その2
「ただいま」
玄関の扉を開ける。少し遅くなってしまったが家の中は真っ暗だ。誰もいる気配がない。まぁ、親が仕事で帰りが遅くなるのは当たり前の事なので、これといった特別な事はないのだが。
電気を点けリビングに移動する。
両親が共に仕事でいない為、基本的な家事は全て俺任せだ。
その為、親が休みの日以外は俺が夕飯の準備をしなくてはならない。
「今日ばっかりは余り物で簡単にしてもいいよな」
正直、やる気が出なかった。季雨の異変。『放課後の占い』を起こした犯人の目的。日常の崩壊。精神的な疲労は溜まるばかりだ。
それでも、日常は容赦なく襲いかかる。崩壊した日常。あってはいけない非日常。それでも、世界が変わるわけではない。その非日常はあくまで自分の視線だけのもので他の誰かのものではないからだ。
自分の非日常なんか他人には関係ない。他人には他人の日常が、あるいは非日常があるのだから。もし、自分の非日常を理解して貰いたいのなら、それはその人をこちら側に引きずり込むしかない。
「……そんなこと出来るわけないもんな」
結局、今回のことは俺と雪花の二人で解決しなければならない。そう決めたのだ。
あいつのことは責任を持って俺達が助ける。
「さて、飯の準備でもするか」
その為には、いつも通りの生活を続けなくてはならない。誰かを巻き込む事なんて、出来ない。
「……っと。そういえば、雪花から言われたんだったな」
明日は休校なのだが、また新聞部に顔を出して欲しいと頼まれたのだ。しかし、明日は季雨とのデートの約束がある。その約束を断る為に季雨にメールを打たなければならなかった。
「……どちらにしろ、あんな状態じゃデートになんかなりゃしないか」
携帯を開き、季雨に対して断りのメールを送る。返事は期待してなかったが数分後に彼女からメールが届いた。
『わかった』
「…………」
余りにも無機質な内容に心が痛む。
あいつから、こんなメールが届くなんて考えたこともなかった。携帯を閉じてソファに放り投げる。見たくなかった。現実から目を背けてしまいたいくらいだ。
「夢であればどんなによかったか」
まだ、季雨の異常から一日も経っていない。もしかしたら、これは全て夢なのかもしれない。明日になれば元気な姿を見せてくれるのかもしれない。それで、二人でデートに行けるのかもしれない。
そんな願望。
しかし、そんなことはあり得ない。
世界は非日常ばかり与える癖に夢を与えない。常に残酷な結果だけを残して消える。そして、それを乗り越えた者にだけ願いを与える。
ずっと、そうだった。季雨と過ごしたこの十数年の間、ずっと……。
「せっかく笑えたんだ……」
今まで、笑顔なんか滅多に見せない。見せたとしてもその笑顔には必ず何かの影が付き纏った。本当に笑顔を見せるようになったのなんか本当に最近、高校に入ってからだ。
今の彼女しか知らない生徒には信じられない話だろう。あの季雨が一度も笑わずに、ただただ俯いたまま一日を過ごしているなんて。
ちょうど、今日の日のように。いや、下手をすれば今日の季雨よりも酷い。感情がある分、あの時の季雨の方が痛々しかった。
そんな季雨が、やっと幸せを掴んだ季雨が……。
「……っ!」
自然と拳に力が入る。あいつは幸せにならなくちゃならないのに、どうしてこんな事に巻き込まれるんだ。
犯人に対する純粋な怒り。身勝手な行動で大切な人を不幸に追いやろうとするそいつを許すわけにはいかなかった。
「……まずは明日だな」
明日。俺と雪花でまた情報集めに出かけなくてはならない。休校であるため、ちゃんとした聞き込みは出来ないが、部活中の生徒達から何か聞きだせるかもしれない。その情報に期待を寄せて、俺は今度こそ夕飯の準備を始めることにした。
「優斗さん、こんにちは」
「おう」
翌日の午後。新聞部の部室で待っていると見慣れた制服姿の雪花が入って来た。
「早いですね。まだ約束の時間より三十分も前ですよ?」
「それはお互い様だろ?」
「……そうですね」
くすっと笑ってお互い定位置に着く。
「では、昨日も言った通り今日は聞き込みに専念しようと思います。運動部と文化部、この時間帯ならどちらも部活中のはずです。聞きこめるなら今しかないと思います。それと、これを」
そうして、手渡されたメモ帳の切れはし。そこには数人の名前がリストアップされている。
「これは?」
「今回の被害者と仲が良かった生徒の名前、そしてそれぞれが所属している部活動の一覧です」
「……すげぇな」
「これくらいは朝飯前ですよ。でないと新聞部の部長なんて務まりやしません」
大した事はない。そう言う雪花だがその顔はどこか自慢げだ。というか、胸に右手を置いて身体を少し反らすような姿勢はどう見ても謙虚な人が取るポーズではない気がする。……褒めて欲しいのだろうか?
なんとなく、ふんぞり返るその頭に手を置いて撫でてみる。
「ひゃわっ!?」
瞬間、部室内に変な声が響き渡った。
「……っ!? ちょ、ちょっと! なんですか急に!」
「いや、褒めて貰いたそうな顔してたから」
「そ、そんなことないですよ! っていうか、いつまで触ってるんですか!」
俺の手を振り払って一歩後ずさる。その顔はもの凄く夕陽色に染まっていた。
「……なんですか、ニヤニヤした顔して」
「いや、可愛いなと」
「……っ!?」
さらに真っ赤に染まる。まるで茹でダコのようだ……なんか面白い。
「か、からかってますよね!」
「いや、すまん。雪花の態度がちょっと面白くてな」
「全く……。彼女持ちですから何とも思いませんけど。もし、貴方に彼女がいなかったら変な勘違いされても文句言えないんですからね!」
手櫛で髪をいじりながらジト目で睨む。平静を装ってはいるが、その顔はまだ赤く染まっている。
「……そんなに恥ずかしかったか?」
「あ、当たり前です! あ、ああああたまをなでるだなんて……そんなこと今まで一度も……っ!」
「わ、わるかった! わるかったから身を乗り出すな!」
「も、もう……っ! それじゃ、優斗さんは文化部の方に行ってください! 私は運動部の方に行きますから! 一時間後にここに戻ってきましょう、いいですね!」
それだけ言い放って雪花は出口へと向かう……が、ドアを開く直前に一度だけこちらを振り向いた。
「…………」
「どうした?」
何か物言いたげな視線をこちらに向けて来る。
「なんでもないです! それでは!」
「……怒らせたかな?」
雪花の出て行ったドアを見つめながら小さくため息を漏らす。つい、季雨と同じような接し方をしてしまった。
「外見も中身も全然違う気がするんだがな」
そう、全然違う。性格だって季雨は彼女ほど積極的な訳ではない。自分から話題を提供する雪花と比べて、彼女はどちらかと言えば聞き専みたいなところもある。もし、季雨に新聞部の部長なんか任せたらあっという間に崩壊するだろう。まず、あいつに人様から情報を得るなんてことが出来るわけがないのだから。
「オカルト関係を調べる時も全部、自力で調べてたからな」
ネットと本は駆使していたが、誰かから何かを聞きだすということは一切やってこなかった。それも、彼女の境遇を考えれば当たり前のこと。しかし、このまま人と関わらないで生きて行く事が本当に正しいのだろうか? そう思うことも少なくなかった。
まぁ、今はそういう対人恐怖症もかなり克服されてきていたし、大丈夫だとは思うのだが。
「そう考えると、どうして雪花に季雨の様な接し方をしてしまったのか、ますますわからん」
ほとんど、条件反射のように頭を撫でてしまったからな。
「まぁ、考えても仕方ないか」
それよりも、今は聞き込みだ。早く行かないと時間がなくなってしまうかもしれない。
雪花から貰ったメモ帳とペンをポケットに仕舞い込んで部室から出る。
「さて、と」
さきほど雪花から貰ったメモによると文化部関係の人は三人程。天文部と科学部、そして囲碁部だった。
「んじゃ、近い方から順番に行くか」
この部室から一番に近いのは囲碁部だ。新聞部のちょうど真上に位置している。
「何か良い情報が得られればいいんだが」
そんな希望を胸に早速、囲碁部へ足を運ぶ事にした。
「ここも有力情報無しっと……」
メモ帳にペケ印をつける。
これで二つ目だ。囲碁部、科学部共に情報はなし。わかったことは、彼らが部活動に顔を出していないことと、季雨と同じような状態だっただけ。
一昨日、彼らがどこで何をしていたのかも、校内で集団を見かけたという情報もまるで入って来なかった。
「あと一個か」
残るは天文部のみ。しかし、この調子だとあまり有力な手掛かりは手に入りそうにない。となると、後は雪花に任せるしかないんだが……。
「また、雪花任せになるのか」
発案者が全く使えないとあいつに見せる顔がない。今のところ、彼女の役に立てたことなんて一個もないのだ。そりゃ、まぁ雪花は情報収集のプロだし、俺がそのジャンルに足を踏み入れたところで何も成果が出ない事なんかわかりきっていた。あの時、雪花にこの情報収集の指令を受けた時も自信はなかったのだ。だから、こういう結果になったって仕方の無い――
「違うだろ……」
そんなのは言い訳だ。ここで情報を集める事が出来ないのは全部、自分の力不足。それを「仕方ない」とか「当たり前」だとか、そんな言葉で片付けてはいけない。ここで、俺が取るべき行動はそんなネガティブな思考になることなどではないのだ。
「あいつを助けるって決めたんだろ……」
ならば、やるしかない。どれだけ俺に力が無くても動かないとその先には進めない。
「考え方の問題だよな」
あと一個じゃない。まだ一個残ってるんだ。なら、その一個にかけないでどうする。
「行こう」
弱音を吐いている時間なんか俺には残されてない。一刻も早く季雨を助け出さなければならないのだ。
諦めかけて止まっていた足を動かして前へと進む。向かう先は天文部。そこに季雨達を救う方法がある事を信じて。
「失礼します」
天文部のドアを開けると、三人の部員が俺に視線を向けた。二人の男子と一人の女子。どうやら、この三人が天文部の部員らしい。
……いや、違うか。
ここには、もう一人の部員の姿がない。季雨と同じ催眠術に掛けられた女生徒が。
「えと、なんでしょうか?」
男子生徒の内の一人が立ち上がって近づいて来た。多分、三年生の生徒だろう。ということは、この人がここの部長なのだろうか?
「すみません、秋月さんの件でお話を聞きに――」
「秋月さんの事ですか!?」
その名前が出た途端、座っていた女生徒が椅子を蹴る様にして立ち上がった。
「あの子、変なんです! 一昨日まで普通だったのに昨日はなんか一日ボーっとしてて。今日だって一緒に部活に出るはずだったのに、電話しても出て来ないし……」
「君は秋月さんの友達?」
「は、はい! 私、下田って言います! 貴方は……えっと、竹原優斗さんですか?」
「ん? なんで知ってるんだ?」
「えっと、季雨ちゃんの彼氏さんですよね?」
あぁ、季雨の友達か。納得した。
「そっか、なら話が早い。実は、季雨も同じような状態でな」
「はい、知ってます……。あの、どうしてこんなことになってしまったんでしょうか? 私、心配で……」
「それを知る為に聞き込みをしてるんだ」
「……季雨ちゃん達を助けるためですか?」
「あぁ」
力強く頷く。それを見て彼女も安心したのか強張った表情に少しだけ笑顔が戻った。
「私も! 私も協力します! 美香子ちゃんにも早く元気になって欲しいから!」
「それじゃ、少しだけ聞きたい事があるんだけどいいかな?」
「はい、私にわかることなら、なんでも」
頷く下田さんに、俺は前の部活と同じことを聞いた。
「……ごめんなさい。私はその日早い時間から帰っていたので」
「そうか……」
しかし、結果は前の二つと同じ。成果はなかった。やはり、特別な情報を持っている人はいないのだろうか。
「あ、でも……」
そう思った矢先、下田さんが何かを思い出したかのように小さく呟いた。
「なにか気になる事でも?」
今はどんな小さな情報でも欲しい。
「え、えっと……。関係あるかはわからないっていうか、いや多分全く関係ないと思うんですけど……」
「それでも、いいよ。もしかしたら何かのヒントになるかもしれないし。今はどんなことでも聞いておきたいんだ」
「そ、そうですか? そ、それじゃ。実は、放課後に葉月さんが歩いていて、話しかけられたんです、私」
「葉月が?」
そう言う返事をしてしまうのも無理はない。葉月はクラスメイトにすら壁を作って会話を避けていたのだ。さすがにイエスノーくらいは返事をするが、逆に言えば、それ以外の会話はないと言っていい。
その彼女から話しかけられたと言うのだから驚くのも無理はない。
「はい。なんか、待ち合わせをしているとか、なんとか」
「待ち合わせ?」
その言葉、俺もどっかで……。
「……そうだ、俺もだ」
「どういうことですか?」
小首を傾げる下田さん。今すぐにでも教えてあげたいのだが、今は一刻も早くこの情報を雪花に伝えてやりたかった。
もしかしたら、これは俺達にとって重要な鍵になるかもしれない。
「ありがとう! ちょっと急いでるからこれで!」
「あ、あの! 竹原さん! 私にも説明を――」
ぽかん、としている回りの部員と何かを喋ろうとしていた下田さんに礼を言い素早く天文部を後にする。その後ろから、まだ声が聞こえていたが今の俺にその言葉が届くことはなかった。
「なるほど……」
俺の持ち帰った情報を前に腕を組んで考え込む雪花。彼女の方も特にこれと言った収穫はなかった。なかったが、俺と同じ情報を掴んでいた。そう、葉月真黒の情報だ。
「天文部員とサッカー部員、それに貴方も話しかけられていた。下手をすれば、もっと話しかけられた人もいるかも知れませんね」
「やっぱ、ありえないよな?」
「ええ、私の情報からでも彼女が自分から誰かと話すなど……しかも、誰彼構わずになんて不自然以外の何物でもありませんね」
「イメチェンしましたって感じでもなかったもんな」
「少なくとも、昨日の時点での彼女はいつも通りのはずですね。もし、そうなら私の耳に入ってきているはずです」
お前の耳はどうなってんだ、と言ってやりたいところだが、そんなことを言っている場合ではない。この情報が確かなら彼女は遅くまで学校に残っていた可能性がある。
「なぁ、一応確認しておくが今回の被害者の中に葉月は――」
「いませんね」
「そうか」
「一人でも大丈夫ですか?」
俺が何を考えているのか、予想がついているのだろう。雪花が少し心配そうに尋ねる。
「相手は壁を作るのが得意なタイプの人間です。正直、何を考えていてもおかしくないんですよ?」
「大丈夫だよ」
あぁ、大丈夫だ。どうせ、話を聞くだけだ。嘘を吐くか、真実を喋るか。それだけだ。別に殴り合うとか、殺し合いをするわけじゃない。そもそも、彼女が犯人と決められたわけでもないし、そんなつもりもない。会話をするだけ、ただそれだけなのだ。
だと言うのに、何故だろうか。
心臓がバクバクしてる。まるで、今から好きな人に告白をするかのような。そんな高鳴りを感じる。鼓動が伝わる。早い。おかしい、話すのは明日のはずだ。なのに、何故今、こんなにまで緊張しているのだろうか。
「優斗さん?」
雪花が怪訝な顔を浮かべる。もしかしたら、今の俺は変な顔をしているのかもしれない。当たり前だ。こんなにまで俺の心臓が強く叩かれている。苦しいくらいに。それなのに、普通の顔なんて出来るはずがない。涼しい表情なんて浮かべられるはずがない。
玉の汗が頬を伝って顎から落ちる。新聞部は冷房も効いていて逆に寒いくらいなのに、なんでこんなにも暑いのだろうか。
いや、暑くなんてない。暑いのならどうして、どうして――
「優斗さん!」
こんなにも、背筋が凍るのだろうか。
告白する直前? 何を馬鹿な事を言っているのだろう。そんな甘ったるくて優しい感情じゃない。これはそんなプラスに傾いたものなんかじゃ断じてない。
恐怖だ。
俺は、彼女に対して恐怖していた。彼女と話す事を、恐れていた。いや、違う。もっと明確だ。もっとハッキリとした恐怖。俺は、彼女に。
「……彼女に事件の話をすることに恐怖している」
震えが、止まらなかった。
次の日。俺は少し早めに学校に来ていた。まだ、クラスにはほとんど人がいない。今、この時間で教室にいるのは二人だけ。
俺と、葉月だ。
普段、ここに人がいるのも珍しいはずなのに彼女はこちらに一度も視線を向けずにただ窓から外を眺めていた。俺のことに気付いているかどうかすらもわからない。
こいつが、早い時間に学校に来ているというのは雪花の情報でわかっていた。だから、俺も普段なら有り得ないような早い時間にこうして登校した。事件のことを余り他人に聞かれるのは良くないと言う雪花の助言の為だ。いつ、誰が、どこで俺達の事を見ているかわからない。もしかしたら、犯人がどこかで俺達のことを見ているかもしれない。だから、ほとんど人のいないこの時間をあえて選んだのだ。こちらも危険は伴うが、注意する相手が一人だけなのは、やはり楽なのだろう。
「…………」
本当はこれを聞いた時、いや、俺が震えて恐怖してしまった時、雪花が「やっぱり私も……」と着いて行こうとしていた。しかし、俺は首を横に振って断った。二人で行くことこそ危険だと思ったのだ。何故そう思ったのか、明確な思考はそこにはない。ただの勘だ。なんとなく、なんとなく彼女をここに連れて来てはいけないと思った。
危険予知だ。
何かが危ないと思ったからだ。
「危険とわかってても話しかけないといけないなんてな」
虎穴に入らずんば虎児を得ず。まさしくその通りだと思った。
席を立ちあがり葉月の方に近づく。彼女はまだこちらを向かない。近くまで来ている事に気付いているのだろうか。
もうあと二歩。それだけ歩けば彼女の机は目の前だ。鼓動が速い。どうして、これだけのことでこんなにも緊張するのか。ただ、事件のことを聞くだけだ。昨日だって同じようにしたじゃないか。そうだ。下田さんに話しかけた時みたいに――
ヒュッ!
一歩を踏み出した瞬間、耳が嫌な音をとらえた。何かが風を切り裂く音。つまり、勢いよく何かを薙いだ時に出る音だ。
「……え?」
その何かを目で確認した時、俺は背筋が凍ってしばらく動けなかった。声も出せない。ただ、眼球だけを使ってソレを凝視していた。
果物ナイフ。
そう、ナイフ。凶器。彼女は、葉月は、ソレで切った。完全に踏み出していれば切られていたであろう首元を狙って。何の躊躇もなく、その場所を。
「あら、惜しい」
そして、なにより恐怖だったのは、彼女の表情だった。
「ふふ、どうしたの? 固まっちゃって」
笑っていた。親しい人間と話しているかのように、彼女は微笑を浮かべていた。直前に人を殺そうとしているような人間のするべき顔じゃない。狂っている。一歩間違えれば人殺しに、いや、もう人殺しという沼に片足どころか下半身まで浸かっている。そんな奴と今までクラスメイトとして過ごしていると思うと悪寒が走る。
嫌悪なんてものじゃない。天敵だ、こいつは。俺の、人間の、天敵。
「ねぇ、何か聞きたい事があったんじゃないのかしら?」
「……ああ、そうだよ」
なんとか彼女に伝える程度の言葉を口にする。口を動かすだけで精一杯。もし、今もう一度葉月に同じ事をされたら、もう二度と生きて帰れない。
「ふぅん? なに?」
足を組み、手に顎を乗せて、まるでグラビアの撮影会でも始めようかというポーズでこちらを見る。
こんな時ですら、俺は彼女のことを綺麗だと思ってしまう。自分でも何を考えてるんだと自己嫌悪したくなる。しかし、彼女の動作、言葉。その一つ一つが全て魅力的に見えてしまうのだから仕方がない。壁を作って尚、彼女が学園のアイドルだと呼ばれる意味がわかった気がした。
しかし、いくら彼女がアイドルだからだろうが、やることは変わらない。
「先週の金曜日の事だ」
「金曜日……? ああ、はいはい。私が貴方と話した日の事ね?」
「ああ。俺と話した後の話だ。大事な事だからちゃんと答えてくれ。あの後、どこにいた?」
瞬間、彼女の顔が少し俯いた。立って話している俺からだと座っている彼女の表情は窺がえない。しかし、その口はまるで三日月のような形をしていた。
そして、その口のまま、言う。
「もしかしたら、季雨さんに会っていたかも知れないわね?」
「……っ」
「あらあら、どうしたの? そんな驚いた顔をして。だって、貴方はそういう話をしているんでしょう? 私が犯人を見た、私が何かの集団を見た。そんなことを思っている顔ではないわ。私を証言者だなんて思ってもいない。その目は完全な敵視よ? そうでしょ?」
「…………」
葉月の言う通りだった。
いや、あんな事をされれば疑いたくなるのも当たり前だ。しかし、それ以前、下田さんからこの話を聞いた時からなんとなく彼女はこの事件に関係があるのではないかと、そう思っていた。
今頃になって、その恐怖感はそこから来ていたのだと知った。
つまり、俺は彼女を疑っている。今、この目の前で不敵な笑みを浮かべるこの女を。
「無言は肯定と受け取るけど、いいのね?」
葉月の気持ち悪いくらいに完璧な笑顔を、俺は睨む事で返した。敵意の現れだ。俺は、今からこの女と敵対関係になる。
「そう……」
それに同意するかのように彼女は目を閉じる。瞬間、空気が変わった。ピンと伸びきったピアノ線のように張りつめた空気が教室中を包み込む。
こちらを見ていない。しかし、何か冷たい何かがこちらを覗いている。葉月の中の何かが……。それは、さっき彼女がナイフを振るった時の感覚によく似ていた。
「それじゃあ……殺すしかないわよね?」
「な……っ!?」
それが殺気だと気付いた時には、葉月は立ち上がり、俺の喉元に刃を突き付けていた。
「邪魔物はここで排除しないと、後々面倒なことになりそうだし、ね?」
「……季雨達を使って何をするつもりだ?」
「へぇ……」
その言葉に葉月は意外そうな声をあげる。
「今のこの現状を見て、自分の心配をしないんだ。自分よりも彼女の方が大事? 勇者様思考なわけ? 今時流行らないと思うんだけど」
「話を逸らすなよ。俺の質問に答えろ。何をするつもりだ?」
ぐっと手に力が篭るのを感じた。何か生ぬるいものが流れる感覚。
「随分と強気なのね? 今、私が少しでも力を入れたら君は死んじゃうのよ? いい? 話の主導権はこっちにあるの。私への返事以外は余計な事を喋らないでくれないかしら?」
「……言えないなら別にいいさ。少なくとも、お前がこれに関わっているのはわかったんだ」
「……そんなに死にたいの?」
初めて彼女から笑顔が消えた。自分の言う通りに動かない事に腹を立てたのか。その様はまるで女王のようだ。
「ナイフじゃなくて鞭だったら、一部の男子に喜ばれるかもしれないな」
「いいよ、もう。死になさい」
酷く冷めた目をしながらナイフを持つ手を動かす。こいつは本気だ。本気で今、俺を殺そうとしている。慈悲も情けもない。自分の罪になんの感情も抱いてない。腕に蚊が止まっているから潰した。そんな、さも当たり前と言う様に彼女は大きくナイフを掲げた。
そのまま一気に俺の首元に――
ガララッ!
――突き刺さる手前でナイフの動きは止まった。
「あれ? 竹原くん早いねー。おはよー」
俺を助けたのは同じクラスの女子だった。彼女の開いたドアのおかげで俺は命を救われた。いや、もっと言えばこれは雪花のおかげなのだろう。
雪花が葉月の登校時間と同時にその次に来る女子の時間も調べておいてくれたのだ。二人きりでいる時にもし何かがあったら。あの時の俺の表情を見てそれを悟ったのだろう。あらかじめ時間を指定し、話すのはその間だけにしろと言われていたのだ。
そして、その予感は的中。俺は葉月に殺されかけ、雪花の思惑通りにクラスメイトによって命を救われた。
「ああ、おはよう」
振り向いて普通を装って挨拶する。そのまま俺は葉月の元を離れた。足が動くか心配だったが、どうやら言うことを聞いてくれたみたいだ。
「……運が良かったわね」
背後からそんな声が聞こえて来た。全くその通りだ。もし、少しでも時間が違えば、例えば歩いている途中で忘れ物に気付く、信号に捕まる。そんな数えきれないハプニングに少しでも遭っていれば俺は今頃こんな風に教室を歩くことは出来なかっただろう。
「ねぇねぇ」
自分の席に着こうとする俺にクラスの女子が手招きする。どうやら、廊下に呼ばれているらしい。
「どうした?」
廊下に出ると彼女は少し興奮した様子で話しかけて来た。
「い、今さ! もしかして葉月さんと話してた?」
「ん、ちょっとな」
「やっぱり! 凄いね! 私なんか一回も話しかけたことないのに。なんかさ、怖くない? こう、なんて言うのかな……鋭いナイフみたいな? 近づいたら切られそうなイメージなんだよね」
「……っ」
「……? どしたん?」
「いや、なんでもない。気にしないでくれ」
ナイフの言葉に反応して思わず声を出してしまった。背筋に悪寒が走る。……今になってさっきの行動がどれだけ危険だったのかが恐怖として実感する。
「ちょ、大丈夫? 身体、震えてるよ? 風邪……ってきゃあっ!」
「あぁ、もしかしたら調子が悪いのかもしれないな」
「いやいや、そうじゃなくて! 首! 首から血が垂れてるよ!」
「へ?」
自分の首に手をやる。ぬるりとした感触が手のひらに伝わる。見ると、そこには確かに赤い液体が付着していた。
「うわ、ホントだな」
「何、他人事みたいに言ってるの! ほら、早く保健室に行ってきなってば! 早くしないと失血死しちゃうから!」
「いやいや……」
さすがにこの程度の出血じゃ目眩すら起きないだろ。心配し過ぎだ。
まぁしかし、どちらにしろ今のままじゃクラスに居づらい。人が集まる一限目が始まるまで、保健室で休むのもアリか。
「竹原くん? 行かないの?」
「いや、やっぱ行って来るわ。どちらにしろ止血して貰いたいしな」
そう決めた俺は彼女にそう伝えてから、そのまま教室を後にした。
「……ん」
誰かが話す声が聞こえて目が覚める。えっと、ここは……。
「そうだ、保健室だっけか」
独特の湿布や薬品の匂い。あの後、少しだけ休ませて貰おうと保健室を訪ねてベッドを貸して貰ったんだった。
「今、何時だ?」
横のカゴに置いた制服から携帯を取り出して時間を見る。
「げっ……マジか」
携帯の時刻を見てうんざりする。もう四限目も終わり、昼休みも中盤に差し掛かろうとしていた。
一限目には戻ろうと思っていたんだが、どうやら寝過ごしてしまったようだ。
「はぁ……」
まぁ、朝から命の危険に晒されるなんて思ってもみなかったのだから疲れてしまうのは当然か。それでも、やはりこの時間まで先ほど殺されかけた人間のいる施設内で無防備な状態のまま寝るのはどうなのだろうか。
「やっぱ、危機感が足りないのかもなぁ」
「全くです」
「へ? って、うわ!」
ベッドを隠すカーテンの隙間。そこから二つの目が覗きこんでいた。
「……ったく、いつになっても出て来ないから心配で教室に行ってみたら保健室に行ったって聞いて。それで、さらに心配になって急いで保健室に行ってみたらぐっすり眠っていやがって、いつまでたっても起きないから今から叩き起こそうと思ってたところだったんですけどね」
「口が汚くなってるぞ」
「誰のせいだと思ってるんですか! お願いですから心配させないでくださいよ……」
「……すまん」
怒っていたかと思いきや急に泣きそうな顔になる。相当心配させてしまったみたいだ。安心させてやろうと彼女の頭をポンポンと叩きながら白いベッドから身を下ろした。
「とりあえず、報告しなくちゃな。新聞部に行くか」
「あ、いえ。ここでいいですよ。鍵も閉めて誰も入れないようにしましたから」
「いや、入れないようにしましたって……」
それで、体調不良を訴える人が来たらどうするつもりなんだ。相変わらずやる事が無茶苦茶な奴だなぁ……。
「……はぁ」
「おい、なんで雪花がため息吐いてるんだよ」
「いえ、なんでもないです。本当に彼女さん一筋ですよね、貴方」
「当たり前だろ」
俺がこうして事件をどうにかしようと動いているのも全部、季雨の為だ。あいつを助けなくちゃならないから命の危険を冒してまで俺は葉月と……。
「そういえば、まだ雪花に話していなかったな」
「今朝の事ですか? そう言うならなにか進展があったみたいですね」
「ああ、色々な」
俺は、今朝にあった出来事を全て雪花に伝えた。彼女が一連の事件と関係があること。関係なんかじゃなく葉月がこの事件の犯人かもしれないこと。そして、俺自身の命が狙われたこと。
意外な事に雪花が一番驚いていたのは俺が襲われたことだった。
「お、襲われたって……大丈夫なんですか!?」
「あぁ、ここを少し切られただけだ」
顎を少し上げて首元を見せてやる。自分ではよくわからないが、触った感触からして、もう血は止まって固まり始めているだろう。
「で、でも……それって」
「正直、情報通りに彼女が来なかったら、死んでたかもな」
雪花の顔が青ざめる。気が付くと、彼女の身体は震えていた。唇も振るわせている。それこそ、まるで今にも殺されそうな人間のするような表情で。
「わ、わたしのせいです……」
「そんなことあるもんか。これを提案したのは俺だ。それにこうして身体もピンピンして――」
「結果論の話じゃないですか……。もし、彼女が私の情報通りに動かなかったら、私は……」
へた、とその場に崩れ落ちる。
「雪花……」
顔を覆う彼女には、いつものような部長としてのオーラが感じられない。校内の生徒全てが恐れるあの新聞部の長とは到底思えなかった。後悔に潰れる彼女は本当に、なんでもない、ただの小さな少女だった。
「あの時、やっぱり無理してでも一緒に行くって言うべきだったんです。そうすれば、少なくとも貴方をこんな目に遭わせる事は――」
言葉に出す後悔の念。それは、今の彼女には毒でしかない。自身が言葉にするたびに自身を傷付ける。最悪の呪い。
だから、俺は言う。
「それは違う」と。
彼女の言葉を俺は真っ向から否定した。その言葉に彼女は憤怒する。目に涙を浮かべながら。
「何が違うって言うんですか! 全部、私のせいじゃないですか! 私の判断ミスで優斗さんに怪我を――」
「あの時、どっちが行っても二人で行っても怪我をしていた。いや、一人でいたからこそ葉月は余裕を持っていたのかもしれない」
もしもあの時、近くに雪花がいたら葉月は果たしてあんなに悠長に話をしていただろうか?
ナイフを出した時点で俺を殺し、狂乱する雪花にも同じように止めを差していたかもしれない。
雪花の判断は間違っていなかった。一人にさせて正解だったのだ。しかし――
「でも、それでも! 私は優斗さんに怪我を!」
それでも彼女は自分を許せない。きっと全てが無事に終わるように、誰も傷付かないように、最善を尽くしたのだろう。それでも、被害は出てしまった。だから、傷付いている。自分を傷付けている。この痛みを感じて、自分の無力さを感じて。……無力?
「そっか」
こいつも、俺と同じことを考えていたのか。自分の力の無さを痛感して悔やんでいたのか。
俺と同じだ。
こいつは俺と……。
「雪花」
泣き崩れる彼女の頭を優しく撫でる。そんな俺を彼女は涙を溜めた弱々しい目で見つめる。
「あの時、一人で行く事を任された時、実は少し嬉しかったんだ。やっと、俺にも出来る仕事があるってな。これでやっと足手まといじゃなくなるって内心すごく嬉しかった」
「そんな! 優斗さんは足手まといなんかじゃ――」
必死に否定する雪花。だが、俺は首を横に振る。
「俺にはお前ほどの情報収集能力はないし行動力もない。特に今回の事だって、俺はお前が指示してくれなきゃどうすればいいのかさえわからなかったんだ」
「で、でも! 優斗さんは自らの危険を冒してまで葉月さんに会いに行きました! 全然、足手まといなんかじゃないです! 」
「なら、それでいいじゃないか」
「……え?」
「お前は情報収集に徹する。荒っぽい事は俺がやる。ちゃんとバランスが取れてるじゃないか」
「でも、私は怪我をしません。どれだけ情報を集めても火の粉が降りかかるのは貴方じゃないですか!」
「雪花は怪我をしたいわけじゃないんだろ?」
「そ、それは、そうですけど……」
「それに、その考え方は駄目だ。それじゃ、まるで絶対に怪我するみたいだろ? 最初から弱気でいてどうすんだ」
「だって……実際に怪我を…」
俺の首元を見ながら彼女はそう言う。
「そうじゃなくて、こう考えろ」
「もう自分の情報で怪我をさせないってな」
「優斗さん……」
「俺がお前を危険から守る。だから、お前はその情報で俺を守ってくれ」
これが、俺の考え。それぞれの役割の中で相棒を守る。自分の苦手分野にまで手を出さなくてもいい。最初から一人でやろうなんて思うから駄目なんだ。
「ふふ……」
しかし、雪花から帰って来たのは意外にも小さな笑い声だった。
「あれ、俺なんか変なこと言ったか?」
「いえ、安心したんです。だって、優斗さんはまだ私のことを頼ってくれているって事ですもんね」
「当たり前だろ」
今回の事件、そのほとんどは彼女の仕事だ。雪花がここまでやってくれなければ、こんな短時間で進むような作業ではなかったはずだ。きっと、彼女がどういう状態になったのか、それすらも掴めずにいたはずだ。
「だから、お前は誇っていいくらいなんだ。そんな落ち込むな」
「……はい。約束します。何に変えても、私は貴方のことを守るって」
「ああ」
「……って、なんかこれ恋人同士みたいですね」
「悪いけど二股はちょっと……」
「わかってますよ」
そう言って、コロコロと笑う雪花。その顔にはまだ涙の後はあったが、彼女の目にはもう涙は浮かんでいなかった。
もう、大丈夫か。
「そういえば、まだ雪花からの話を聞いてなかったが、どう思う? 葉月が犯人で間違いないと思うか?」
途端、彼女の目が変わった。それは、いつも見る新聞部としての雪花の目。
「はい、間違いないですね。というか、それが無くても私は確信してました。……いや、だからこそ貴方にそういうことをしたのかも知れません」
「どういうことだ?」
首を傾げる俺に彼女はポケットから出したデジカメを差し出した。
「これ、見て下さい」
言われるままにスイッチを入れ、保存されている写真を確認する。そこに写っていたのは、昨日会った下田さんの画像。日付は今日のものになっている。
「これは……?」
「それは今日の休み時間に撮ったものです。よく見て下さい。変だと思いませんか?」
「……言われてみれば、確かに」
どことなく元気がないように見える。静止画だから確証は持てないのだが、生気を感じられない。まるで、眠っているかのような――
「って、まさか!」
「はい、彼女も他の方と同じ目に遭っています。いえ、彼女だけじゃないです。サッカー部の人も同じような状態にされていました。実際に私の目で確かめたのだから間違いないです」
「そっちもか……」
「ええ。あの日、葉月さんの姿を目撃した人間だけが襲われた、そう考えていいでしょう」
「他にも被害はあったのか?」
「確認しただけでも六名はやられていました。いずれも帰宅部、若しくは昨日は部活が休みだった人に限られていました。他に共通点があるとするなら、一番最初の被害にあった方の友人ってところですかね」
つまり、葉月は自分の話しかけた人、全てに催眠術を使ったと言うことなのだろうか。それは、どうしてか? そんなの決まっている。
「証拠隠滅ってとこでしょうね。あの状態なら話を聞きだす事も出来ないでしょうし」
自分が放課後に残っている事を誰かに聞かれたくなかった。だからこそ、黙らせざるを得なかったのか。
「ん? でも、ならどうして俺達に話しかけたりしたんだ? こんなことするくらいなら話しかけずに姿を隠すなりあっただろうに」
「私も、そこが引っ掛かってるんですよね。何か予想外の行動をされたのかってところでしょうけど……」
「俺達がここまで早く行動するとは思わなかった、とか?」
「そうですね。きっと、そこら辺が濃厚でしょう」
それでも、何か引っ掛かる気がするが、とりあえずは置いておこう。
「それよりも、だ」
「これからどうするか、ですか?」
「ああ。犯人が葉月だとわかった以上、あいつを野放しにするつもりはないからな」
どうにかして、葉月を止めなければならない。しかし、どうやって? どうやってあいつを止める?
やはり、ここから先は警察に任せた方がいいのだろうか。しかし、犯人がわかっても証拠は? 子供の俺達だけで果たして警察は動いてくれるのだろうか? 子供の悪戯で済まされる可能性は?
それに、季雨達が元に戻るという保障はまるでない。
やはり、俺達で決着を着けないと駄目だ。その為には……。
「やっぱり、対峙するしかないのか」
何のためらいもなく、本気で俺を殺そうとした葉月と。
「優斗さん……」
「大丈夫、心配すんな。そんなすぐに戦おうなんて思っちゃいないさ」
また泣きそうになる雪花を安心させる為に頭を撫でてやる。
そうだ。今行ったところで葉月は話なんか聞いちゃくれないだろう。今朝だって、何でこんなことをしたのかすら、教えてはくれなかったのだ。
「まずは、あいつがどうしてこんなことをしようとしたのか、そして、何をしようとしているのかを調べないといけないのかもな」
「それまでは、無駄な接触はしないって約束してくれますか?」
「約束する」
俺だってあんな目に遭うのはごめんだ。それに雪花の情報だって頼りにしてる。こいつならきっと短時間で貴重な情報を掻き集めて来るだろう。
「それじゃ、少しだけ時間を下さい。全力で彼女の事を調べ上げますから」
「頼んだ」
「それまで、貴方は待機ですからね? 絶対に余計な事しないでくださいね!」
「……どんだけ信用ないんだ、俺は」
「当たり前です! どんだけ私に心配かけさせるつもりですか! そうやって勝手な行動ばかり取って私を困らせるのはやめてください!」
「勝手って……」
今回の事はちゃんと雪花から了解を得た事だったんだが……。
ま、いいか。女の子に心配されるのは悪い気分もしないし。
「とりあえず、そろそろ時間になるから教室に戻っていいか? 午前の授業、完全にサボっちまったから午後くらいは出ないと」
「そうですね。さすがに同じクラスと言っても、これだけ人が多ければあっちも下手に手は出せないでしょう。優斗さんと葉月さんの席は離れてましたよね?」
「ああ、大丈夫だ」
俺は廊下側だし、葉月は窓側。近くから何かをされる問題もないだろう。
「それじゃ、とりあえず解散しましょう。さっきから保健室のドアを叩く音がうるさいですし」
「気付いてたんだな……」
「全く、酷い目に遭った……」
保健室から出るなり先生に何があったのと詰問されてしまった。しかも、運の悪い事にひょっこりと俺の後ろから顔を出した雪花の目は赤く腫れていて、ついさっき泣き止んだものだと一目でばれてしまった。
保健室で女の子と二人きり、しかもその直前まで泣いていた。これらの要素が組み合わさった結果、俺は再度保健室への入場となり先生にこっぴどく叱られたのであった。
「まぁ、雪花が誤解を解いてくれたのはいいけど……疲れた」
今日は朝から散々な目に遭ったもんだ。午後の授業もサボってこのまま帰ってしまおうかと思ったが、放課後は放課後でまた新聞部に顔を出した方がいいだろうから、そういうわけにもいかない。
「あっ! 竹原くん!」
教室に戻ると朝の女生徒が近づいて来た。
「大丈夫? 結構長かったけど」
「ああ、ちょっと寝過ごした」
「寝過ごしたって……こっちは心配してたのに」
呆れ顔で睨む彼女。しかし、それも数秒。小さくため息を吐くと今度は小さく笑顔を浮かべた。
「ま、その様子だったら大丈夫みたいだね、よかったよかった。君が調子悪いと季雨ちゃんも元気出ないしね」
「そうだな……」
ちら、と季雨の方を見る。そこにいるのは、やはり無気力なままどこかを見つめる季雨の姿。あの元気な姿はどこにもない。
そのすぐ側に葉月もいる。次の授業の準備でもしているのだろう。机の中から教科書を取りだしているところだった。
「……っ」
机から本を出したところで目が合ってしまった。
思わず睨みつけてしまったが、葉月はただ小さく笑みを浮かべたまま、前を向いてしまった。
「……」
目の前に犯人がいるのに何も出来ないのが悔しい。
今すぐにでもとっ捕まえて季雨の術を解いて貰いたいのに、それが叶わない。慌ててはいけないってのはわかるのだが、こうしてゴールが目に見えてしまうと落ち着かない。
……いや、駄目だ。
ついさっき雪花と話したばかりじゃないか。あいつの情報を待とう。
「どうしたの? 眉間にしわなんか寄せて……もしかして、まだどっか調子悪いとか?」
「あ、いや。なんでもないよ。気にしないでくれ」
言い終わるのと同時に始業のチャイムが鳴る。まだ、納得出来ていないのか彼女は「うー……」と、唸りながらも自分の席に着いてくれた。
「おっと、俺もか」
慌てて席に着く。
久しぶりの授業だったが、いつもの様に落ち着いて受けることなんか出来なかった。
「はぁ」
午後の授業も終わり。ついでにHRも終わり。今はもう放課後である。クラスメイト達も楽しそうに団欒しながら教室を後にして行く。ちなみに、季雨の姿はもうない。号令と同時にどこかに姿を消してしまった。
それにしても疲れた。午後の授業も変に気を取られてしまって全く集中出来なかったし。
「はぁー……」
もう一度、深いため息。出すと幸せが逃げて行くと言うが、多分間違いだ。幸せじゃないからため息が出るんだと思う。
「まぁ、いいや。新聞部行こう」
きっと雪花が何かしらの情報を持って来ている事だろう。
「……っと、これもなんか毎回恒例みたいになってきたな」
このまま、新聞部に居るのが普通になってきたらどうしよう。俺も新聞部の部員と間違われるのだろうか?
「まぁ、それでもいいか」
雪花と一緒に過ごしてからまだ数日。それでも、彼女の事は少し理解出来るようになってきた。あいつは、校内の生徒を怯えさせる事は出来るが、悪い奴じゃない。ずけずけと人のプライバシーに入り込むような奴だと思っていたが、実際はその逆だ。行動力はあるが、ちゃんと線引きはしてある。
そんな彼女と一緒に居て心地よかった。
もちろん、友達としてだが。
「これが終わったら、季雨と一緒に入ってみるか」
あいつなら雪花とも良い友達になれそうな気がする。雪花にはまだ言わないが頭には入れておこう。
だからこそ――
「ふふ、何が終わるのかしら?」
こいつをなんとかしないとな。
「なんだよ。さっきから教室の入り口で待ってただろ」
「そりゃ、もう色々言いたい事もありますからねぇ?」
「…………」
教室を見渡す。まだ、回りに人はいる。ここで大きな騒ぎは起こせないだろう。
「なんだよ」
そう確信した俺はとりあえず葉月の話だけでも聞いてみることにした。しかし、絶対に視界に数人の生徒を入れておくように行動する。それだけでも安全度はグンと上がるはずだ。
「とりあえず、今朝の事。ごめんなさい、貴方に怪我をさせるつもりはなかったの」
嘘を吐け。
心の中で悪態をつく。何の迷いもなく俺を殺そうとした奴が何言ってやがる。
「別にいいよ」
「ほんと! うれしいっ!」
不機嫌な態度で返事したにも関わらず葉月は両手を合わせて喜ぶ。それが、また完璧な笑顔だったのは気持ち悪い。嫌悪感すら感じてしまう程に。
「……そんなことはどうだっていい。それよりも本題はそれじゃないだろ」
「あらら、わかってたかしら?」
「要件はなんだ」
「まぁ、これを信じて貰えるかどうかわからないんだけど……」
髪をいじりながら、少し恥ずかしそうに彼女は言った。
きっと、誰にも想像出来ない事を。
「あの子達、元に戻そうと思って、ね」
「……それで、連れて来たんですか?」
新聞部の部室。そこで雪花は足を組んで座っていた。その表情はかなり険しい。
葉月の姿はここにはない。今は外で待たせてある。さすがに、彼女の許可なく、ここに入れるわけにはいかない。
しかし、それでも雪花の怒りは爆発してしまった。
「あんなに勝手な行動は慎めと言ったのに……」
「いや、俺じゃなくてアレは葉月が――」
「言い訳無用!」
バン! と机を叩く。ここまで怒っている雪花を見るのは初めてだ。小さい癖に迫力が……。
「なんか言いました?」
「いえ、なんでもないです」
「はぁ、それで? 葉月さんは元に戻すと、そう言ってるんですか?」
「ああ。信じて貰えるとは思ってないとも言っていた」
「当たり前でしょう!」
もう一度、大きく机を叩く。相当ご立腹らしい。
「彼女が今朝、何をやろうとしていたのか、忘れたわけではありませんよね?」
「当たり前だ。それに聞きたいのはそういう事じゃない」
だからこそ、俺は雪花に話をしに来たのだ。
「嘘か真か。そんなことじゃない。そんなの嘘だってわかってる。それよりも、あの言葉の裏、真意がなんなのか。それを聞きに来たんだ」
「聞きに来たと言われましても……。それは逆に私が聞きたいくらいで――っ!?」
言葉の途中で彼女が急に強張った表情でこちらを見る。いや、正確にはこちらではない。その後ろ。俺の背後を見て彼女は大きく目を見開いたのだ。
嫌な予感を感じた俺もそれに釣られるように後ろを振り返る。
「嘘に決まってるって酷くないかしら?」
そこには、やはり葉月の姿が。
「葉月……真黒…」
まるで、親の仇でも見ているかのような声で彼女を睨む。先ほど、俺を怒っていた時とは比較にならないような怒気。今のこの状況だけを見ると、雪花の方が人を殺してしまいそうな雰囲気だった。
「あら、私の名前をご存じなのね。それは良かった。話が早くて助かるわ」
しかし、そんな雪花を意にも返さぬ様子で葉月は話を進める。
……というか、この状況は不味くないだろうか。
現在、この部屋には俺と雪花、そして葉月がいる。他に人はいない。そう、目撃者がいないのだ。しかも、教室と違ってここには誰かが来るなんてことはない。なんせ、ここは天下の新聞部、皆、恐れを抱いている。なんの理由もなしに、いや、例え理由があったとしても簡単には近づかないだろう。
つまり、今ここで何をやらかしても決して気付かれない。
そう、例え人を殺したとしても……。
「雪花……」
「わかってます」
同じ事を考えていたのか。彼女は一歩後ろへと後ずさる。それに倣って俺も葉月から距離を置く。
「そんなに怖がらなくても……ま、いいか。大丈夫、ここで何かをするつもりはないわ」
はぁ、とため息を吐きながら制服のポケットをまさぐる。そして、取りだしたのは今朝も見た果物ナイフ。それを、葉月は机の上に投げ捨てた。
カランと音を立てた後、そのままスライド。ナイフは雪花の居る側の床へと落ちていった。
「これで安心でしょ? 話くらい聞いて貰えるかしら」
「……貴女がまだ何かを隠し持っていると言う疑いは晴れません」
「はぁ、それじゃここで裸にでもなったら信じてくれるとでも言うのかしら?」
「そうですね。そこまでして貰えれば私も信じましょう」
「何を話しても色々難癖付けられそうね」
諦めたように、もう一度大きなため息を吐く。
「じゃあ、いいわ。そのまま、警戒しながら聞いて頂戴な。さっきも言ったんだけど、私はあの子達の操りを解こうと思うの」
あれは、やはり葉月によって操られていたのか……。
しかし、どうして急に?
「訳が分からないって顔してるわね。まぁ、当たり前か……。実はね、急な事なんだけど、両親の都合で私、この学校とは明日でサヨナラなの」
「……は?」
「嘘じゃないわよ? そうよね、部長さん」
雪花の方を見ると猛スピードでキーボードを叩いていた。
「……はい。彼女は本当に明日で転校されるようになっています。転校先の学校にも手続きが行っていますし、まず間違いないでしょう」
「ね?」
それじゃ、本当に……?
いや、待て。これもあいつの罠なのかもしれない。簡単に信じるな。
「まだ信じてないみたいね」
「当たり前だ」
「わかった。じゃあ、貴方の彼女……季雨さん、だったかしら? あの子から先に戻せば信じてくれる?」
「…………」
「さっきも言ったけど、無言は肯定と受け取っていいのよね?」
「わかった」
「……っ!? 優斗さん!」
何を言ってるんですか! そんなことを言っているような顔をする。俺も同じだ。自分で自分にびっくりしている。だが――
「もし、あいつを元に戻してくれるなら、俺は信じてもいいと思う。こいつがどんな奴かはわかってる。だが、こんなあからさまな嘘をわざわざ言いに来たなんてのも考えにくいんだ。もし、俺が葉月の側だったらもっと分かりにくい方法を取るさ」
「季雨さんを元に戻して貰える。その言葉に焦ったわけではないんですね?」
「あぁ」
俺が頷くと雪花も同じように頷く。どうやら了承してくれたらしい。
「それじゃ、ここに彼女を呼んでもいいかしら? それともどこか別のところがいい?」
「優斗さんのクラスにしましょう」
雪花の提案に葉月は快く了承した。彼女からすれば別にどこでもいいらしい。
「それじゃ、そこにしましょう。メールはもう出したからすぐにでもこっちに来ると思うわ」
それだけ言い残して葉月は部室を出て行く。先に行って待っているつもりだろう。部屋には俺と雪花だけが残っていた。
「すまん」
何か言いたげな視線を向ける雪花に向かって俺は頭を下げた。きっと、雪花は怒っているはず。そう思ったからだ。葉月の方から話を吹っ掛けられたとしても、もう少しやり方はあっただろう。少なくとも、ここに連れて来る必要はなかったはずだ。もし、明確な殺意があれば俺だけじゃなく雪花まで巻き込む羽目になるかもしれなかったのに。「元に戻す」。その言葉を聞いて焦ってしまった。
雪花も怖かったはずだ。葉月のことが。
雪花に殴られても文句は言えなかった。
それなのに――
「良かったですね。優斗さん」
雪花は心の底から祝福の笑顔を浮かべてくれた。
「怒らないのか?」
その言葉に彼女は目をぱちくりとさせる。
「怒るって……あぁ、私を危険な目に巻き込んだ事ですか? んー、まぁ反省はして欲しいです。正直、かなり怖かったですし」
「すまん……」
もう一度、頭を下げると彼女は慌てて両手を前に出す。
「あーいやいや! 謝らないで下さい。もう大丈夫ですし、それに私、信じてましたから。貴方のこと」
「雪花……」
「私のことを信じてくれた貴方と同じように、私も貴方のことを信じてますから。守ってくれるんでしょ?」
恥ずかしそうに、だけどはっきりと彼女はそう言った。言われるこっちも恥ずかしいから余りそういうことは言わないで欲しい。
……嬉しいけども。
「えへっ! 今、すごい恥ずかしいでしょ?」
「うるせぇ」
顔を赤くしながら笑う雪花。俺も同じくらいに顔が赤いことだろう。
「ったく、先に行ってるからな」
「あ! 待って下さいよ!」
その照れを隠すように、俺は一足先に新聞部の部室を後にしたのだった。
ありがとう、雪花。
「…………」
教室に行くとすでに葉月の姿があった。そしてもう一人。
「季雨……」
生気の無い目をした季雨がそこには居た。葉月の隣でまるで彼女の人形のように立ち尽くしている。
「あら、遅かったじゃない。どこかでいちゃいちゃでもしていたの?」
「いいから、早く季雨を元に戻せ」
やれやれと言う風にため息を吐いた後、葉月は季雨の両目を隠すように手で覆う。これは以前、雪花と一緒に見た催眠術と同じ光景だ。そのまま、頭をぐるぐると回す。
「……本当にそれで解けるんですか?」
「いえ、今は新しい術を掛けてるとこよ」
「おい、話が違うじゃ――」
怒鳴ろうとする俺を葉月は片手だけで制す。
「ちゃんと解いてあげるわ。でも、これまでの記憶も消させて貰う。捕まるのはごめんだもの」
「……いいんですか? 優斗さん」
「ちゃんと元に戻してくれるならな」
別に捕まえるつもりはない。いや、多分、出来ないだろう。それくらいの証拠はとうに潰しているはずだ。だから、俺は季雨さえ無事ならそれでいい。
「ありがと♪」
ウィンクをしてまた施術に入っていく。
俺達は、ただこいつの気まぐれで季雨を壊さないように願う事しか出来なかった。
それから十分が経過しようとしたところだろうか、葉月がパンと手を打って季雨から離れた。
「終わったのか?」
「ええ。私がこの教室を出れば元に戻るはずよ。ここに私がいたら迷惑になるでしょう? それに、さっきから凄い睨まれてて恐ろしいのよね」
雪花を見ながらそんな事を言う。それに対して雪花も先ほど以上の殺気を出しながら葉月を睨む。もう一瞬でもこの場で呼吸して欲しくないといった感じだ。
「そういうわけだから、私は退散するわ」
手をひらひらと振りながら葉月は教室を出ようとする。だが、そんな彼女の肩を掴んで止めた。一つだけ、聞きたいことがあったからだ。
「……? なにかしら?」
「お前は、あっちに行っても同じ事をするのか?」
「さぁ、同じ事をしてもつまらないしやらないんじゃないかしら? ああ、でも何か面白いことを思いついたらまたやってしまうかもね」
「そうか……」
「満足? それじゃ、私はこれで」
肩から手を離してやると、彼女は今度こそ教室を後にした。
「……本当にこれでよかったんですか? あっちでも、もしかしたら被害が」
「わからない。でも、全てがあいつの思惑通りに進むことなんか有り得ない」
そうだ。いつか失敗する時が来る。その時が葉月の最期だろう。それまで、一体どれだけの人が不幸な目に遭うのか、俺には考えもつかないが……。
「うっ……」
葉月が部屋を出て少しして、ぼーっとしたままの状態だった季雨が小さく呻いた。
「季雨!」
慌てて駆け寄ると季雨は瞼を擦りながらこちらを向いた。最初の内は寝ぼけたままの虚ろな表情だったが、それも徐々にはっきりとしていく。
「んーと……? おはよう?」
「季雨っ!」
「うわわ! な、なに! 急に抱きしめて来て! 発情!? 発情期なの!?」
久しぶりの季雨の違う表情。いや、今までは表情すらなかったんだ。やっと彼女に感情が帰って来た。本当にそんな気持ちになる。
「……も、もう。駄目だよー。こんなところで」
そう言いながら、俺を押しのけようとはしない。ただ、ぎゅっと抱かれ続けていた。
「んー、よかった。よかったですね」
「はひゃっ!? ほ、他にも人が!?」
雪花の声を聞いた途端、慌てて俺の腕をすり抜ける。まさか、俺達の他に誰かがいたなんて思ってもいなかったのだろう。
「ゆ、優くん! 駄目だよ、人がいるとこであんなことしちゃ!」
顔を赤らめながら俺に説教する季雨。後ろを向いているから季雨はわからないが、雪花は今にも泣きそうだった。口には出さず、片手だけで感謝の意を表す。それに対して彼女も小さく笑って手で返してくれた。
そのまま、雪花も静かに教室を去る。後で、メールでもしておこう。
「もう、優くん! ほら、さっきの人にも謝ら――あれ?」
「もう、帰ったぞ?」
「私達の破廉恥行為が校内に晒される!?」
「んな訳あるか」
というか、もう少し感動に浸りたいのだが……。そんな心の声も空しく彼女はいつものように話しかけて来る。
「それで、もう放課後なんだよね? よく覚えてないんだけど」
「時間見てみ」
「ん……うぉ! なんでこんな時間経ってるの! というか、私達何してたの?」
「寝てたのを起こしに来た。それだけ」
「それだけ? うーむ……」
納得していなさそうだ。しかし、本当のことを言うわけにもいかないので、ここはその嘘を押しとおす事にする。
「本当だよ。お前いくら揺すっても起きないんだもんな」
「えー……。そんな寝てた? あぁ、でもなんか快適な朝の目覚めって感じするかもぉ……もう夕方だけど」
「だろ? 寝てたんだって」
「そっかー。ん、ごめんねぇ。付き合わせちゃって」
どうやら納得してくれたらしい。
「よし、んじゃ帰るか」
「うん!」
大きく頷いた彼女と共に教室を出る。もう人の気配は感じない。校庭から聞こえる運動部の声も。気付かない内に長い時間が経っていたようだ。
ここには、もう俺達の二人しかいない。
「誰もいないね……」
「そうだな」
昨日の俺が同じ光景を見たら、これを寂しいと感じたのだろうか。きっと、感じたのかもしれない。その時には、まだ隣に大切な人がいなかったから。
だけど、今は違う。
俺の隣には大切な人が笑ってくれている。そう、全部終わったのだ。俺と季雨の問題は、全て。そして、その元凶も明日にはいなくなる。もう、これ以上何かをされるなんて事はないだろう。
「あ、そういえばさ。こないだのデートの日、ごめんね? 私、調子悪くて行けなくて……」
「あぁ、気にすんな」
季雨の中ではそうなってるのか。葉月の言う通り、放課後から先の事に関しては彼女の記憶はなくなってるようだった。
「ん、それでね。今週も仕事休もうと思ってるんだ」
「いいのか?」
「うん。だって、折角のデートを私が壊しちゃったんだもん。これくらいしないと。優くんは予定、大丈夫かな?」
「もちろん」
心配そうに見上げる季雨の頭を撫でてやる。
それだけで、季雨が帰って来たという実感が湧いて来る。幸せだ。
「じゃあ、仕切り直してまた来週だな」
「うん! と、その前に明日も大事なイベントがあるってこと、忘れないでよね?」
「大事なイベント?」
首をひねる。そんなもんあったか?
「あー、もしかして忘れたのぉ?」
俺の表情を読み取った季雨がふくれっ面になる。
「すまん。ここんとこ色々忙しくてな……」
「一介の学生である優くんがそんな忙しい目に遭ってる訳ないでしょー」
実際、凄い大変な目に遭ったんだけどな……。殺されかけたりしたし。しかし、その事を彼女が知ることはない。故にどんな理由があろうとも悪いのは確実に俺なのである。
「もう、明日は何日ですか?」
「何日? えーっと……」
咄嗟に答えられなかった俺はポケットから携帯を取りだす。そう言えば、こうやって日付を確認するのも久しぶりな気がする。季雨がおかしくなって何日経ったっていう現実を見たくなくて、目を背けて来たからだ。
そんな後ろ向きだった視線を前に戻して初めて見た日付。そこには二月十三日と書かれている。
そこから、一日足すのだから明日は……。
「あぁ」
そこで思い出した。明日はバレンタインか。
「もうそんなに経ってたのか」
「なんか優くんおじさんみたいなこと言う様になったね」
あれだけの事件があれば嫌でも老けてしまいそうな気がする。
「まぁ、そういうわけだからさ! 楽しみにしといてよ! 明日は凄いの用意しておくからさ!」
「ほう、全身チョコレートの季雨とかか?」
「別にいいけど、皮膚が爛れた私が好みなの?」
「ごめん。なんでもないです」
「よろしい」
帰って来た日常。
それを深く噛みしめながら、俺達は夕方の帰路につくのだった。
次の日。つまりバレンタイン当日。
久しぶりに季雨と登校した俺は迷惑を掛けたクラスに謝って回った。何のことかわかってない季雨もクラスの皆の反応に困惑しながらもなんとか話を合わせていた。
その中、葉月だけはいつものように静かに窓を眺めていた。俺達もあいつには話していない。刺激を与えるべきではないと思ったからだ。触らぬ神になんとやら。彼女の事は視界に入れず俺達は日常を楽しむ事にした。
ちなみに、雪花には朝の内に会って説明をしておいた。
季雨の様子が別段変わりなかったことにまるで本人のように安堵した様子だった。その後に聞いた話なのだが、どうやら他の被害に遭った人達も全て元に戻ったらしい。
雪花の情報だから間違いないだろう。
あとは、この一日が去れば葉月はこの学校からいなくなる。全てが元通りになりつつあった。
その事を唯一知る俺と雪花はその場でハイタッチを交わして解散となった。その際、何か言いたげだったが、教室に季雨を置いて来ているので、その場で聞く事はしなかった。何かあればメールなりなんなりで伝えて来るだろう。
そんな日常は本当に一瞬で気が付けば昼休み。
「季雨、一緒に食おうぜ」
「うん、いいよー」
お互い頷きあってから学食へと向かう。季雨は弁当を作って来ているのだが、俺は残念ながら学食なのだ。この話をすると毎回、季雨に「お弁当作ればいいのにー」と言われるのだが、正直、それだけの為に貴重な睡眠時間を削るのは勘弁だった。
別に学食の料理だって不味いわけではないから、今の現状に不満もないし。
「やっぱ、大盛況だよねー」
昼休みのこの時間。学食はほぼ満員状態だった。
「じゃ、私が席を確保してくるから優くんは早く買って来ちゃってー」
「おう」
その返事と共に俺は券売機の列へ、季雨は席を探しに別れた。
そして、五分後。
「いただきます!」
「いただきます」
二人揃って両手を合わせる。
俺の目の前にはうどん、季雨の前には色合いの整った弁当がそれぞれ置かれている。
「優くんは、うどんなんだ?」
「寒いしな」
「あーわかる。寒い日は暖かいの食べたいよねぇ」
そう言う季雨の弁当は明らかに暖まってるとは言えなかった。というか、弁当って基本的に保温はしてくれるが、常にあったかという訳ではないからな。湯気が出る弁当ってのも聞いたことないし。
「んじゃ、少し食うか?」
「うん、食べるー!」
季雨の方に丼を寄せて食べやすいようにしてやる。そこから季雨は麺を一本だけ取って口に入れた。
「あぁ、あったまるねぇ……」
「食べた途端、おばあちゃんみたいになったな」
「な! 失礼な! 私はまだまだピチピチですー!」
ピチピチって……。
「そんなことより、はい! うどんくれたお礼」
そう言って自分の弁当箱からひょいとから揚げを取りだし、それをそのまま丼の中へ――
「って、ちょっと待て! そこに入れんのか!」
「から揚げうどんだね」
「釜揚げうどんみたいに言うんじゃない。てか、うどんの上にから揚げが乗ってるなんて聞いたことないぞ」
「うどんの上にコロッケが乗ってる時代だから探せばありそうだけどね」
「マジか」
それ、美味いのか? 衣がつゆ吸ってびちゃびちゃにならないのか? いや、逆にそれがいいのか?
「隙あり!」
「おい!」
そんなくだらない事を考えていた隙を突かれ季雨のから揚げが俺のうどんの中にダイブしてしまった。
「やられた……」
「ちゃんと食べてね♪」
「はぁ……」
まぁ、食べなかったら食べなかったで季雨は怒るだろうし、怒らせたら怒らせたでまた面倒になるだろうし。仕方ない。
つゆを吸ったから揚げを箸でつまみ上げてそのまま口へ――
ピンポンパンポーン
運ぼうとしたところで校内放送が流れた。思わず箸の手が止まる。
そういえば、いつもなら放送部がラジオっぽい何かをやっていた気がするんだが、今日は随分と静かだな。
学食が予想以上に賑わっていたせいで全く気付かなかった。遅刻でもしたのだろうか。
「あれ? 放送鳴らないねぇ?」
季雨も疑問に思っていたのか首を傾げる。
なんだ? なにか嫌な予感がする。これは一昨日に感じた予感。葉月に会おうした時に感じた恐怖と同じだった。なんだ? 何が起こる?
スピーカーの無音の静寂。気味が悪かった。
「……優くん?」
『ごきげんよう、皆さま』
心配した季雨が話しかけてくるのとスピーカーから発された声はほぼ同時だった。学食内の生徒のほとんどが何事かとスピーカーの方に目をやる。
『お昼休みの最中失礼致します、私は葉月。知っている方も多いのではないでしょうか』
この声、やはり葉月か……。なんだ? 何をするつもりなんだ?
身体中から嫌な汗が流れる。こいつは、また壊すのか? 俺達の日常を、めちゃくちゃにしていくのか?
その不安を具現と化すように、葉月は言葉を続けていく。
『実は、残念な事に私は今日でこの学校とさよならしなくてはならないのです。寂しいです。私はきっと長い時の積み重ねでこの学校での生活を忘れてしまうでしょう。いえ、忘れなかったとしても、きっとぼんやりとした物になるはず……。ですから、考えたのです。絶対に忘れない方法を』
「ね、ねぇ。優くん……」
不安そうな眼差しを浮かべる。それは、俺だって同じだ。いや、俺達だけじゃない。ここにいる生徒全員が同じような表情をしていた。
皆、感じ取っているのだ。彼女の異常性を。非常識さを。恐れてる。全ての人間が、彼女を。
今から止めに行けば間に合うのだろうか? 葉月が何かをやろうとしているのは確実だ。
しかし、俺が動けば季雨も必ず着いて来る。葉月と季雨を会わせる訳にはいかない。いや、危険な目に季雨を遭わせる訳にはいかないのだ。
だから、動けない。もし、何かあった時、俺は彼女を守らねばならないのだから。
未だ心配そうに見つめる季雨の頭を撫でてやる。安心させるように。そして、自分も安心出来るように。
『その方法を今日ついに実行出来る日が来るのです。パーティです。パーティ! あはっ!アハ、ハハハハハハハ!』
「……な、なに? なんなの? 優くん、怖い! 怖いよ!」
「大丈夫だ……」
自分でも嫌悪するくらい安直な言葉。大丈夫な訳がない。それは俺自身が一番良く知っている。こんな気休めにもならない言葉しか掛けてあげられない自分に腹が立つ。
そんな俺達を知ってか知らずか、葉月は本当に愉快に、楽しそうに、言葉を続ける。
『さぁ、始めましょう! 皆さんもどうかご一緒に! さぁ――』
『血祭りです!』
その瞬間。俺の世界は静寂と化した。あれだけ騒いでいた生徒が、皆、無表情で宙を見つめている。表情が抜け落ちた顔。それには見覚えがある。忘れる訳がない。だって、それは、つい昨日まで見ていたものなのだから。
「あいつ……っ!」
またやりやがった。しかも、今度は校内全域に! どこからも声が聞こえない。小さな息づかいだけが響いている。自分以外、誰もいないのではないか。そんな錯覚に陥るくらい。
俺の側で何かがゆらりと動いた気がした。
「季雨……」
さっきまで恐怖に怯えていた顔が今は口をぽかんと開いて虚ろな視線を向けている。幸せだった時間はたったの一瞬、状況は再び地獄へと一転した。事態がさらに悪化した状態でだ。
「……?」
ふと、どこからか物音が聞こえてきた。不気味な程に静かな空間だ。小さな音でも響き渡る。
「なんだ?」
カチャカチャと金属がぶつかるような音が聞こえる。これは……厨房?
耳を澄ます。確かにそれは、厨房の奥から聞こえて来た。他の生徒が全く動かないところを見ると俺と同じように術に掛からなかった人間なのだろうか。だったら、協力を仰ぎたい。
ボーっと立ち惚ける季雨を残して厨房の方へと向かう。
しかし、そこで疑問が浮かび上がる。
なぜ、この異常事態にも関わらず、その主は声を一つもあげていないのだろうか。さっきも言った通り、今のこの食堂は音が響く。それは小さな金属音でさえも拾ってしまう程に。
なのに何故、その音の主は悲鳴一つもあげないのか。
「…………」
悪寒が走る。違う。そこにいるのは協力者でもなんでもない。
「キャアアアアアアアアアアアッッ!」
その瞬間、厨房内に悲鳴が轟く。普通の悲鳴ではない。狂乱したような、とにかく異常な悲鳴だった。その悲鳴に腰を抜かし掛けるが恐怖を振り切って厨房の中を覗きこむ。
そこで、後悔した。
気付くべきだったのだ。狂乱した悲鳴と共に別の音が聞こえていた事を。
ボタボタと、何かの液体が床に落ちている音を。
そこに居たのは……自分で自分の喉を引き裂いている食堂のおばさんだった。手に持ったナイフで何度も何度も自分の首を刺し続ける。それを引き抜く度に鮮血が飛び床を赤く染めていく。
刺す度に劈き響く悲鳴も回数を増す毎に小さくなっていく。その代わりに彼女の息に空気が混ざる様になる。
「…………」
本当の恐怖を目の当たりにした時、声が出ないということをその時初めて知った。頭からつま先まで金縛りにあったように動かないのだ。動くのはガチガチと鳴る歯と、無理矢理にでも息をしようとする喉くらい。
目は現実を見ている。しかし、脳にまでその情報が送られて来ない。実感が湧かない。これは夢なんじゃないかと疑いたくなる。
だが、これは疑いようもなく現実だ。
噴水のように飛び散る血液。それが顔に付着する。生ぬるい感触と鉄の味。そして、漂う血生臭さ。こんなリアルな感覚が夢であろうはずがない。
気付けば悲鳴は消えていた。
その主が赤い水たまりの中に顔を下にして沈んでいたからだ。まだ身体は痙攣を起こしていたが、しばらくすればそれも収まるだろう。
助ける事なんて出来るわけがなかった。
自分で自分の悲鳴を抑え込むのが限界だった。悲鳴をあげてしまったら俺はきっとここから逃げ出す。季雨を置いてでも逃げ出してしまうと直感したからだ。それでは、約束を果たせない。俺は彼女を守らなくてはならないんだ。
静かに横たわる彼女に背を向けて俺は季雨の元へと駆け出した。
厨房から食堂に戻っても生徒達の様子は変わらなかった。
ただ、どこでもない宙を見上げぽかんとしているだけ――ではなかった。
「お、おい……」
俺が目を離した隙に食堂にいるほとんどの生徒が刃物を手に持っていた。
ふと、さっきの葉月の言葉を思い出す。
『血祭りです!』
もし、もしだ。この血祭りというキーワードで催眠術に掛かっているとしたら、そしてさっきのおばさんも同じようになっていたとしたら……。
葉月がやろうとしていることは一つしかなかった。
「ちょっと待て――」
その答えに辿り着いた瞬間だった。テーブル席にいた男子達が自分の首にナイフを向ける。
止める暇もなかった。彼らはそのまま呼吸をするかのように自分の喉にナイフを突き刺した。
血が舞う。奇声が響く。それに呼応するかのように食堂にいる生徒が順々に自身の首へ刃物を突き立てていく。
正に地獄絵図だった。白い壁も緑の床も透明なガラスも全てが赤い液体で塗り潰されていく。
「き、季雨! 季雨!」
恐怖している時間はなかった。そんなことをしている場合ではない! 食堂の人間が全てこうなっているのであれば、それは季雨にも通じると言う事だ。なら、彼女ももちろん同じように……。
「季雨!」
俺の予想は当たっていた。他の生徒と同様、彼女もまたいつの間に用意されていたのかわからないナイフを手に持っていた。切っ先を喉へと向けて今にも突き刺そうとしている。
その腕を無理矢理掴み下へと向ける。そのままナイフを落とそうとするが強い力で握っているのかナイフを奪うことが出来ない。
「季雨! 目を覚ましてくれ!」
強く呼び掛けると虚ろな目がこちらを向いた。
「ゆう……くん?」
寝ぼけたような声で俺の名前を呼ぶ。
「季雨! 頼むから早くそれを――」
しかし、言い終わる前に季雨は俺の身体を押す。女の子とは思えないような力に思わず季雨から身体を離してしまった。掴んでいた腕も季雨は振りほどく。
「ごめんね、優くん」
ナイフを自分へと向けた少女はそう呟いた。
「これ、真黒様の命令だから……」
そして、俺の声の届かないまま。
葉月の人形になったまま。
デートも、出来ないまま。
季雨は、俺の大切な人は、自分の喉へ、その切っ先を突き付けた。