8
朝日もまだ顔を出さない、早朝。隼人はまた、屋根の上に上がっていた。
本来、雲じいの仕事を代行する為にやってきた隼人には、こなさなければならない仕事があった。一週間分与えられたノルマ。これさえやっておけば、後は自由にしていいと、雲じいは耳打ちしてくれた。
雲を描く、こんな仕事があることに、隼人も最初は驚いた。子供のお絵かきみたいなものなのかと思っていたが、仕事に就いてからその大変さを理解した。実際、雲じいはいとも簡単に雲を描く。神様会議で決められた通り、雨じいや風ばあの要望に沿ってそれらしい形になるように描かなければならない。隼人も天界での修行中、繰り返し繰り返し雲を描き続けた。しかし案外難しいことに、周りに元々ある雲と似せなければ不自然になってしまうし、かといって描くのに失敗して雨が降らないような雲を描いても仕方がない。
筋がいい、とみんな褒めてくれたが、どんな仕事でも、やっぱり難しいんだなぁ、とアルバイトの経験もない隼人は感心し、雲じいや他の先輩天使の仕事ぶりを尊敬した。
懐から件の絵の具の缶を取り出し、指にとる。いつみても不思議だ。もうだいぶ慣れたが、蜂蜜のようでいてべたべたせず、高級な絹のような感触でいて指に吸い付く絵の具。無色透明だからこそ、気合を入れて集中して描かなければ、思う通りの色は出ない。
夜明け前の空。透き通るような黒。細く弓のような下限の月。かすれるような群青色の雲の群れが、遠くを流れていく。煌めく星々に被せるように、隼人は指を滑らせた。
するりと伸びていく、薄い青。夜の雲は色を出すのが難しい。闇に紛れるように、トーンを暗く押さえなければならないからだ。
隼人はひとつ息をついて、次の雲を描く。次は、雨雲に成長させる種雲だ。これが一番難しく、実はまだ、満足のいく雲が描けたことがなかった。
静かに気合を入れて、とん、と空を押すように点を打った。
「あ、描けた」
ぽつりと漏らすように呟く。成功か失敗かはすぐに分かる。これは、成功だ。
隼人は思わず会心の笑みをこぼした。
遠くに浮かぶ星のような一点。この小さな小さな塊が、風に流され、水蒸気を吸収し、大きくなって雨を降らす。
「……不思議なものだよなぁ」
知らないこと、驚くようなことがたくさんあった。当たり前のように存在している世界は、様々な営みが重なり合ってその形を作っている。自分達の理解の及ばない、途方もない力が、何らかの意思を持って世界を動かしている。
「僕もそっちの仲間、なんだよな」
隼人は自分の手を見つめた。皺のない、人形のような手。血の通わない、冷たい手。感覚はある。生きていたときと変わらない、触れる感触。
なんだか疲れた気がして、隼人はため息をついて屋根に寝転がった。
本当はため息をつくことさえ、自分でそう感じているだけでおそらく息はしていない。鼓動もなく、脈拍もない身体が、呼吸を必要とするのだろうか?
寝転がったまま、右手を空に透かすように、顔の前にかざした。つい昨日まで、空が透けて見えた自分の手。飾りのようなきれいな爪が、弱弱しい月の光を反射して光り、白い手が闇の中にぼんやりと浮かび上がる。
本当は、絵の具のためではなく、必要だった身体。
実体がなければ、触れられないひと。
アキ
ないはずの心臓が、とくんと音を立てたような気がして、隼人は身を起こした。
左の胸を押さえて確認する。……何の音もしない。
「……冗談じゃないよ、早すぎるだろ」
浮かぶのは、焦り。
隼人は胸をドン、と叩いて、これ以上苦しませないでくれ、と願った。……誰にでもなく、願った。
だいぶ日が高くなり、蝉が鳴き始めた。耳に心地いいとはいえない蝉の声に、アキは重い瞼を上げた。しばらくはそのままでぼーっとしていたが、はっ、と気がついたように、ベッドから跳ね起きる。
パジャマのままで一階へ駆け下り、ぼさぼさの髪を振り乱し、居間の障子を開けた。
「あ、アキ、おはよう」
隼人は朝食の準備を手伝い、皿を食卓に運んでいるところだった。爽やかな笑顔で挨拶をされ、アキはその場にへなへなと座り込んだ。
「……お、おはよう」
隼人が、いる。夢ではなく、現実に。
思わず大きなため息をついたアキに、隼人が近くに寄ってきた。
「アキ? 大丈夫? 気分でも悪い?」
心配そうに覗き込んでくる隼人に、アキは慌てて首を振った。
「ううん、大丈夫。何でもないの」
そう言って立ち上がり、照れくさそうに笑うアキを、隼人はそのやさしい空気で包み込んでくれるようだった。
「おーい、隼人、こっちも持ってってくれるか?」
台所からハルの声が響く。
「はーい」と返事をした隼人は、アキの髪を撫でて言った。
「アキ、頭ぐちゃぐちゃだよ。ご飯だから、着替えて顔洗っておいでよ、ね」
まるで小さい子供の面倒をみるようだったが、どんな言葉でもアキは心底嬉しかった。うん、と元気よく頷くと、洗面所へ向かって走っていく。
隼人が、いる
それだけのことが、アキをこの上なく上機嫌にしていた。洗面所の鏡を見れば、隼人に言われたとおり、どう寝たらこんなになるのかというほど、髪はぼさぼさになっていて、アキは慌てて櫛を手に取った。こんなところを隼人に見られてしまうなんて。
ばたばたと走り回って、ようやく見られてもいいくらいに身なりを整えたアキは、今度は障子の隙間から、居間を覗き込んだ。
もうすっかり朝食の仕度も済んで、手持ち無沙汰になったのか、隼人は柱に寄りかかり、テレビを見ている。なんでもない日常的な姿に、アキは胸が震えるように感じて、首を振った。
「おい、アキ、何してるんだ?」
目の前で不審な行動を繰り広げるアキに、ナツが後ろから声を掛ける。これは元気になった、と解釈してもいいのだろうか? と眉を顰めていると、アキが小さな声で呟いた。
「隼人がずっといてくれたら、毎日楽しいのに」
言葉の真意を測りかね、ナツは眉間にしわを寄せて無言でアキの肩を叩いた。
「わ、ナツ! いるんなら声掛けてよね! びっくりした」
胸を押さえて、ほおを上気させて笑うアキに、ナツはさらに眉を顰めたが、何事もなかったように振舞った。
「おう、悪い。さっさと入れよ、アキ。後がつかえてるだろ?」
そういって振り向いたナツの後ろには、いつのまにかフユが眠そうに目を擦りながら立っていた。
「おはよう、ナッちゃん、アキちゃん」
「おはよう、フユ」
アキとナツは揃って声を掛けると、三人一緒に居間に入っていった。テレビを見ていた隼人は、三人に気づくと立ち上がった。
「おはよう、ナツ。フユくん」
にっこり笑った隼人に、フユが走り寄っていって抱きついた。
「隼人兄ちゃん、おはよう!」
ころん、と自分の懐に飛び込んできたフユを、隼人は難なく抱きとめた。ただ、体温のない自分の身体では、フユが冷えてしまうだろうと、離れた方がいいと言うと、フユが逆に隼人に擦り寄るようにして言った。
「ううん、暑いから、隼人兄ちゃんはひんやりしてて気持ちいいよー」
暢気な子供の発想に、みんなが笑った。隼人も苦笑してフユのふわふわな髪を撫でた。
「お、みんな起きてきたな。後は父さんだけか」
台所からハルが長身を折り曲げるようににょきっと顔を出した。
「父さんなら洗面所にいたからもう来るよ」
ナツはそう言いながら台所に入っていく。コトコトと弱火にかかっている鍋のふたを開け、傍に置いてある味噌を適量溶かし込む。
「今日は豆腐とわかめしか入れてないぞ、だしは出てるだろ?」
ハルが再び台所へ戻り、ナツの隣に立った。ナツは味噌汁の味見をして頷く。
「うん、これでオッケー。ハル兄、そろそろ味噌の分量覚えたら?」
料理が苦手なハルは、これまでの練習の成果で、ある程度の簡単な料理を作れるようにはなったが、味噌汁に入れる味噌の量が未だに判断できず、しょっちゅう入れすぎては栄に怒られていた。そこで仕方なく、味噌を入れる前まで自分で作り、最後の仕上げはナツに頼むことにしているのだ。これじゃいつまでたっても進歩しないよ? とナツは言うのだが、何故かどうしても上手くならない。
弟の視線を苦笑いで誤魔化し、味噌汁を運ぼうと持ち上げる。
「ハル兄」
「ん? 何だ?」
不意に呼び止められ、鍋を持ったまま振り向く。ナツは自分から呼び止めておいて、下を向き何か考え込んでいるようだ。
「……いや、やっぱ何でもない。ごめん、ハル兄」
「……?」
顔に疑問符を貼り付けたハルに、フラフラと手を振って、ナツは背中を向けてしまった。変だなとは思いつつ、ハルは重い鍋を置く為に、そのまま居間へ移動した。
台所にひとり残ったナツは、腕を組んで思案顔のまま立ち尽くしていた。
……アキが、おかしい。
「あいつちゃんとわかってる……よな?」
二卵性であっても、同じ日に生まれずっと一緒に成長してきた双子である。ナツはアキの変化を敏感に感じ取っていた。
嫌な予感が当たらなければいい。
ナツはそう願い、髪をがしがしとかきながら、家族の待つ居間へ向かった。