騎士と従士
「ベル。仮にも騎士が、馬上で食事するのはいかがなものかと思う」
鞍の前の方に跨った少女――カナナが、首を後ろに傾けながら言った。
すると彼女の後ろで手綱を引いている騎士――ベルは、「う……」と痛いところを突かれたようにうめく。
後ろで一つに束ねた黒髪が、馬の尾のように揺れていた。
「そんなこと言ったって、腹が減って減って仕方なかったんだ。昨日から干した肉とかっちこちに焼き固めたパンしか食っていなかったから。それにカナだって私のことを言えないだろう。騎士見習いのくせにお嬢さんたちの好意に甘えておごってもらったりして。……それにしても美味いな、これ。肉の焼き加減は絶妙だし、何よりタレが良い。肉の脂とタレがしみ込んだパンと一緒に食うと格別だ」
ベルは器用に片手で馬を操りながら、もう片方の手で笹の葉に包まれたパンを食べている。
持ち帰り用にと笹の葉に包んでもらったのだが、食欲を誘う匂いに我慢できなくなったのだ。
「昨日一日、同じく保存食しか食べていなかったカナは、その焼肉パンを一口所望します」
首を後ろに傾けたまま、「あーん」と一口ねだるカナから、ベルは己のパンを遠ざける。
「これは私のだ。それにカナは私が来る前にさんざん食べたんだろう? お前が食べた分の代金は私への貸しだからな」
「従士への給金は騎士が出すもの。ベルは今回の仕事でたんまり前金をもらっているのですから、優秀な従士へのお裾分けくらいあってもいいかと思われます。あーん」
「……仕方ないな。一口だけだぞ」
ベルはカナの口にちぎったパンと肉を放り込んでやる。
「主の恵みに感謝いたします。もぐもぐ」
まるで親鳥に食事を与えられた雛のようである。
「祈りの言葉は食べ物を口に含んでいないときにな。……それにしてもカナ、さっきまであんなに大人しかったのに急に元気だな」
「カナはお腹が空くとああなるのでごくん。それよりベルがあんなことをするなんて珍しい。シャムもびっくりしていた」
例の、手の甲への接吻のことだ。
「あの銀髪の子はシャムというのか。それにしても綺麗なお嬢さんだったな。まるで人形みたいだったぞ」
「……もしかしてベル、気付いてないの?」
「何がだ? まあ怪しいと思ってあんなことをして確かめてみたが、あの少女は人間だったよ。普通の、かどうかはともかくね。それからあの子、びっくりするほどいいにおいがした」
ベルは未だに脳に染みついて離れないあの「少女」の香りを思い返す。
花のような、果物のような、蜂蜜のような、ミルクみたいな……そんな甘いにおいだ。
「本当に気付いていないんだ。まあいいや」
「それより紅い方のお嬢さんは? カナはあの子の方が怪しいと思ったんだろう?」
勘定をするとき、ベルはカナナに金を支払わせた。
騎士が従士に所持品や金銭の管理を任せるのは珍しいことではない。
カナナに限っては、しょっちゅう迷子になるため未だにそういうことを任せられないでいるが、支払いのときだけは財布をカナナに渡すようにしている。
カナナは紅い少女に直接金を手渡した――その手と手が、触れ合うように。
「あれは竜だね」
カナナはきっぱりと断言する。
「未だに手の触れたところがぞわぞわする。竜、といってもそんじょそこらの竜じゃない。とんでもない大物。彼女の方はカナとベルを警戒していたみたいだけど――何事もなくてよかったね。下手したら今頃、カナたちはあの竜のお腹の中だった」
「……だろうな」
ベルが端整な顔を軽く引きつらせる。
「だとすると、分からないのはあの銀髪の少女だ。なぜ竜と一緒にいる?」
「さあ? 恋人同士とかなんじゃない?」
するとその答えに、ベルは一気に赤面して、慌てふためき始めるではないか。
「こ、恋人ってそそそんなまさか! だってあの紅い竜は雌で、銀髪の子も女の子だ! いやいや確かに、女子修道院みたいな女しかいないところでは、そういうこともなくもないが」
「男の子だよ」
カナナは言った。
ベルは「は?」と間の抜けた声を返す。
「シャムは男の子だ。あんなに可愛いけど」
「ちょ、ちょっと待って。頭の中が混乱してきた。あの銀髪の子は、男装した女の子じゃなくて、男装した男の子ってこと?」
「それって普通に男の子じゃん。でもまぁベルが間違えるのも無理ないと思う。男装した女の子にしか見えないもん。お店にくる客も五人に四人は勘違いしていたね」
やがてベルは大きく溜息をついて、肩を落とした。
「今、女としての自信なくした、私」
「まあ、素のベルよりもシャムの方が断然可愛いもんね」
カナナはベルに追い打ちをかけてから、こう続けた。
「でもあそこまで行くとさすがに、主も何をお考えになってシャムみたいな人間を生み出したのかと思いたくなるけど。それにカナは、もっとごつごつしていて筋肉隆々な、男らしい男の人のほうが好きだな。だからベルも、もっと体を鍛えるべきだよ」
「……私は女だ。まあ、力比べじゃそこいらの男に負ける気はしないけど。って、話があらぬ方向に進んでいないか? 何の話をしていたんだったっけ」
ベルは未だに衝撃から立ち直れないでいるようだが、話題の軌道を修正しようとする。
「あの紅い竜とシャムがどうして一緒にいるのか。でも竜の生態や考えることなんて、ほとんど分かっていないんだし、考えても無駄じゃない? 単にあの紅い竜がシャムの造る料理を気に入って、生かしているだけかもしれないし」
「うん。恋人同士よりは、よほどそちらの方が説得力あるな」
「それで、どうするの?」
カナナは再び首を後ろに傾けて、手綱を操るベルに尋ねる。
「どうもしないさ。人の姿に化けて旅をしている竜は珍しくない。たまたまあの紅い竜とこの町で会ったのも――戦わずに済んだのも、主のお導きだ。もちろんあの竜が竜災を起こすようなことがあったら、私も見過ごすわけにはいかないけどね」
「そうならないことを祈るしかないね。あんな化け物を相手にすることになったら、いくらベルとはいえ、命がいくつあっても足りない」
「全くだ。かの聖王は南の海で悪竜を退治する際、七度死に、その度に生き返ったと言うが。普通の人間の命は一つだけだからね。……さて。目的の屋敷に向かう前に、この教区を束ねる司教様に挨拶にいこう。竜の巣に乗り込むのはそれからだ。心の準備はいいかい、カナ?」
馬は町の坂道を上り、丘の上に建つ大聖堂へと向かっている。
「聞いた話じゃ、この町を縄張りにしている竜は、死体を好んで食べるそうだよ。私がその竜の餌にならないようにちゃんと守ってね、ベル」
カナナは臆する様子もなく、ベルの体にその小さな背中を預けた。