邂逅
気付いたのはシャムリルの方だった。
通りの向かい側から、ふらふらと歩く子供が店へと近づいてきたのだ。
子供は店の前で立ち止まり、消え入りそうな声で呟く。
「おにく……いいにおい……たべたい」
腹が減っているのだろうか、とシャムリルは首をかしげる。
物乞いではないだろう。茶色がかった短めの髪はさらさらで、肌は白く、衣も汚れていない。
小綺麗な女の子だ。年のころは十二、三歳程度だろうか。
少し変わった子供ではあったが、客は客だ。
だが、シャムリルが肉を焼こうとしたとき、その袖をロザリアが掴んできた。
囁くように耳元でこんなことを言ってくる。
「シャム。この子、なんだか嫌な感じがする。うまくは言えないけど」
「ロザリア様。お客さんですよ。――パンも一緒にいかがですか?」
女の子に聞くと、返答は「ぐぎゅうるるるる」と鳴ったお腹の音だった。
「……おまけしておきますね」
肉を挟んだパンを手渡すと、少女はそれをなんと一口で頬張ってしまった。
もぐもぐもぐもぐもぐ、ごくん。
「おいしい。おかわり」
まるで猫を拾ってしまったみたいである。
少女は店の脇にちょこんと座り、もう三つ目になる焼肉パンをもぐもぐと頬張っている。
餌付けしたら懐いて居着いてしまった猫のよう。
さらに困ったことに、お代をもらおうしたら「お金、ない」との返答が返ってきた。
「でも、ベルが来たら、ちゃんと払う」
だが、その「ベル」という人物とは町中ではぐれてしまったらしい。
少女の旅の連れなのだというその人物が見つけに来るまでは、彼女をここに居させることにした。
しかし先ほどからこの少女を警戒しているのはロザリアだ。
ロザリアはシャムリルの耳元で囁く。
「この子自身はたぶん無害だと思う。でもこの子に近しい『誰か』の移り香が嫌な感じなんだ。もしかしたらその『ベル』ってやつかも」
「ロザリア様でも、そんなに怯えることがあるんですね」
竜という種族がいろいろなことに敏感なのは知っているが、こういった反応は珍しい。
シャムリルもロザリアの言葉を信じないではないのだが、
「おびっ! 怯えてなんかないもん! 嫌な感じってのは、あれだよ! 蚊が耳元で鳴いているくらいの嫌な感じ!」
などとロザリアが言うものだから、肩の力が抜けてしまった。
「大したことないじゃないですか。……と、そうだ。君、名前はなんていうの?」
目線を合わせるように屈みながら、シャムリルが尋ねる。
少女は色素の薄い茶色の瞳で、シャムリルをじいっと見つめ返してくる。
「カナは、カナナだよ? お兄ちゃんは?」
「僕はシャムリル。シャムって呼んで。カナナは――カナちゃん、って呼んでいいのかな?」
カナナ、と名乗った少女はこくりと頷く。
背後で紅い竜がカナナを睨んでいるような気がしないでもないが、なんとか無視する。
すると二人をじっと見つめていたカナナが、首を傾けた。
「紅い髪のお姉ちゃんは、」
そしてカナナの口から、信じられない言葉が飛び出してくる。
「竜、なの?」
ぞく、とシャムリルの背筋が粟立った。背後でロザリアが、殺気だったのを感じる。
――この子は、一体何なんだ?
そのとき、穏やかな声が店先からかけられてきた。
「カナ。初対面のお嬢さんに、失礼なことを申し上げてはなりません」
「ベル」
カナナが声の主の名前を呼ぶ。シャムリルとロザリアが振り返る。
そこには大きな馬の手綱を引いている青年が立っていた。
「失礼しました。私の従士が世話になったようです」
柔和な印象を受ける青年だ。
歳はまだ二十歳を超えていないだろう。長く艶のある黒髪を後ろで一つに束ねている。体の線は細いが、物腰はしっかりと落ち着いていた。
腰には剣を佩き、純白の外套を羽織っている。
そして、その外套に金色の色で縫いとめられた紋章は、「二対の竜翼に交差する一振りの剣」。
――教会騎士団に所属していることを示す紋章である。
マントの下で、鎖帷子が微かに音を立てた。
「教会騎士っ!」
ロザリアが苦虫をかみつぶしたような声を出す。
一方、騎士の青年は柔和な表情を崩さず、丁寧にお辞儀をした。
「はい。私は聖王教会騎士、ベル・ファフティーナと申します。この子は私の従士で、カナナ・ロ・フェルタと――」
「自己紹介なんて必要ない。その子が食べた分のお代を払ったら、さっさと立ち去って」
ロザリアは嫌悪感もあらわに、噛みつくような口調で彼らを追い返そうとする。
先ほどのアステラの言葉を思い出したのだろう。
「呪い」のことが教会に知られれば、シャムリルが捕まるかもしれないと。
だが、ロザリアの不敬とも捉えられかねない発言に、ベルという騎士は慇懃なまでの謝罪を返してきた。
「私の従士の言葉を不快に思われたのなら、心から謝罪いたします。カナは美しい女性を見ると、ついあのようなことを口走ってしまうのです」
確かに、美しい人間を形容する言葉に「竜のような」という慣用句がある。最高の評価を与えられた飲食店が掲げる「竜も舌鼓を打つ」という文句と似たようなものだ。
だがロザリアは未だに不信感をむき出しにして警戒を解いていない。
シャムリルも、カナナの先の一言には確かにひやりとさせられた。
しかしこの二人が悪い人間だとも思えない。
それにここでロザリアがいざこざを起こしでもすれば、ベルにも妙に思われるだろう。
シャムリルはこの場をどう収めようかと思案する。
するとそのとき、「ぐぎゅるるるううう」と盛大な音が周囲に響き渡った。
音の出所は白衣の騎士である。
騎士はその精悍とも言える引き締まった顔を耳まで赤くしていた。
「…………何か、召し上がりますか?」
シャムリルは思わずそんな申し出を口にしていた。
「……かたじけない」
* * *
ロザリアが「ふぎゃー!」と爆発したのは、ベルとカナナが馬に乗って通りの向こうへと去って行き、姿が完全に見えなくなってからだった。
ロザリアは「竜が尾を見せる」ような真似こそしなかったが、シャムリルの方は終始緊張しっぱなしで、ようやく「はぁ……」と大きく息をついた。
――この度はカナナが世話になった揚句、私のような者にまで心遣いをしてくださったこと、感謝の念に堪えません。機会があればまたお会いしましょう、竜のように美しいお嬢様方。
去り際、白衣の騎士はそう言って、シャムリルの手の甲に口づけしていった。
その言葉で、少なくともベルという騎士はシャムリルの正体はおろか性別さえ見極められていないことが分かり、内心ホッとしたやら複雑やら、ロザリアがその瞬間に正体を現してしまわないかと冷や冷やしたやらで、二人が見えなくなった途端、疲れが一気に押し寄せてきたのである。
「シャムリル! 塩! 今すぐ塩でその手を清めるんだ! いやいっそ私が口づけをっ」
そう言って手の甲ではなく唇と唇を合わせようとするロザリアの額を、軽く指で小突く。
「それにしても、あの二人は一体なんだったのでしょう? 王都の教会騎士がこの町に来るような用事なんてあるのでしょうか。この辺りに聖地なんてありましたか?」
肉を焼いている間の会話で、ベルが「王都にある聖王教総本山の騎士」だということはわかった。
教会騎士の仕事は、各地にある聖王縁の地「聖地」の守護や、そこに巡礼する巡礼者の保護など、多岐にわたるが、この辺りに聖地があるという話は聞いたことがない。
「ふん。あいつらが表向きどんな用事でこの町に来たのかなんて知らないよ! それより、ああもう許せない! あのベルとかいう女騎士っ!」
ロザリアの口から飛び出してきた言葉に、シャムリルは「はい?」と素っ頓狂な声を出す。
「女の、人?」
「シャムは気付かなかった? あのベルとかいう騎士、男装した女だよ。年齢もごまかしていたし。二十歳とか言っていたけど、たぶん十七、八くらいだ」
竜であるロザリアの言うことだ。間違いはないのだろう。
……しかし、
「僕より男らしくて格好良かったですよ、あの人」
「そうだね。あんな女より、シャムの方が断然可愛かったよ!」
「それはそれで複雑です。男として。そんなことより、表向きとおっしゃいましたが」
シャムリルは先ほどのロザリアの発言の意味を訊こうとする。
「ああ。アステラの話、覚えている? まさかとは思ったけど、どうやら実在したらしい」
「アステラ様の話? ってまさか!」
驚愕を隠せないシャムリルに、ロザリアは頷く。
「マントに香を焚きつめてごまかそうったって無駄さ。あのベルって騎士、ひどいにおいがしたよ。血のにおいだ。それも人間のものじゃない。……竜の血だよ」
シャムリルの背中を、冷たい物がぞくりと走った。
「……竜、殺し……」