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論理の国  作者: 七つ夜
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ある日の思い出

 ――西暦1999年8月10日 帝都・東京


 日の光を受けては照り返すアスファルトが、道行く人々から貴重な水分を奪っていく。

 ゆらりゆらりと立ち上って現れる陽炎は、もっと大切な――精神と生気を根こそぎ削り取っていく。

 ニュースによると、今日の帝都の最高気温は35度らしい。記録的な猛暑……そんなことをアナウンサーが言っていたっけ、と更に気が滅入るようなことを思い出しながら、コンクリートに囲まれた熱帯の中を歩いてゆく。

 汗が顎から額から滴り落ちて。どうにも気持ちが悪かったから、腕で額の汗を拭った……が。案の定、とめどなく溢れ出る汗の前では全くそれは意味を成さず。ああ、シャワーを浴びたい、海に飛び込みたい。信じられないことに、考えれば考えるほどその願望は視界の中に鮮明に映りこんできた。

 はああ、と体内の熱を外へ吐き出す。ついでに、この素晴らしき妄想も。

 砂漠めいたこの場所のせいで、脳が現実逃避を始める始末だ。

 『思考と歩みは止めてはならない』。家訓であるその言葉を思い出して、なんとか此方に踏みとどまった。

 確かに、こういうときに頭も身体も止めてしまったら……間違いなく、オダブツだろう。結構実用的な家訓でなにより。命拾いしたよ。

 よし、何かどうでもいいことでも考えよう――そう、魚のことがいい――いかにも涼しげだ――。

 清らかな水の流れ――湧き出る水の音――冷たい感触――。

 ……っと、いけない。あやうくトリップしてしまうところだった。流されるんじゃない、考えるんだ。魚、魚、魚――。

 鮮魚売り場のBGMを副産物的に思い出しながらも、さて、何かの本で読んだかな……と、また記憶の引き出しを開ける。

 ……そう。例えば、アマゾン川だ。そこに生息している魚は、所謂『熱帯魚』と呼ばれている。グッピー、ピラニア、アロワナ――記憶は定かではないが、こんなところか。

 それらの熱帯魚は、今の帝都と同じ水温の水槽で飼っていると茹だって死んでしまうという。

 いくら熱帯域であろうと、水の中は幾らか温度が低くなる。だから、彼らは実質亜熱帯以下の水温でないと生きられない。

 今の帝都の気温は、熱帯に生きる生命までも殺すほどの威力を持っている、ということだ。

 ……って、余計に心が折れてしまうようなことなんて考えちゃあ駄目だろう。

 くそ、と心の内で暴れまわる。椅子を投げ、机を叩き、地団駄を踏む。――ああ、そろそろ本気でマズいかもしれない。あっちとこっちの区別が曖昧になってきたぞ。

 「うー」だの「あー」だの、不気味に呻いて熱を吐いては、また吸い込む。全く、万物の流転なんてクソくらえだ。

 ……そうして毒を吐いているうちに、目的地である建物が視界の中に小さく映っていた。


 ……さて。わざわざ冷気の充満する事務所を出て、こんな灼熱地獄の中へと、か弱き身体を赴かせたのには流石に理由がある。俺の命は、タダでくれてやれるほど安くはないし、そうそう簡単に死んでやるつもりもない(死んで月世界に昇るときは「タバコ……一本、火ぃ点けてくれねえか」と瀕死の重傷を負いながらも部下に対して弱音を吐かずに格好良く一言くれてやる、そんなハードボイルドに殉ずると心に決めている。未だ部下の一人もいない今の状況では、まだ三途の川をちらと見ることさえも早すぎるというものだ)。

 ――さてさて、本題本題。

 今日、俺は友人と会う約束をしている。「行きつけのバアなんだ。俺の奢りで一杯どうだい」というような気の利いた誘いではなかったが、一応大切な友人との約束ということで、この暴力的熱帯域の中を歩いてきたのだ。

 「……さあて、面倒くさい話じゃなけりゃいいんだけどね」

 目の前には、『喫茶店・アリス』と書かれた看板。

 へえ、趣味がいいじゃないかと思いながら、俺はその隣にあった扉を開けた。


 ◇◆◇


 店の中は、心地いい冷気に満たされていた。

 ほの暗い照明に、木目をあしらったダークブラウンの壁紙。落ち着いた雰囲気の、いい喫茶店だ。店内に三つしかない窓から微かに差し込む日の光がまた、情緒があって大変よろしい。

 カウンター席が入り口の近くに六つ、その向かいと奥とにテーブル席が1つ2つ……8つほど。

 お客のプライベートを気遣っているのか、テーブル席とテーブル席の間には細い柱が立っている。――なかなかに、気の利いた店だと思う。

 「よう、元気そうだな倉井戸くらいど

 そんな中でのうのうと挨拶なんぞをしてくる友人に、無性に腹が立った。

 「そうか、俺が元気に見えるか、綾辻あやつじ。あと苗字で呼ぶな、嫌がらせか」

 そう、俺はこの倉井戸という苗字に少なからずコンプレックスを感じている。

 小さい頃はよく苛められたものだ。

 「はは、悪かったな禮人れいと。久々だったから、言ってみたくなっただけさ」

 ――この男に。

 「『暗い』、『井戸』って、そんな名前があるかよー!」

 「心の傷を掘り返すな。今日という今日は怒るぞ、今の俺は怒らせたら怖いんだからな?」

 そう。今の言葉は冗談だが、あながち間違いでもない。75パーセントほどは真実だ。

 そもそも、今日はそのことについて話すために此処に来たのだ。それなりに緊張もしつつ。

 ……しかし、7年ぶりに耳にした、この同窓会めいたやり取りは、なんともまあ心の安らぐものだった。――これから、私を捨て『論理』に生きなくてはならない身としては。

 「まあ、座れよ」

 綾辻が自分の前の席を勧めてきたので、向かい合う形でテーブルにつく。

 「……コートも、脱いだらどうだ」

 「いや、これだけは譲れない」

 「……そうか、相変わらず変人のようでなにより」

 人を変人扱いとは失礼な。そもそも、これが俺たちの正装だろうに。

 「……まあ、いいや。そう言われるのは慣れたから」

 さて、と礼儀として一言。

 「――おめでとう、綾辻。まさかお前が……」

 「まあそう焦るなよ。ほら、コーヒーきたぞ」

 店員がトレイに乗せてコーヒーを運んでくる。

 どうぞ、と渡されたので、ありがとう、と返す。

 俺の言葉を受けて微笑んだ店員はトレイを抱えて、カウンターの向こうへと歩いていった。

 「……これ、お前の奢り?」

 「ああ、もちろんさ。――さて、仕切りなおそうか」

 綾辻は、手元にあったグラスを持ち、こちらに少しだけ差し出した。

 俺もそれに倣って、グラスを持って差し出す。

 「「――第一級特別高等探偵試験の、互いの合格を祝して」」

 ちん、と互いのグラスが音を立て。

 「「乾杯!」」



 ここ、大日本帝国は1999年現在……天皇による君主制が敷かれる極東の島国として世界に知られている。

 またの名を、『論理の国《the logical kingdom》』。――これは所謂俗称というものだが――その名の通り、この国では論理が何よりも優先される。公正かつ厳正な判断――それこそがこの国のモットーである。

 そんな国なのだから、もちろんのこと法を扱う者の地位は高く設定されている。裁判官、検察官、弁護士など……そこに関していえば他の国と大差は無い。

 ただ――一つだけ、特殊な機関がある。この大日本帝国が唯一導入している制度――。

 それが、『第一級特別高等探偵』――つまりは、探偵という職業を国が直々に抱えているのだ。



 コーヒーを飲み干して、綾辻が口を開く。

 「ふう……勉強し続けた甲斐があったよなあ、まさか、こんなことになるなんて……」

 なんだよ、らしくないな。もっと強気な奴だと思っていたんだが。

 「まあ、当然のことだとは思ってたけどね」

 俺に至っては、探偵試験は受かって当然のことだったから。

 由緒正しい、倉井戸家の次男坊。それが俺の全てだから。

 「お前って本当に変な奴だな……普通、泣いて喜ぶところだぞ?」

 「そういうお前は泣いてないじゃない」

 「ああもう、言葉の綾だよ言葉の綾!口ばっか達者になっちゃってさあ、昔はそういう感じじゃあなかったぞ、禮人」



 そして――『探偵』やその他司法機関に属する全ての者に適用される一つの事項がある。

 それは。



 「そういう感じ、って――論理的じゃないぞ」

 「……おいおい、今は勘弁してくれ。そんな義務に縛られてたら頭がどうにかなりそうだ」

 大げさに溜息をついてみせる綾辻。

 ふっ、とそれを見て笑う俺。

 綾辻の目を見て推し量る。

 ――きっと、こんな当たり前ができなくなるかもしれないなんて、今は考えたくないな……なんて思っているのだろう。

 ……甘い奴だ。



 ――『一切の感情を排する義務』。

 人を裁くものが人であってはならない。――つまりは、そういうことだ。

 この義務こそ、『論理の国』を『論理の国』たらしめている所以である。



 日が暮れる。

 綾辻と別れ、昼とは全く違う気温に驚きながらも俺は帰路についた。

 ――『論理的に生きる』ことを定められた、倉井戸家の呪い。

 その理念を間違っているとはいわない。

 ただ……その呪いが故に、友人の悩みに共感できない自分に苛立ちを覚えた。


 ◇◆◇


 そう、これはそんなある日のことで。

 俺は、そんな日もあったなと今でも時折思い返すのだ。


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