買い物
翌日、シャムリルは「暁の鐘」が鳴るのと同時に目を覚ました。
夜明け前。
太陽はまだ昇っていないが、空は仄かに明るい、そんな時間である。
同じベッドの中では、ロザリアがシャムリルの寝巻の袖をつかみ、すやすやと寝息を立てていた。
と、彼女の小さな口がシャムリルの手を甘噛みしてくる。
「おいひい……」
一瞬、ひやりとするが、その口から牙が生えてシャムリルの肉に食い込む様子はない。
それに今日はまだ「二日目」だ。
――シャムリルにとって日の数え方の基準となっているのは、ロザリアの「食事」である。
シャムリルはロザリアの華奢な体を揺すった。
「ロザリア様、もう朝ですよ。市場に、『屋台』で出す料理の食材を買いに行かないと。早く行かないと良い物は売り切れてしまう、とおっしゃったのはロザリア様です」
存外に軽い体を支えるように起こさせる。
ベッドの脇に用意されていた手水盥に布を浸し、軽く絞ってから、その顔を拭いてやった。
同様に自分の顔も軽く拭い、支度を始める。
昨日古着屋で買った衣に袖を通す。
するとロザリアが、まだ眠たげな甘い声でこんなことを言ってきた。
「着替えさせて~、シャムリル~」
「自分で着替えてください。あっち向いていますから」
「お互い、裸なんて見慣れているでしょ~」
「……そうですけど」
裸どころか、シャムリルの内臓の色まで知り尽くしているこの紅い竜に対しては、今さら恥じらいなど感じない。
シャムリルの方もロザリアの裸を見たところで「きれいだな」という感想を抱く以外、何も感じないのだが、ここはもう人の世である。
ロザリアのことも人として扱わなければならないし、常識は保っていたかった。
――昨夜のあの後、一緒に風呂に入ると言って聞かなかったロザリアを説得するのは骨が折れたが。
ロザリアは自力で着替えてはくれたが、髪を結うのに手間取っている。
シャムリルは飾り紐を受け取って、鮮やかな紅い髪を結えてやった。
「可愛い?」
昨日つい口走ったせいか、ロザリアは期待しているような目でそんなことを聞いてくる。
「……可愛い、です」
素直に答えると、あからさまに機嫌が良くなった。
すっかり目も覚めた様子で、シャムリルにべたべたまとわりついてくる。
振りほどくのに四苦八苦しながら手荷物を整えて部屋を出た。
今朝は早くに町を出る、と昨夜のうちに屋敷の主であるアステラには伝えてある。
アステラや使用人たちを起こさないよう、静かに歩きながら屋敷の裏手に向かった。
馬小屋で草を食んでいた馬に手綱を付けて連れ出し、預けていた荷馬車を倉庫から引っ張り出す
一通りの準備を整えて屋敷を出ようとすると、寝巻を着たままのアステラが門の前で待っていた。
朝日はまだ昇っていないのに、金の髪がきらきらと輝いているように見える。
「アステラ様。起こしてしまいましたか?」
「気にするでない。それより忘れものじゃ、ほれ」
言ってシャムリルに手渡してきたのは、飲食店ギルドの「露店販売許可証」だ。
「ああ、申し訳ありません。ギルドの法に触れて取り締まりに遭うところでした」
「うむ。これから市場に向かうのかえ?」
「はい。そこで食材を買ってから、適当な通りで屋台を出すつもりです。ところで、この町の名産はなんでしょうか? 屋台では、この町の名産品を使った料理を出したいのですが」
するとアステラは飲食店ギルドを束ねる長としての顔になり、少し考え始めた。
「さて……。あえて言えば、町の中央を流れるツィオ川で獲れるウナギじゃろうが、残念ながら旬を外しておる。じゃがこの町では基本的にどんな食材でも手に入るからの、好きな物を選んで調理すればよい。わしも時間が空いたら顔を出そう。ぬしたちの屋台、楽しみにしておるぞ」
* * *
ツィオーネの町は、夜明けを告げる「明けの鐘」と同時に活気づき始める。
町の中央を流れるツィオ川沿いに、この町の様々な商人や、よそから来た行商人たちが店を出す市場がある。
その「大市通り」の中央を、シャムリルたちは馬車に乗ったまま流していた。
「まずは小麦粉、ですね。さすがに昨夜アステラ様のお屋敷で食べた白いパンに使われていたような上質な小麦粉は買えませんが。それと発酵させる時間もないので、無発酵パンを造ろうと思っています」
「北の地方から来た、って設定だから、北部でよく収穫されるライ麦とかも混ぜたらいいんじゃないかな?」
「ああ、なるほど。さすがロザリア様、国中を旅していただけありますね」
と二人で会話しつつ、きちんと乾燥して保存されていた小麦粉と、直接手にすくって香りを確かめたライ麦粉を買い求めた。
資金は昨日、ロザリアが薬草を売って得た金が残っている。
「あとは肉か、魚ですが……」
「肉! 肉がいい! シャムリル特製のあれには、魚より肉が合うと思うんだ!」
「そうですね。では鳥か、豚か……」
手に入りやすく、比較的安価なのはそれらの肉だ。
他にも、鹿、猪、羊、山羊、兎――鳥の中にも鶏、鴨、鳩、ガチョウなど、様々な種類の肉が市場には並んでいる。
だがやはり、人々の口になじんでいるのは豚だろう。
森の中に放牧さえしていればよく、一頭から取れる肉の量も多い上、味も悪くない。
と、市の一角で、シャムリルはそれを見つけた。
柵に入れられ、生きたまま売りに出されている豚たちだ。
家畜として育てられ、これから肉にされる彼らに、シャムリルは少なからず同情する。
――以前はシャムリル自身が、この紅い竜に飼われた「家畜」だと思っていたから。
だがそれはそれ、これはこれである。
シャムリルは、客を呼び込んでいる卸売業者に声をかけた。
「すみません。一頭買いしたいのですが。――えっと、できれば雌、もしくは去勢した雄で、太りすぎても、痩せすぎてもいない、できるだけ若くて、元気がいいのをください」
自分で言いながら、これは「竜が好む人間の条件でもあるな」と思えて内心複雑になる。
と、業者が条件に合う豚を探し始めたが、ロザリアの方が先に見つけて声を上げた。
「シャム! あの子がいい! この中では一番おいしそうだよ!」
竜の目にまず狂いはない。シャムリルはその豚を買い求めることにした。
「丸焼きにする?」
「それもいいですが、屋台で豚の丸焼きを出すのはちょっと。――この場所をお借りしてもいいですか? 屠殺したいので」
シャムリルが業者にそんなことを言うと、髭面の男はびっくりしたように手を振った。
「いやいやいや! 嬢ちゃん方にそんなことはさせられませんって! 知り合いの肉屋が弟子を取って、修行のために屠殺や解体なんかを格安で請け負っているんで、紹介しますよ」
嬢ちゃんではないし、シャムリルは山で猪や鹿や兎なんかをさばき慣れているのだが、そういうことならありがたくその肉屋に任せることにした。
ついでに屋台を出すのに良い場所を教えてもらい、そこまで届けてもらうことにする。
交渉を成立させて馬車に乗り、他に必要なもの――ハーブや油などを買い求めた。
「それにしてもシャムリル、いつになく楽しそうだね」
そんなつもりはなかったのだが、ロザリアに指摘されたということはそうなのだろう。
シャムリルは少し気恥ずかしくなりながら、こう答えた。
「もともと、両親の店を継ぐのが夢だったので。田舎の小さな酒場兼料理屋でしたが、それなりに繁盛していたんですよ。……あの穀醤の作り方も、母親から教わったんです」
そっか、とロザリアは優しい声で言いながら、シャムリルに寄りかかってくる。
「じゃあ今日の屋台、絶対に成功させたいね」
そうですね、とシャムリルは頷いた。