
だが、またしても鋭い指摘をしてきたのはカナナだ。
「じゃあなんで、その後もずっと一緒にいるの? 二年も。シャムを食べようとしなかったの?」
それは――と口ごもったシャムリルの代わりに答えたのは、ロザリアだ。
ロザリアは毅然とこう言い切ったのだ。
「シャムが好きだから」
だからシャムリルを食べようとしなかった――と続いたのなら、嘘になっただろう。
だが、その言葉だけをきっぱりと言い切ったロザリアの顔は、嘘をついているように見えない。
カナナは少しだけ猫のような目を見開いたが、すぐに隣のベルの腕をぽんと叩いた。
「ほら。やっぱりカナの言ったとおりだ。二人は恋人同士なんだよ」
一方、ベルはティーカップを手に持ったまま、唖然として固まっている。
「そ、そういうことも、あるのですね。竜と人間が……そういう関係になるとは」
断じて違うが、ここは二人の誤解に合わせた方がいいとシャムリルは判断した。
「でも、証拠は?」
カナナの問いに、動いたのはロザリアだ。
シャムリルの肩を指でとんとんと叩き、顔を向けさせると、唇を重ねてきた。
「おお」
「これでいい?」
平然と問いかけるロザリアに、カナナはこくこくと頷く。ベルに至ってはあんぐりと口を開けていた。
シャムリルの方は思いっきり咳き込み、それから赤くなった顔をごまかすように紅茶を口に運んだ。
ロザリアの唇が甘すぎて、紅茶の味など分からない。
軽く呆れた様子なのはアステラだ。
「話を戻しても構わんかの?」
シャムリルはありがたくそうさせてもらうことにした。
「そ、そうです。あの紫の竜を追っているとは? ベル様」
するとベルは我に返ったように、一つ咳払いをする。
「はい。ですが……かの紫竜に関しては、確かに我々が追わなければならない相手ではあります。しかしアステラ様にお伺いしても、我々がすでに承知していること以上の情報は手に入りませんでした。そこで紫竜に関しては一旦脇に置き、私たちのもう一つの目的について、先ほどまでアステラ様と話していたところだったのです。故郷を滅ぼされたシャムリル殿にとっては、納得されかねることとは存じますが……」
「構いません。それより、もう一つの目的とはなんですか?」
「この頃、この町の周辺で旅人が何者かに襲われるという事件が頻発しているのです。それだけでなく、リルの町から避難してきた難民や孤児たちの中にも、行方が分からなくなっている者がいるとか。生き延びた旅人の証言から、竜の仕業であると断定されました。私はその竜に対処するために、王都から派遣されて参ったのです」
シャムリルは事態を飲み込めず、ロザリアを見た。
ロザリアも「なんのことかわからない」と言った様子で首を横に振り、今度は二人揃ってアステラを見る。
「わしも知らなんだよ。じゃがこの町がわしの縄張りじゃということは、ほとんどの竜が承知しておる。それを知らぬということは、遠くから流れてきた余所者か、それとも生まれて間もない世間知らずかのどちらかじゃろうな。……まさかぬしら、わしを疑っておるのか?」
「いや」
ロザリアは即座に否定する。
「アステラはそんなことしない。アステラがどんな竜よりも賢くて理性的なのは、私が良く知っている。それにアステラは、この地方の領主と遠い昔に協定を結んだのでしょう?」
「協定?」
シャムリルの問いに、アステラは答える。
「わしがこの地方を縄張りにする代わりに、他の竜を寄せ付けぬという協定じゃよ。人間にとっては予期せぬ竜災が減り、わしは定期的に鮮度のいい死体を得ることができる。しかし余所者がそれを破りおった。わしとしても黙ってはおれぬが、竜と竜がぶつかり合えば、この町にも無視できぬ被害が出るやもしれん。当代の領主はそれを避けたいのじゃろう。そこで教会の伝手を使って、竜殺しを呼んだらしい。わしへの協力を要請する書類を持たせての」
言ってから、アステラは深々と溜息をつく。
「わしも衰えたものじゃ。昔じゃったら、その余所者をこの手で始末しに向かったじゃろう。書類など破り捨て、この竜殺しを殺してからの。じゃが今のわしに、そんな力はない。生きた人間を食わぬと、竜の神通力は衰える一方での。……無様なことじゃが、今のわしは人の姿を取るので精一杯なのじゃよ」
「じゃあ、この人間に任せるつもりなの? アステラともあろう竜が」
「うむ。……まあ見ておれ」
言ってアステラは、焼き菓子にバターを塗るためのナイフを手に取った。
それを、放る。
――ミルクをたっぷり入れた紅茶をすすっている、カナナに向けて。
目視できない速度で飛んだバターナイフは、だが、ベルの掌が防いでいた。
純銀のナイフはベルの掌に当たった瞬間、嘘のように粉々に砕け散る。
「今、わしはこの童女の額に穴を開け、壁を抉るつもりじゃった。いくら神通力が衰えたとはいえ、竜の膂力で放ったものじゃ。当然生身の人間が防げるものではない。……竜殺しよ。ぬしもまた、人外じゃの」
ベルはテーブルの上に散った銀の粉をナプキンで拭き取りながら、静かに答える。
「私はただ、異常に体が硬く、異常に力が強いだけの人間に過ぎません。……ですが、だからこそ竜殺しなのです」
「竜を、殺せるのですか?」
思わず尋ねたシャムリルに、ベルはまた静かに、だが力強く「はい」と答えた。
――果たしてその翌日、彼女は竜を殺したのである。