天上の国(3)
「少し、先走ってしまったかしら」
天界――天の国の中心にある、純白の宮殿。
神のおはす宮殿にふさわしい偉容、荘厳さ、美しさを持つ建物だ。
地上から帰還した”天使”ミカナは、人間の街がひとつ入ってしまいそうなほど広大な宮殿内を歩きながら、ぽつりとこぼす。
「というか、あの子たち怖すぎるわ……」
思い出しただけでミカナの体がぶるりと震える。
今の彼女の体は、先程まで憑依していたシャムリルのものではなく、本来の姿だ。
――体といっても、そもそも天使は本来の意味での肉体を持たず、その姿は魂の形そのものなのだが。
そんな天使ミカナの魂を震え上がらせているのは、真紅と漆黒、二柱の竜であった。
* * *
『本来なら、まだ貴女方に打ち明ける予定はありませんでした。しかしシャムリルちゃんのエデナはすでに人の域を超えています。それに花街の民や、ここにいらっしゃる皆様といった一部の人々からも、絶大ともいえる信仰を集めています。このままでは、シャムリルちゃんのせいで地上に様々な影響が出てしまう。シャムリルちゃんが人でいられるのは、おそらくもう僅かの時間しかありません』
ミカナが焦っていたのは事実だ。
神として集めることを求められる、人々からの信仰は、聖王と讃えられているライア・レースにはまだ及ばないだろう。
問題は人間の域を遥かに超越した膨大なエデナと、それにより無意識に発動してしまっている神通力、そしてやはり無意識ではあろうが、神の眷属である竜を従える力を持ってしまっていることだ。
『私がライアに託した”聖杯”。――あれは仮初とはいえ、神の眷属たる竜を従える力が込められた物です。聖杯がなければ、ライアはシャンドラを従えることは出来なかったでしょう。
しかしシャムリルちゃんは、聖杯がなくても、すでに竜を従えています』
そう言ってミカナは、真紅と漆黒、二柱の竜に視線を送る。
どちらも竜としてはどこか異常――特殊とも、規格外とも、異例とも言える。
それでも漆黒、ベル・ファフティーナの方は理解もできるし納得もできた。
人間から竜になったとはいえ、彼女の魂は、奇跡的なまでに両方の性質の均衡が取れている。
若干。いやかなり、シャムリルに対する忠誠と信仰が重すぎて、もはや崇拝の域に達しているが。
かつては敬虔な聖職者として神に、そして”聖母”ミカナにも向けられてた信仰はとうに破棄され、今もシャムリルの体を奪っているミカナに対して強い敵意が向けられている。
とういうか、天使である自分の魂が委縮してしまうほどに、ベルのシャムリルに対する忠誠は重い。
そして、問題のもう一柱。
真紅の竜――ロザリア。
そもそも、シャムリルのエデナが人の域を超越してしまった原因は彼女だ。
”不老不死の聖呪”。
かつて聖王ライア・レースにもかけられた呪い。
そもそも魂を磨き、上昇させるには、死さえ免れないような逆境を跳ねのけ、膨大な時間と経験が必要となる。
ある意味ではそういった試練を手助けするためにかけられた”祝福”だった。
――間違っても、三日に一度”食べる”ためにかけるような呪いではない。
ライアでさえ戦乱の世では何度も死にそうな目に遭っていたが、三日に一度死んで生き返るほどの経験はしていない。
シャンドラに必要なエデナを与えることはあれど、それでさえ一度に与えるのは、聖杯に満たされる程度の量の血液でしかなかった。
何度も食われ、何度も食われ、三日に一度の死と生を繰り返し――。
それでも摩耗し壊れることもなく、むしろロザリアに食べられるたびに磨かれ上昇していくシャムリルの魂は、たった数年で神の域に達するまで至ってしまったのだ。
天使の誰も、竜の誰も、おそらくは神でさえ、考えつかない狂気の方法。
それもロザリアは「シャムリルを何度も食べたいから。食べてもシャムリルが死なないように」という理由で呪いをかけたというのだ。
そして今やシャムリルの方もそれを受け入れている。
ミカナには理解できない。
というか、あまりにも歪んだ狂気に恐怖しか感じない。
「……なに?」
『い、いえ』
ロザリアのことを畏怖する目で見ていたことに気付かれる。
これ以上、この竜を刺激したくはない。
だが言わなければ。
――シャムリルのために。
――そして天上世界と地上世界、二つの世界の未来のために。
『シャムリルちゃんの魂は今、”不老不死の聖呪”によって貴女に縛られています。……いえ、理由はそれだけではないのですが』
魂が縛られているのは、”不老不死の聖呪”によるものだけではない。
シャムリルとロザリアは依存し合い、互いに魂を縛り合っているのだ。
今の状態では、シャムリルの魂は神へと昇華することができない。
『どうか、シャムリルちゃんを解放していただけませんか?』
――シャムリルのために。そして二つの世界の未来のために。
ロザリアに飼われる永遠を、終わらせなければならない。
「…………は?」
だがそれを告げた瞬間、ロザリアから形容するのも難しいほどの殺気が溢れだした。
遥か昔に人間として死に、天使として生まれ変わったミカナでさえ、”魂の死”を覚悟するほどの。
その場にいた全員がロザリアの殺気に当てられ、震え上がる。
椅子から転げ落ちる者、腰を抜かして床に座り込む者、中には気を失ってしまう者までいるほどだ。
かろうじて無事だったのはリンとベルのみであったが、その両者でさえ顔を青ざめさせている。
今のロザリアには迂闊に声をかけることも出来ない。
「失せろ、天使」
その瞬間、ミカナの魂は、シャムリルの体から抵抗することもできずに弾き出された。
* * *
「いや、本当怖かった……」
ロザリアの殺気を思い出し、ぶるりと震えるミカナ。
「やはり今の段階では……、焦りすぎたかしら……、でも……」
どこまでも続く、雲の中を歩いているような長く白い廊下を進みながら、独り言をつぶやく。
千年前までは天使で溢れかえっていたこの宮殿も、今は彼女の独り言が反響するほどに静かで、空虚な空間へと成り果てていた。
神の寿命によって天界にもたらされた混乱により、天使たちも道を違えることになってしまった。
再び人間に転生することを選んだもの。
絶望し、堕天して”悪魔”と呼ばれる存在になってしまったもの。
そして少数ではあるが、人間に転生することを望まず、次代の神に仕えることを希望した天使たちもいる。
その道を選んだ少数の天使たちは、次の神が生まれたら再び仕えるために、今は宮殿の一角で深い”魂の眠り”についている。
「でも、これ以上はもう、余裕が……」
ここ数百年ですっかり癖になってしまった独り言をつぶやきながら、誰もいない回廊を抜け、ようやく目的地に辿り着く。
空虚な静寂の中、聳える巨大な扉を自らの手で開ける。
今は衛兵の天使も、小間使いの天使もいないのだ。
そして扉の向こう。
広大な玉座の間に入ると、
「……だめっ、やめて、くすぐったいって……」
『しゃむしゃむ?』
『しーくんしーくん』
『おうさま、おうさま』
「シャムリルちゃん!?」
シャムリルが、何柱もの竜に囲まれてもみくちゃにされていた。
* * *
「ひどい目に遭いました……」
「ご、ごめんね、シャムリルちゃん。この子たちのことは後でちゃんと叱っておくから」
竜たちにもみくちゃにされ、はだけた白いドレスを着直しながらシャムリルが呟く。
彼らに悪気があったわけではなく、実際にシャムリルは傷一つ付けられていない。
ただ興奮した竜たちに囲まれ、鼻先でつつかれたり、匂いを嗅がれたり、舐められたり、翼でこしょこしょ撫でられたり、抱きつかれて押しつぶされそうになったりしただけだ。
大型の犬に囲まれて、もみくちゃにされたようなものである。
『きゅうぅ』
『ごめんね、ごめんね』
『おうさま、きらいにならないで』
四肢を折り、反省を示す”伏せ”の姿勢となって、シャムリルへと頭を垂れる竜たち。
ミカナに怒られても、シャムリルのそばから離れようとしない。
ここにいる竜たちは、魂が未熟な者ばかりだ。
竜の成長に必要なエデナが全くといっていいほど足りないために、いつまでも幼い子犬のようなままなのである。
「よしよし」
シャムリルに頭をなでられ、幼き竜たちはうっとりと幸せそうに蕩けた顔になる。
一方で彼らを撫でているシャムリルの表情はどこか物憂げだ。
そこでようやくミカナは、シャムリルに事情を全く説明していないことに気付いた。
「あ、シャムリルちゃん。いきなり、それも勝手に体を借りちゃってごめんね」
「いえミカナ様、それは構いません。ですがロザリア様への説得はやはり失敗ですか?」
ミカナを見つめ、首を傾げて確認するシャムリル。
ミカナもつられたように首を傾げて、
「え、うん。そうなんだけど……」
「ですよねぇ……。ロザリア様が”呪い”を解いて、僕を手放すとは思えません。ふたつの世界がどうとか、天使や他の竜がどうとか、たぶん『そんなの知らない』って言うと思います」
「ああ、うん。そんな感じだったわね……」
ミカナは納得して頷く。
『シャムリルさえいれば世界なんてどうでもいい』
確かにあの真紅の竜はそう思っていそうだし、もし世界とシャムリルを天秤にかけることがあれば迷わずシャムリルの方を選ぶだろう。
実際にそうなった場合の結果を想像してしまい、ミカナは表情を硬くした。
恐ろしい想像を振り払ったのと同時、ふとシャムリルの発言に引っ掛かりを覚える。
なぜ、シャムリルが「ふたつの世界」や「天使と竜」のことを知っているのだろうか。
「あれ? ……私、シャムリルちゃんにはまだちゃんと説明していないよね?」
「なんとなく、わかっちゃいました」
跪く周りの竜たちの頭を撫でながら、儚い微笑を浮かべるシャムリル。
ここにいる竜たちが説明したわけではないだろう。彼ら、彼女らは皆、知識も語彙もまだ子供のようなもので、複雑な説明をできるとは思えない。
「びっくりですよね。ただの人間だった僕が、こんな体になって、ロザリア様に飼われて、それから色々あっておいらんになって、『聖女様だ、天使様だ』なんてたくさんの人たちから崇められて、あげくに”王様”になれ、なんて」
透明な瞳が、白い部屋の階段の上にある祭壇へと向けられる。
いや、彼はもう、あれが祭壇ではないことも分かっているのだろう。
人類が誕生して以来、人々はあの祭壇に祀られる存在を様々な呼称で崇め奉ってきた。
――神。
――天の国の王。
――天帝。
――そして、竜玉。
ゆえにあの祭壇は、”玉座”と呼ばれる。
「今はまだ、あそこに座る勇気も覚悟もありません。でずが……」
シャムリルはふと立ち上がり、少し迷うような素振りを見せてから、階段に足をかける。
まるで体重を感じさせない動きで、ふわり、ふわりと一歩ずつ階段を昇りはじめた。
その場にいる竜たちも、そしてミカナも、シャムリルの行動を固唾を飲んで見守ることしかできない。
「しー君!」
「しーお兄ちゃん!」
慌ててこの広間に飛び込んできたシャムリルの家族たちも、目に入った光景に言葉を失う。
家族の登場に気付いたシャムリルは、一度振り返って微笑みを見せた後、また階段を昇り――
そしてとうとう、祭壇に祀られる”玉座”へと辿りついた。
神が死してから五百年。
空白の玉座には、今、ひとつの杯が置かれている。
かつてミカナがライアに託したものは、そこにあるものの複製だ。
――神の聖杯。
ふたつの世界のために、死を目前にした神が、自身の残り僅かなエデナを遺し託した物である。
しかし今や、聖杯に遺されたエデナも尽きようとしていた。
シャムリルが聖杯に触れる。
その瞬間、聖杯に、玉座に、広間に、天界全体に、白い柔らかな光が満ちていく。
同時にミカナの体に、かつて神が存在していたころと変わらない力が溢れ、広間にいた竜たちが歓喜の咆哮をあげた。
玉座に置かれたままの聖杯は、エデナに満ち満ちて神々しい光を放っている。
「今はまだ、これだけです」
シャムリルの静かな柔らかい声が、かつての神と同じように、その場にしんと響く。
「僕にはまだ、やらなきゃいけないことがあるので。もう少しだけ、待っていてください」