ラスト
「……ん?」
目を開ける。そこは見慣れた風景が広がっていた。人数分用意された机と椅子。そしてパソコン。そう、ここは……。
「新聞部?」
俺の記憶に間違いがなければ、確かにここは新聞部の部室のはずだ。しかし、何故ここに? というか、俺はなんでこんなところで寝ていたんだ?
頭を押さえながら記憶を掘り起こす。
確か、俺は季雨と一緒に学食で……それで、校内放送で葉月が――
「あ、優斗さん! 目が覚めたんですね! よかった……」
慌てた様子で部室のドアが開き顔を出したのは雪花だった。俺の顔を見るなり泣きそうな表情になる。というか、目尻に涙を浮かべている時点で半分くらい泣いていた。
「あぁ、雪花……。悪いんだが、どうして俺は――」
そこまで言ってから言葉を切る。絶句した。
椅子の背に隠れて見えなかった彼女のスカートから下が見えたからだった。
血で汚れている。指で切った血が飛んだとかそういうことじゃない。ペンキのバケツをひっくり返したように真っ赤に染まっていた。
「たはは……。やっぱ驚かれますよね」
そんな俺を見て雪花は恥ずかしそうに苦笑する。
「本当は上下着替えたかったんですが、保健室にあった替え上しかないみたいで……」
「いや、そうじゃなくて――」
どうして、そんなに血で染まっているのか。それを聞こうとした途端、急な頭痛に襲われる。それを思い出してはいけないと忠告しているかのようだ。しかし、雪花のスカートに掛かった血。そして、わずかに感じる血の臭い。それが、無理矢理に俺の記憶を叩き起こす。
最初に浮かんだビジョン。それは、季雨が首を切ったシーン。
鮮血の雨の中、彼女も同じように赤い液体を噴き出し自らが作った血の池に倒れる。その様を、俺は、間近で……。
「ゆ、ゆうとさん!」
気が付けば、俺は涙を流して吼えていた。何故、自分は忘れていたのか。何故、記憶を閉ざしてしまったのか。そして、何故、俺は季雨を守れなかったのか。
あの異常事態の時に早く逃げておくべきだった。葉月の声が聞こえた時点で季雨を連れて学校から逃げるべきだったのだ。
今になっては遅い。その後悔が重く圧し掛かる。
もう、その後悔を償う事は出来ない。だって、その償うべき対象は、もうこの世にいないのだから。
泣いた。
泣き叫んだ。
もう会えない彼女に届くように。
俺の身体に残った後悔と悲しみを全て流し出すように。
泣き続けた。
もう涙も枯れ果てる程に。
その先に残っていたのは……。
圧倒的な悪意と、殺意だけだった。
「…………」
「優斗さん…」
雪花が思わず一歩を退く。それだけで今、俺が彼女を怖がらせている事が窺える。しかし、そんなこと、どうだっていい。
もう、どうでもいい。
季雨がいない世界なんて。彼女が笑っていない世界なんて。彼女が隣にいない世界なんて。
存在してはいけない。
存在を許してはいけない。
俺も後を追う。季雨がそこで待ってくれている気がするからだ。
しかし、その前に俺にはやるべき事がある。
こんな現実を突き付けた、絶望と言うナイフで刺し殺した葉月を、今度は俺が刺し殺さねばならない。
精神にも、もちろん現実にも。
幸いなことにここには腐る程のナイフが落ちてる。
そうだ、季雨のナイフで、あいつを殺してやろう。俺だけの復讐じゃない。季雨にも復讐のチャンスを与えねば。なんせ、あいつは何も知らないでこの世を去ったのだ。それを知る機会も与えられず、彼女はただ葉月の人形として消えて行ったのだ。
不憫じゃないか、そんなの。
だから、これでおあいこだ。
それくらいの覚悟はあいつにだってあるはずだ。
なら、早速拾いに行こう。あいつの死体をもう一度見ることに抵抗はあるが、それも彼女の為だ。
立ちくらみが酷い。真っすぐ歩けないかもしれない。それでも、俺は無理矢理立ちあがる。この世界の俺に優しくする必要なんてない。
全ては季雨の為。彼女の無念を晴らす為だ。そこまで達成すれば、俺もあいつの元へ逝ける。
ふらふらとした足取りで部室のドアへ向かう。
しかし、そのドアの向こうに誰かが立ち塞がった。雪花だ。雪花が俺の顔を凝視しながら、進路を塞いでいる。
「どけ……」
俺の邪魔をするな。俺は今から大事な予定があるんだ。
「どきません」
腕を大きく広げて、その場に留まる。本当に、邪魔だった。しかし、相手は小さい女だ。どかすことなんて造作もない。
肩を掴み、そのまま力任せになぎ倒す。抵抗しようと足を踏ん張っていた雪花だが、それでも虚しく地面に伏してしまった。
「あぅっ!」
転び方が悪かったのか、雪花は足首を押さえる。怪我でもしてしまったのだろうか。
「…………」
しかし、そんなことは関係ない。俺にとって大事なのは季雨の復讐を果たす事。それだけ、それだけなのだ。
だから、例え雪花が俺を見て涙を流していたとしても、俺の名前を呼び続けていたとしても、ここは無視して先に行くべきなのだ。
なのに、足が動かない。
「優斗さん……。どうして、先に行かないんですか? 私の事を無視しないんですか?」
雪花の言う通りだ。どうして、このまま部室を出て行かない。何故、この身体は動かない。俺は、季雨の為に葉月を殺しに行かねばならないのに。
「止めて欲しいんですか? 貴方がこれからする行為を」
「……俺は」
「とりあえず、行く気がないなら私の肩を持って下さい。足を挫いてしまったみたいで立てないんです」
そのまま行く事も出来たはずだ。なのに、俺の身体は自然と雪花の方へと向いていた。彼女の身体を持とうとしゃがみ込む。そんな俺の顔を雪花は思い切り殴り飛ばした。
「……ぐっ!」
思わず声が出る。真正面からストレートだ。痛くない訳がない。鼻の奥からドロリとした嫌な感触がした。
「どうして、私が殴ったのかくらい理解出来ますよね?」
何も言えない。まるで、母親に怒られているような気分だった。怒られている事はわかるのに何が悪いのかわからない、そんな感覚。
そんな俺の思いを見透かしているかのように雪花は口を開く。
「貴方が、死のうとしていたからです」
「…………」
これこそ、無言の肯定だった。
「私、ちゃんと言いましたよ? 貴方を守るって。それで、貴方は私を守ってくれるんですよね? そう約束したこと、まさか忘れてなんかいませんよね?」
頷く。
もちろん覚えている。約束したこと。忘れるわけがない。俺は雪花のおかげで一度、命を救われているのだから。
「なら、死なないでください。生きて、私を守ってください」
「…………」
それは、とても酷な願いだった。
季雨のいない。この世で一番大切だと思っていた彼女のいない世界を一人で生きろと言っているのと同じなのだから。喪失感で埋められたこの身体のまま、俺に一生を過ごせと言う雪花。しかし、彼女は目を逸らさない。じっと、俺の目を見続け、答えを待つ。
その時に気付いた。
その目が赤く腫れていたことに。
昨日とは比較にならない。もうずっと、泣き続けて泣き続けて涙も枯れて、それでも足らない程の悲しみに潰された。その証。
「そうだよな……」
辛いのは俺だけじゃない。こいつだって友達がいたはずだ。新聞部の部員だっていた。でも、そいつらは皆……。
こいつのことだ。きっと、誰か生き残りがいないか見に行ったに違いない。そうじゃなきゃ、食堂で俺を見つけてここまで運んでくる事なんて出来はしないのだから。
多分、俺以上に雪花は死体を見ている。死の惨状を目の当たりにしている。季雨と同じ、仲の良かった人間が何の疑問も抱かずに死んでいく様を。
なのに、こいつは今、自分のことよりも俺を優先してくれている。この現状に困惑し、自分のことだけで精一杯のはずなのに、だ。
「……悪かった」
そう言って、雪花の頭を撫でる。自然と出た行動だった。
雪花は震えていた。きっと、俺が目を覚ました時から彼女はずっとそうだったのだろう。
その小さな身体に恐怖を押しこめて、それでも俺の為に怒ってくれた。なんて、強い奴なのだろうか。
「わかってくれたなら、いいんです。でも、もう一度だけ約束してください。ちゃんと私の事を守ってくれるって」
「あぁ、約束する」
正直な思い。この小さな強い少女だけでも守ってやると、心の中で誓った。きっと、季雨も俺が死ぬよりそっちの方が喜んでくれると思ったから。
……季雨、そっちに行くのはもう少しだけ、時間がかかりそうだよ。
「もう、この学校で生き残っている者はほとんどいないはずです」
俺の隣で雪花はそう言った。
今、俺達は新聞部から離れ保健室へと向かっている。彼女の足に処置を施す為だ。雪花は大分楽になったと言っていたが、それでも歩くのは辛そうに見えた。第一、この怪我は俺のせいだ。それくらいしないと自分で自分が許せなかった。
そこに着くまでの間、雪花が独自に集めた情報を聞かせて貰うことにした。
「あのお昼の放送。あれが催眠のトリガーになっていたのは言うまでもありません。きっと、かなり最初の頃から準備していたのでしょう。あれだけの事をするのは相当な時間が必要なはずです。しかし……」
「本当に、あれだけの事が出来るか、ってことか……」
「えぇ」
隣で雪花が頷く。
以前、雪花が言っていた。もし、長時間の間、好き勝手に人を操れるのだとしたら、この世界はすでに支配されている。だから、こんなことはあり得ないと。
しかし、そのあり得ない事を葉月は簡単に成し遂げ、そして今、これだけの大惨事を引き起こした。
もう、あり得ないだの言っている場合ではない。これは、現実なのだ。
「葉月の術中に掛かっているのが実は俺達で、これが幻覚だったらいいのにな」
「全くですね」
俺達が見る保健室までに続く廊下もやはり血の海だった。何人もの生徒の亡骸を渡り、なんとか保健室の扉を開く。
「ここは、綺麗なんだな」
「幸運にもあの時間にここを訪れた人はいなかったみたいです」
保健室には俺達の足跡、そしてさっき制服を取りに来たであろう雪花の足跡くらいしか血の跡はついていなかった。
とりあえず、雪花をベッドに座らせて上履きと靴下を脱がす。
「結構腫れてるな……。本当にすまん、俺のせいで」
「いえ、もういいです。私だって同じでしたから」
「……そうか」
そのことに関しては深く聞かないことにした。大体の事は想像がついてしまうから。
しかし、雪花は構わずに話を続ける。
「あの放送が聞こえた時、嫌な予感がして自分のクラスに戻ったんです。急いで戻って教室のドアを開けた時、そこで立っていたのは血を流しながら微笑んでる友達の姿でした……」
「……っ!」
気が付くと、俺は雪花のことを抱きしめていた。その話をし始めた途端、震え始めたからだ。それだけで、彼女にとってどれだけ辛い事だったのかが理解出来た。
しかし、雪花は続ける。
「本当に絶望でした。この学校で唯一と言っていいほどの友達でしたから。初めてだったんです。私を怖がらないで自然に接してくれた人って。ほら、私って影で結構な噂になってたでしょ?」
「ああ……」
ここで変に取り繕っても仕方が無い。彼女は情報収集にかけてはプロに近い。そんな彼女が自分の噂に気付いていないわけがない。
頷くと、彼女は少し恥ずかしそうに俯いた。
「実は、ここに来る前なんですけどね。私、いじめられてたんですよ。何で私がターゲットになったとかはわかりません。ある日、突然に教科書が無くなったり上履きを隠されたり、黒板に落書きされたり。そんなことが毎日続きました」
「…………」
「本当にね、辛かったんですよ。いくらやめてと言っても聞いてくれない。それどころか面白がって酷くなっていくばかりでした。なんとか止めさせる、それだけを考えて考えて行きついた結果が――」
「脅迫か」
「はい」
相手の知られたくない情報を握ってやめさせるように脅す。いじめなんてのは遊びの延長線上で起きるものだ。その対象がそんなデメリットを持っていれば、それは止めざるを得ない。他人に打ち明けたくないからこその秘密なのだから。
「おかげで、いじめは無くなりました。それどころか、私と遊んでくれる人だって増えました。お願いだってちゃんと聞いてくれる。でも、それは皆が怖がって一線置いていただけなんですよね。それがわかった時、なんか凄く悲しくなってしまって……。でも、気付くのが遅すぎたんです。その頃には、人の秘密を握ることが当たり前になっていました。止められなかったんです。人の弱みを握っていないと対等に渡り合えないと思い込んでいたから……」
皆が恐れて怖がる少女。この校内でもそれは猛威を揮った。しかし、それはただ人を恐れていただけだ。最大の権力を持った彼女こそが最弱だった。その現実を彼女は新たな秘密で埋め尽くした。また、同じ目に遭うのが怖かったから。
「これはこの学校に入っても変わりませんでした。いえ、もっと酷くなったって言うべきでしょうか。私がこの学校に入学して一番最初にした事は友達作りなんかじゃなくてクラスの人の秘密を握ることだったんです。知らない人しかいないこのクラスに私は恐怖しか感じることが出来ませんでした。彼らに悪意がないと思っていても、きっといつかは悪意に満ちる。絶対そうなるに決まってるって、決めつけたんです。だから、それまでに準備しなくちゃならないって」
そして、結果的にそれは上手くいった。彼女の思惑通り、その噂はクラスのみならず校内全域にまで広がった。そして、彼女は新聞部を奪い、自分だけの王国を作り上げた。しかし、そこに友情なんて文字はない。雪花を守る為だけの独裁的な国として存在していた。
「そりゃ、友達なんか出来るわけないですよね。こっちから壁作ってるんですもん」
たはは、と雪花は笑う。とても寂しそうに。
「でも。でもですね。そんな私にも友達が出来たんです。その子、悪意ってのを知らないような子で、私がどれだけ心を閉ざしても一緒に帰ろうって行ってくれるんです。本当に、変な子で……っ!」
そこで限界が来てしまったのだろう彼女の目から堰を切ったように涙が流れ落ちる。
「わた、しっ……ほん、とうに、あの子が、だいすきで! 大好きだった…のにっ! 目の前で、しんじゃっ…って……」
まともに話す事さえままならない。しかし、それでも、彼女は続ける。自分にとって一番の友人を、一人でも多く知って貰うために。記憶さえあれば、彼女はそこに存在していたことになる。存在した証がある。本当の意味で人が死ぬというのは、きっと誰からも忘れられてしまうことなのだろう。
だからこそ、雪花は話すのだ。唯一出来た、本当の友人の為に。
泣きながら話す雪花を静かに抱きしめ、満足するまで聞いてあげることにした。
心の中でもう一度、季雨の事を思い出しながら……。
「……すいません。もう大丈夫です」
あれから三十分後、ようやく落ち着きを取り戻した雪花が静かに俺の側から離れた。結局、途中から雪花は喋れなくなる程、涙を流し続けていた。
くるり、と振り返り腰を曲げる。
「見苦しいところを見せてしまって……本当にすいません」
「いや、そんなことないよ。当たり前の事だ」
俺だって同じことになった。人間として当たり前の感情だ。むしろ、そんな簡単に人の死を割り切る事が出来る人間の方がどうかしている。
「本当はですね。あの時、死んでしまおうと思ったんです。私もあの子と同じように楽になってしまおうかなって……。でも、その時に叫び声が聞こえて来たんです」
「叫び声?」
「……貴方のことですよ。優斗さん。貴方の声が聞こえたんです。その時に思い出したんです。約束のこと。そしたら、死ねないじゃないですか。私と同じ目に遭ってる貴方を助けてあげなきゃって思っちゃうじゃないですか」
「……ありがとな」
「はいっ!」
本当に強い少女だと思う。こうして笑顔でいられるのだから。
そんな笑顔を見せられてしまったら、俺だってそうならないと駄目に決まってるじゃないか。
「それじゃ、行ってくる。雪花はここで待っててくれ」
「……もう、大丈夫ですか?」
「ああ、覚悟は出来てる」
きっと、俺は葉月を殺す。それは間違いない、もう、揺るがない。
助ける気もないし、許すつもりもない。どうして、あんなことをしたのかも、もう関係ない。あいつは確かに殺した。その結果だけで俺はあいつを殺せる。
俺が覚悟を決めたのは、この世界に残ること。あいつを殺して自分だけ生きるという覚悟だ。
「優斗さん」
ドアに手を掛ける俺の背中から雪花が呼び掛ける。
「私は、許します。今から貴方のする事を許します。もし、他の誰かが責めたとしても私が許します。だから、お願いです。一人で背負わないで下さい」
「あぁ」
多分、雪花はわかってる。これから俺がする事を。葉月を殺す事を。本当に、俺は良い友人を持ったと思う。
「じゃ、行って来る」
「はい。いってらっしゃい」
そして、俺は今度こそ保健室の扉を開き外へ出た。
これで、終わりにするために。
気が付けば、時間は五時を指していた。本当ならもう放課後で、今頃外では運動部が汗を流して練習をしていてもおかしくない時間だ。日が傾き夕陽が校内に差し込む。しかし、それを見ても何も思わない。綺麗だとも、美しいとも。
当たり前だ。その光が差し込む先にあるのは、真っ赤な血液と、それと同じ色に染まった学生の死体ばかりなのだから。
それを見ても段々何とも思わなくなってきている自分が恐ろしい。果たしてこれは慣れているのか、それとも心が壊れているのか。
「間違いなく後者なんだろうな……」
きっと、この現状に慣れるということ自体が壊れているということなんだろう。いや、葉月を殺すと言えてしまう辺り最初から壊れていたのだろうか。
そんなことを思いながら俺は歩みを進める。
なんとなく、葉月の居場所はわかっていた。それが何故かはわからない。だが、本能がそう告げていたのだ。まちがいなく奴はそこにいると。
何十もの亡骸を乗り越えて、ようやく俺はその場所へ辿り着いた。
「ここか……」
そこは、慣れ親しんだ自分のクラスだった。約一年の間、俺はここで過ごした。思い出はたくさんある。良い思い出も嫌な思い出も。授業の事。友人と話した事。そして、なにより、季雨と共に過ごした時間を。
思い出す。目を閉じればすぐにでも瞼の裏に浮かび上がるくらいに大事な思い出。
しかし――
「…………」
扉を開けた瞬間。そんな思い出はあとかたもなく崩れ去った。俺の、俺達の積み上げて来た思い出は全て、赤に塗り潰されていた。全て。全て。
その張本人が今、俺の目の前にいる。
いつもと同じように、葉月はこちらに目を合わせることなく、窓の方を向いている。何を見ているのかはわからない。
それに、そんなこと知りたくもない。
何故なら――
「ふふ、ふふふ……」
さっきから耳触りな声が、聞こえて来るからだ。
「待ちくたびれたのよ? もっと早く来るものと思っていたから」
そう言ってこちらを向く。三日月のように開いた口からは今もまだ笑い声が漏れ出している。あれだけの事をしておいて、こいつに反省の色を感じる事が出来ない。いや、後悔すらしていないのだろう。
「……って、あら? もう一人の子は来てないのかしら?」
「足を怪我させてな。置いて来たんだ」
「あらあら、そうなの? それは残念。せっかく一緒に逝かせてあげようと思っていたのに。まぁ、でもいっか。足を怪我してるのなら追いかけるのもきっと楽よね」
「お前……」
「もう、そんな怖い顔をして……。でも、お互い様でしょう? 貴方だって私のこと殺そうと思ってるんだから」
「……っ」
驚く俺の反応を見て葉月は愉快そうに笑みを浮かべる。
「騙すつもりならもう少し殺意を隠した方が良かったんじゃないの?」
「……そうだな」
本来なら、気付かれないように近づいて刺すつもりだったが、ばれてしまったのなら仕方が無い。
ポケットからナイフを取り出し、切っ先を葉月に向ける。これは、季雨が使っていたナイフだ。どうせ殺すならともう一度食堂に戻って持って来たのだった。
「ふふ、そう殺すの? なら、ほらどうぞ? おやりなさいな」
そう言って彼女は両手を広げる。その手には何もない。自身の武器になるであろうナイフすら握られていないのだ。
……絶対に何かがある。
そう確信していた。
あの顔には恐怖なんていうマイナスの感情は一切窺がえない。完全に勝利を確信している目だ。
「ほら、どうしたの? 早く刺しに来なさいよ」
「……」
誘っているのは明白だ。ここから葉月までの直線状に必ず何かがある。それを確かめてからじゃないと、動けない。
無駄に時間だけが流れて行く。その間も葉月の挑発は続く。
「ねぇ、いつまでそこに立っているの? 早く来ないと日が暮れてしまうわ。ねぇ、私も早く帰りたいのよ」
「……」
「はぁ、動かないつもりなら話し相手くらいなってくれてもいいじゃない。それも許されないなら、こっちから動いちゃうわよ?」
「……っ!」
思わず身構える。来るなら来ればいい。人を必殺する為の場所なんてたかが知れている。
一人だったら問題かもしれないが、こっちには雪花がいる。その雪花にはすでに警察に通報するようにお願いをしていた。
これだけの状態だ。もう、何をしようとも警察の介入は免れないだろう。そう思ってのことだった。ここで、もし俺が彼女を殺したとしてもだ。それくらいの覚悟は出来ていた。
本当はもっと早くにやっておくべきだったのかもしれない。
そんな後悔が頭を巡るが、それでも季雨が帰って来ることは二度とない。俺は、今やるべき事をやる。
「来いよ。葉月ッ!」
「あはっ! 威勢が良いのは口だけじゃない。それに、やるのは私じゃないわよ」
「……え?」
その時、後ろから急に大きな気配を感じた。それに気付いた時にはもう遅く、俺はその気配に後ろから押さえ付けられていた。
「……くっ!」
無理に首を後ろに回して俺を縛る何かを確認する。
「……生徒? なんで?」
そこにいたのはさっきまで血の海に倒れていたはずの生徒達だった。入り口すぐ近くに倒れて、もう息が無いもかと思っていたが生きていたのか……。
「ふふ、こんなこともあろうかと数人生かしておいたのよ。やっぱり準備はしっかりしておくものよね」
そう言って指を鳴らす。
パチン、と言う音と共に立ち上がる生徒達。顔にべっとり血が付いていても気にも留めていない。それどころか、きっとこの現状すら把握出来ていないのだろう。 ただ、葉月の命令を聞くだけの人形に成り下がっていた。
「この部屋自体が罠だったのかっ!」
「殺しに来ているってわかっている相手程、戦いやすい相手なんかいないわよね?」
そう嘲るように笑いながら、葉月が一歩近づいて来る。
まずい。このままじゃ何も出来ずに殺される。約束も何も果たせないまま、消えて行く!
「……離せっ! くそっ!」
振りほどこうともがくが俺を押さえこんでる奴らの力はその何倍も言っていた。以前、雪花に見せて貰ったことのある催眠術の動画。あれに筋肉を硬くするというものがあった。きっと、それの応用だ。ガチガチに固められた彼らの腕はもう鎖に近い。
「くそっ! くそっ!」
「さっきまであんなに冷静だったのにねぇ。ふふ、でも仕方ないか。死の瀬戸際まで来てるんだもんね?」
葉月の笑い声が少しずつ大きくなってくる。それだけ俺に死が迫っているということ。まるでエスカレーターで十三階段を上っている気分だ。求めていないのにあちらから歩いてやってくる。地獄のようだ。
「はい、到着♪」
そして、死刑台は目の前に現れた。
いつ握っていたのか、その手にはナイフが握られている。あの日、俺の喉を刺そうとしたナイフだ。
「……くっ」
身体は今だ拘束し続けている。もう、逃げる術はない。
「あら、諦めたの?」
「そうだな。俺はここで死ぬかもしれない。だけど、あいつは殺させない。もう、警察を呼んでるはずだからな」
「……へぇ」
余裕の笑みを浮かべていた葉月から表情が消える。覚悟はしていたが、やはり寒気がする。生きようとする本能が今程、邪魔だと感じた事はない。何とも言えない恐怖が身体を覆う。殺気を含む彼女の眼差し。それは、以前のものとは比べ物にならなかった。
「それじゃ、早く殺して彼女を止めないとね。そんなことされても、迷惑だし」
そう言ってナイフを振り上げる。もう、躊躇いは感じなかった。
そして、あの日のように誰かが入って来るような助けはない。
支配された学園に、助けなんか来ない。
もう、さよならか。
ごめん、雪花。
ごめん、季雨……。
反射的に目を閉じる。その一秒もしない後に俺の身体からは鮮血と鋭い痛みが――起きなかった。
「……ぅぐ…」
「……?」
小さなうめき声に目を開く。まず見えたのはナイフの切っ先。ほんの一センチ先にそれはあった。しかし、それ以上届く事はなかった。何故なら、それを動かすはずである葉月に異常が起きていたから。
「……ぁぐ…うぁ…っ…」
頭を抱え、うめき声を上げる葉月。まるで何かを拒否しているかのようにブンブンと頭を横に揺らす。
「……一体、なんだって――」
その瞬間だった。
「……な、なんだこ、れ…うぅっ……」
急激な頭痛が俺を襲った。脳の中をぐるぐるに混ぜられている感覚。気持ち悪かった。自分が自分じゃなくなる感覚。身体のどこにも力が入らない。思考することすら辛い。目の前の景色すらおぼろげに見える。段々と意識が離れていく。
離れて……離れて……。
「…ぐぁあああああああっっ!!」
しかし、その意識は痛みによって強制的に引き戻される。
地獄だった。
これと同じ痛みを葉月は受けているのだろうか。隅に追いやられたぎりぎりの意識を集中させて教室の状況を確かめる。
葉月と俺以外の生徒はそのまま突っ立っている。この異常な痛みを受けているのは俺達だけのようだ。それにしても、何故急にこんな――
「ぐっあぁぁぁあぁああああああっっ!!」
そこで思考は停止した。断続的な痛みはさらに酷くなり考える気力も意志もない。
ただただ、増していく痛みに少しずつ意識が削られていく。そして引っ張られる。その繰り返し。だが、その引っ張る力も少しずつ弱くなっていく。これ以上は限界だと身体が判断したのだろう。痛みをシャットダウンし、段々と痛覚が薄くなっていく。
なるほど、これが意識を失うということなのか。
食堂で感じたはずの経験なのに、まるで初めて受けたような感覚だった。
そして、そのまま、俺の意識は丸ごと黒い何かに刈り取られていった。
「……」
目が覚める。
時計を確認するとまだ十分も経っていなかった。まぁ、大体そんなもんだろう。
立ち上がろうと身体に力を入れる。
「……?」
背中に違和感を感じる。立つことが出来ない。首だけ後ろに向けると虚ろな生徒が俺の身体を掴んでいた。
「どけ」
その一言で生徒達は腕を離す。今度こそ立ち上がると俺は生徒達に命令する。
「死ね」
簡単だ。この一言だけで、こいつらは自分の首にナイフを刺して絶命する。赤い教室をさらに赤く染め上げる。
「ん……」
その鮮血を顔から浴びた葉月が小さく唸ってから薄眼を開いた。その目にはさっきのような狂気は感じられない。どこにでもいる、普通の女の子の眼差し。しかし、それも数秒。その目は瞬く間に恐怖に縛られ大きく目を見開く。
「きゃああああああぁぁぁっっ!!」
「何を驚いてるんだ? これはお前がやったことだろう?」
「ち、ちが……私は…」
慌てて否定をする葉月だが、その記憶の中にはさっきまでの映像が鮮明に映し出されているはずだ。当たり前だ。
俺が、そうしたのだから。
「いや、本当に楽しかったわ。こんな新鮮な気持ちで遊んだのは久しぶりでさぁ」
「……ひっ!」
俺が一歩前に動くとあちらが一歩分後ろに下がる。腰を抜かしているのか葉月は立ち上がらない。これなら逃げ出す事もないだろう。安心して最後を楽しめる。
「いっつもいっつも、やる側だったからさ。たまには、やられる側ってのも経験したいじゃん?」
誰が聞いたわけでもないのに口が勝手に動く。それくらいテンションが高かった。なんせ、初めての体験だ。今まで何人もの人間を操っては来たが、まさか自分の記憶を消して相手側に回るなんて初めての試みだった。さすがにここまで大事になるとは思わなかったが、これをやったのは全て俺じゃなく葉月だ。後始末をしたらここから消えればいい。
「…ん? どうしたんだ? そんなに怯えちゃってさ。さっきの威勢はどこいったのよ」
「ど、どうして……。どうして…」
「……? 何がどうして? ちゃんとわかるように言ってくれないと困るよ」
だらだらと涙を流すその姿は確かに良い物だが、要領を得ないとイライラさせられる。
「なんで……私達なの?」
「ん? あぁ、君を選んだ理由ね。別に、誰でもよかったんだけどさ。どうせなら一番立ってる人にしようかなって。そっちの方が華やかさがあるし、裏でコソコソしやすいんだよね。思いのほか時間掛かっちゃっててさ」
実際、これまでの準備は大変だった。全員に、葉月は人との間に壁を作る人間だと思い込ませるように操る。全員ってのはクラスだけじゃない。校内全て、そして葉月を知る学校以外の人間にだ。これが驚く程、時間が掛った。一人一人を操るのは簡単なんだが、それでも矛盾を生まないようにするってのは普段以上に神経を使う。ついでに、簡単に催眠状態に持っていけるように全員に暗示を与えておく。それは別になんでもいい。単純なものでも、複雑なものでも。それを葉月に覚えさせ、葉月自身に操らせた。後は、自分自身に操りを掛けて忘却させればいい。
そうすれば、葉月が好き勝手に動いて問題を起こしてくれる。
「まぁ、大変な分、楽しめたって感じかな。こんなに凄い事してくれたんだから、本当に君には感謝してるんだよ? でも、まぁ――」
「消えて貰わなくちゃならないんだけどね」
葉月の身体が震えるのを感じた。それを見るだけでぞくぞくする。最高の気分だ。こいつがこんな表情をしてくれただけでも、俺は大満足だった。
「……ひっ!」
俺から距離を取ろうとするが、すでに背中は壁にくっついている。逃げ場はない。
「そんなに俺のことが怖い? 傷付くなぁ」
「こ、こないで……っ!」
俺が自分の手で葉月を殺すと、そう思っているのだろうか? 馬鹿な奴だ。それじゃ、今まで自分で手を下さなかった意味がない。操りに始まり操りに終わる。それがこの戯れにはふさわしい。
「そこに落ちてるナイフを拾え」
「え?」
一瞬きょとんした顔を浮かべる。
「……や、やだ!」
しかし、すぐに俺が何をしようとしているのか悟ったのだろう。右腕を強く握りしめて首を横に振った。
その抵抗も空しく右腕は側に落ちていたナイフを拾い上げる。
「そのまま、自分の首元にナイフを向けるんだ」
「やめて! やめてぇ!」
「何を怯えてるんだ? これは、お前もやっていたことだろう?」
「違うっ! これはっ! あぁ! やだ、腕が…腕がぁっ!」
半狂乱になりながら必死に自分の腕を止めようとする。だが、無理だ。彼女の意思は無意識よりも弱い。もう、葉月の身体は俺の物。俺の命令一つで動く操り人形と化している。ここで意思まで奪ってやれば、それこそさっきの生徒達の状態にまで落ちてしまうのだが、あえてそれはやらない。
彼女には最大の絶望を。
自分の意思と関係なく、しかし自分に殺される。そんなシナリオを望んでいた。
「あ…あぅ……」
そして、それはもう目の前で達成されようとしている。
あと、一言でも加えてやれば葉月は自ら命を落とすだろう。
「さて、死ぬ前になにか言うことはあるかな?」
きっと自分の命を泣き叫びながら懇願するのだろう。助けてと、許してと。そして、それを笑いながら、貶しながら。俺は彼女の願いを裏切ってその命の花を散らしてやるのだ。
そう考えていた。だが――
「……たす…けて…お願い、私はもう…いいから…」
「……?」
葉月が口にした言葉に疑問を感じた。確かに懇願している。助けて欲しいと口にした。しかし、それは自分に向けてではない。他の誰かに向けてへの言葉だ。
一体何の事を言っているのだろう。この場には俺と葉月以外にもう人はいない。恐怖で気でも狂ったのだろうか。それとも何か幻覚でも見えてしまっているのか。そういえば、死ぬ前に人は走馬灯というものを見るらしい。ということは、何か昔のトラウマでも引っ張って来てしまったのだろうか。
……なんにしても気味が悪い。
「……お願い、します……助けてください…」
涙をボロボロと流しながら懇願する。
「何の事かさっぱりだけど、まぁいいや。わかった。約束するよ」
「よかった……」
「…………なんでだ?」
何故、こいつは今から死ぬというのに、そんな幸せそうな顔を浮かべているのだろうか。気に入らない。せっかくいい気分で全てが終わる予定だったのに。本当に気に入らない。
「お前の目前には死が迫っているんだぞ? それなのに、なんでそんな笑ってるんだ?」
「……本当は怖いよ。凄く怖い。死にたくなんかないもん。でも、私のせいで大事な人が死ぬのはもっと怖いことなの。だから、いい。幸せじゃないけど、絶望だけど、その中でも私は光を見つける事が出来たから。満足」
確かにその目は恐怖そのものだった。しかし、それでもこいつは笑っている。気が触れたような笑いではない。暖かな、優しい笑み。その表情を俺に向けて来るのだ。
違う。俺が望んでいるのはそんな顔じゃない。涙と恐怖で顔をぐしゃぐしゃにした、絶望に満ちた表情のはずなのに。
「わかった。もういい」
「自分の首にナイフを刺せ」
刃が肉に食い込む音。大量の血が零れる音。もう、聞きなれたソレをBGMに、葉月はついにこの世から姿を消した。
「…………」
日が落ちかけている。夕闇はさらに濃さを増し、これから闇が世界を覆う。
もう教室には何の声も聞こえない。生きていたはずの人間は全て死に、俺だけがここに残っていた。
祭りが終わってしまったかのように、妙な寂しさだけがそこには漂っていた。
「……葉月」
俺の目の前で死んでいる彼女に目をやる。
全て自分の思うがままに進んできたシナリオ。しかし、最後の最後でこいつに全て台無しにされた。似たような事はこれからも出来るが同じ事はもう二度と出来ない。
「くそがっ!」
壁によっかかるようにして倒れている葉月の身体を蹴る。力の無い身体はそのまま床に倒れていく……と、その服から何かが落ちた。
「なんだこれ?」
血のついたソレを拾い上げる。どうやら、それは生徒手帳のようだった。
「……」
別にそれがなんなのか。普段の俺ならきっとそんな風に思って捨ててしまっていただろう。だが、何故なのか。その時、俺はなんとなくそれの中身を開いてしまった。そう、開いてしまったのだ。
「おい、なんだこれ……」
手帳の裏側。そこには一枚のプリクラが貼られていた。そこにはもちろん葉月の姿。しかし、そこにはもう一人の顔が写っていた。
そう、竹原優斗の姿が……。
「俺はこんなの……」
知らない。
こんな物を取った記憶がない。それどころか、こいつと仲良くしていた覚えもない。なのに、このプリクラに写る二人はとても幸せな笑みを浮かべていた。これ以上の幸せはないくらいの満面の笑みを……。
それは、まるで二人が恋人同士にでもなったかのような――
「あー、そんなとこにあったんだ」
「え?」
ふいに背後から聞き慣れた声が聞こえて来た。
なんだ? なんで、さっきからあり得ない事ばかりが起こる? おかしい、このプリクラもそうだが、俺の後ろから聞こえて来る声だって十分にあり得ない。
だって、その声の主は……。
「やっほー、優くん。お疲れ様でしたー♪」
もうすでに、死んだはずの人物、だったから。
「季雨……? なんで、ここに」
「あれ? まだ戻ってないの? んー、それ見られたからショックで記憶が戻るかと思ってたのになぁ……。ま、いいや。じゃ、今戻してあげるね。はい!」
パン! と両手を叩く。
その音を合図に俺は……。
俺は……。
「思い、出した……」
違う。さっきまでの俺は俺じゃない。人を操る力があることも、葉月を操って遊んでいたのも、そして、季雨という彼女がいたことも。
全部、全部偽物。造られた記憶。今、目の前にいるこの幼馴染によって造られた偽物の思い出。
じゃあ、本当は?
本当の俺の記憶は?
それは――
「真黒……」
その名を口にした瞬間、俺の中にある本当の記憶が浮かび上がる。
真黒はこの学校で出来た初めての彼女だった。いつも一人でいる彼女が気になっていた。それが、昔の季雨と重なった。自分から壁を作り、何からも塞ぎこんでいた彼女に。もし、もしもあの時の季雨のように悩んでいるのであれば力になってやりたい。そう思って俺は自分から声を掛けたのだった。
そのうち、悩みを聞いて協力していく内に二人の中に恋が芽生えた。先に告白したのは真黒の方からだった。俺も同じくらい彼女を想っていたし、その場ですぐに俺も同じ想いであることを告げた。
その日から毎日が天国のようだった。一緒にアイスを食べ、そこで彼女が無類の甘党だと知り、その中でもチョコが一番好きな事も知った。デートだって何回もした。色んなところに出掛け、お揃いのアクセサリーを買ったりゲーセンでプリクラを撮ったり。
毎日が幸せだった。
本当に、幸せだったのだ。
もう、息がない冷たくなった身体に駆け寄る。俺が殺した、俺の本当の彼女に。
そうだ、それが全て。俺は、俺達は、こいつに嵌められた。
それなのに、その元凶である季雨は不思議そうに首を傾げているだけだった。
「……? なんでその女を抱きかかえるの? そいつはもう死んじゃったんだよ? ねぇ、優くん。どうして? ほら、汚れちゃうよ。早く離さないと。腐臭が移るよ?」
「なんでだ……。なんで、お前はこんなことを」
「こんなこと? それはどのことを言ってるのかな? 私が皆を操ったこと? それとも人をたくさん死に追いやったこと? それとも、その邪魔な女を殺してやったこと?」
「お前…っ!」
「あ、それとももしかして――」
変わらず笑顔を浮かべながら季雨が俺の前に何かを放り投げた。彼女の力では俺のところまで届かず、それは血の池となった床に音を立てて落ちる。
自然と、目がそちらに移り、そして、驚愕した。
「おい、これ……なんだよ」
彼女が投げ落とした物は腕だった。人体模型とか、動物の腕なんかではなく本物の人間の腕。少し細めの、多分女性の腕。それを、季雨はどこから持って来たのか。
「なんだよって、腕だよ。人の腕。こいつも、優くんにちょっかい出してたみたいだから、ついでに排除しとこうと思って」
その時、気付いてしまった。その腕が何かを握っている事に。小さな腕に握られていたのは、携帯電話だった。それも、最近どこかで似通った物を見た気がした。形も色も付けているストラップも全て、それに符号する。
嫌な予感が、した。
「なぁ、これ……誰の腕だ?」
「誰って、決まってるじゃない」
「新聞部の女だよ」
「雪花……?」
嘘だろ? これが、あいつの腕? それじゃ、あいつは? あいつはどうなった? 腕を切断されたあいつは、どこで、どうなったんだ?
「そういう名前なの? 全く興味ないから知らないけど。でも、警察呼ぼうとしてたし、私が来なかったら本当アウトだったよね。本当、殺しといて正解だったよ」
「お前、今なんて言った?」
「ん? 殺したんだよ。当たり前でしょ。私の優くんにちょっかい出す女は皆、死んで当然なんだよ。だって、そうでしょ。私がいるのに汚い手で優くんを触ろうとするんだもん。本っ当に、最低だよね」
「季雨ッッ! お前はッッ!」
季雨の心ない言葉に怒りが爆発する。しかし――
「優くんが悪いんだよ!」
俺以上の怒号と共に突如、季雨の顔が歪む。笑みと怒りが混ざり合ったような、混沌の表情。余りにも濁ったその顔は、一体どうしてそんな表情になるのか、彼女の本心はなんなのか。それらが全く読み取れない。それほど、彼女の中は暗く冷たかった。
「私は、こんなに優くんの事好きだったのに! 私だけが優くんの物だったのに! それなのに、優くんはその女を取ったんだよ! 取られたんだよ!」
「だからって……っ! やっていいことと悪いことがあるだろっ!」
「やっていいこと? そうだよ、だから私はやったんだよ。あの時と同じように、優くんが喜んでくれたように」
「あの時?」
「優くんはさ、本当に自然にイジメが無くなったとでも思ってるの?」
それは中学校に通っていた時の話。今からでは想像も出来ない程、彼女は暗かった。真逆と言ってもいい。その原因のほとんどは他の生徒の心ない悪戯。いや、悪戯にしては度が過ぎていた。間違いなく、あれはイジメだ。幼馴染だった俺は、なんとか季雨を守ってはいたが、いつも側にいられるわけではない。俺の知らないところで、ナイフのような冷たい言葉が、暴力が、飛んでいた。
死のうとまでしたほどに。
「優くんにはわからないよね。イジメってね、本当に簡単には取れないんだよ。床に貼り付いたガムみたいにね。どれだけヘラで削っても完全に剥がれてくれない。その過去を知る人が誰かに話して、それが広がってまた始まるの。どこに行ってもそう。終わる事なんか絶対にない。自分で変えない限りはね」
そう言って自嘲気味に笑う。その笑みはあの時と同じ。形だけの笑い。俺を安心させようとする為に使ってた笑顔の仮面。
その仮面を貼り付けたまま、季雨は続ける。
「だから、私は変えたの。この能力を使って」
「人を操る力……」
「そうそう。私も最初はびっくりしたんだよ。初めてわかったのは、中学三年の二学期くらいの事かな? 他のクラスの女子から殴られてる時に、急に頭の中から声が聞こえたの。命令しろって。だから、その通りにしたよ。止めろってね。そしたら、不思議な事に本当に殴るのを止めてくれたの。それだけじゃないよ。その後もまるで操り人形のように私の言う事を聞いてくれたの」
それが、操りの能力の正体か。
雪花があの時、催眠術ではあり得ないと言っていた。何人もの人間を、こんな長時間操る事なんて不可能だと。実際、それは正しかった。これは、そういう物じゃない。季雨自身の身の危険から守る為に生まれた一種の防御装置だ。毎日のように続けられた地獄のような痛みに対する恨みと憎しみ。それを溜め込んで溜め込んで、彼女のキャパシティではもう抑えきれない所まで達してしまった、壊れる寸前で生まれた防御装置。
もし、これが無ければ彼女は死んでいたのかもしれない。それくらいに、季雨はボロボロだったということか。
「これが、そういうものなんだって理解した時、私は決めたの。今まで私に酷い思いをした奴らをどうにかしてやろうって。だって、この力があればどんな事だって出来るんだよ? 人を殺すことだってこんなに簡単に出来ちゃう。死ねって一言命令するだけで、簡単に死んでくれるんだもん」
そう言って、彼女は哄笑する。それを見て考えを改めた。壊れる寸前で生まれたんじゃない。彼女はもう、壊れてしまっている。
身体も、心も。
あの時、見せた笑顔は本物だと思った。こいつは、やっと幸せに目を向けることが出来たのだと。しかし、違ったのだ。
彼女が笑顔でいたのは自分の障害を消したからに過ぎない。自身で幸せを掴み取ったわけでもない。突然に現れた力に溺れた結果だ。
「季雨……お前は」
「でもね、優くん。これだけじゃ駄目なんだなって思ったの。こればかりに頼ってたら、きっと優くんは離れていくって。私だってわかってるよ。これに溺れちゃ駄目なんだって。だから、ここに来てからは力は使わないようにしてたの。私は、優くんの隣にいることができればそれだけで幸せだから」
そうやって浮かべる笑みは本当に嬉しそうで、彼女に取っての幸せな日々を思い懐かしむように目を閉じる。だが、季雨の笑みは長くは続かなかった。数秒の間の後、彼女は「でも……」と言葉を続ける。
「その幸せはあっという間に無くなった。唯一の私の幸せが、希望が、全部その女に取られちゃったの。許せないよね? ほんと…ゆるせない……」
そう言って開いた目に、先ほどの嬉しさは微塵も感じられない。あるのは恨みと憎しみ。そんなマイナスの感情だけ。
その感情だけで、季雨は狂い、笑う。
「だから、私は決めたの。私の幸せを奪ったあいつに復讐してやろうって。私が考えうる、最低最悪の方法で、絶望に叩き落としてやろうとした。でも、やっぱり上手くいかないね。私が放課後の占いに行く日、まさか優くんに話しかけていたなんてね……」
「あれは、お前がやったんじゃないのか」
「違うよ。私はあんな命令送ってない。というか、今日のお昼まで正体を明かさせるつもりだってなかったんだよ。だから、あれは完全にあいつの意思。ホント、邪魔な事ばっかして……おかげで軌道修正が大変だったんだよ」
それを聞いて愕然とした。
それじゃ、それじゃあ、あの時、真黒は俺に助けを求めていたのか? 操られながらも、俺に必死に助けを求めて……。
それに気付かずに俺は、ただ季雨に操られるがままに……。
「最後だってそうだよ。私のことはいいから優くんのことを助けてだなんて。そうやって優くんの印象を操作しようとした。本当に意地汚い女――」
「真黒のことを悪く言うんじゃねぇっ!」
「優くん……」
「これ以上、あいつの事を悪く言ったら絶対に許さねぇ」
あいつは、俺だけを考えてくれた。何も出来ない俺なんかを彼女は生かそうとした。そんな真黒の行動を季雨の言葉なんかで汚させはしない。
しかし、季雨は全く悪びれた様子も無く、ただ悲しそうな視線で俺を見つめるだけだった。
「そっか、長くあんな奴と一緒にいたから、おかしくなっちゃったんだね……。大丈夫、安心して。私はそれくらいじゃ嫌いになったりしないから。あ、でも少しお願いを聞いて貰わなくちゃならないかな。大事な大事なお願いなの」
「……っ」
瞬間、妙な悪寒が背中を駆け巡った。こいつがこれからやる事に対しての危険信号だとはすぐにわかった。
しかし――
「あ、動いちゃ駄目だからね?」
一早くそれに気付いた季雨がそう『命令』する。それだけで、俺の身体はまるでセメントに固められたかのように硬くなった。手足一つ、目すら動かすことも出来ない。もちろん、閉じることも。
「ふふ、私は優くんの考えてることなんかすぐにわかっちゃうんだよ? それくらい、私は優くんが大好きなの。だからね、優くんにはずっと私だけを見てて欲しい。でもね。あいつに一矢報いらなきゃ気が済まないの。だからさ、優くん――」
俺の目を覗き込むようにして少女は言った。
満面の笑みで。
「死んでくれないかな?」
「……っ」
止めろ!
そう口に出したいが身体は動かない。その間にも季雨は準備を始める。
俺が持って来た、季雨のナイフ。それを手に取り愛おしそうに刃を撫でる。
「私もね、殺すのは嫌だよ。すっごい嫌だ。でもね、優くんがあの女のことを忘れない限り、私のことを好きになってくれることはもうないと思うんだよね。今の優くんは汚染されちゃってるから。だから、その身体は捨てちゃおう。綺麗になろう。あんな女の記憶が入った脳みそなんか失くしちゃおう。その代わり、優くんにはずっと私だけを見れるようにしてあげる」
そう言って、ナイフの切っ先を向けた。
俺の眼球に。
おい、待てよ……。こいつ何をするつもりだ…?
「目玉を抜き取るんだよ?」
口に出せない言葉も聞こえているかのように彼女は俺の目を見ながら小さく微笑んだ。
言葉と表情のギャップ。それが、俺には恐ろしくてたまらなかった。
「その目玉さえあれば、優くんはずっと私を見てくれる。それだけで私は幸せなの。だから、あとはいらない。私のことを嫌う優くんなんて、いらない。私は、私を見てくれる目玉さえあればそれでいい。あとは思い出だけで、生きていけるから。だから――」
「バイバイ、優くん」
最後に見えたのは大きくナイフを振りかざす、季雨の泣き笑う顔。
そのまま、俺の眼前に銀色に光るナイフが映し出される。
その後に残ったのは、闇。
それは、泥沼の如く、俺の身体を、意識を沈めていく。
痛みも、何もない。
あるのは無限に続く、闇だけ。
そして。
俺の世界は。
俺と真黒が歩むべき幸せの世界は。
暗転した。