7
太陽もそろそろ地平線の端に沈もうかという頃。
眠りの淵から眼を覚ましたアキは、ぼんやりと部屋を見渡した。隙間の開いたカーテンから零れる光は、夕方のそれで、薄暗くなった部屋に大きなため息をついた。
また、倒れたのか。
何故だかすっきりしている頭にアキは首を傾げた。が、よく寝たからだ、とすぐに思った。我ながら現金だ。天使の姿で現れた隼人をずっと否定していたのに、その存在に安心して眠ってしまうなんて。
アキはベッドに体を起こした状態で膝を抱え、唇を噛んだ。苦しみ続けた一ヶ月、辛くて、食事ものどを通らずに、眠れなくて、ただ泣いていた日々が、彼が舞い降りたその日のうちに一転した。……やっぱり隼人が好きなのだ。
直後、布団に包まれたままの膝に、アキは頭をぶつけて目を瞑った。ちっとも痛くないし自虐的になったわけでもない。ただ、あまりに冷静に自己分析する自分に嫌気がさしたのだ。
“隼人が好き”、そんなことはずっとわかっていた。そうでなければこの一ヶ月、何のために泣き暮らしたと言うのだろう。好きで好きで、でもその気持ちをどこにもぶつけられなくて、消せなくて。もしかしたら全て夢なんじゃないかと、この馬鹿げた日常は明日になったら全部夢で、彼は笑顔で私の元へ戻ってきてくれるんじゃないかと。否定しては願って、自分の感情と思考に絡めとられて身動きができなくなって。
だけど何故?
あんなに望んでいた隼人は、今自分の前に現れた。一目見て気を失ってしまうほどに嬉しかった反面、理性のどこかで全てを否定する自分がいる。
彼はもう、死んだ。
どんなに願っても、何を犠牲にしたとしても、もう戻らない。誰かが死ぬとはそういうことだと、知っているではないか。そんな彼が戻ってきた、それは――
がらりと窓ガラスの開く音がして、そちらを見ると、ベランダに続く窓から隼人が入ってきた。
「あ、アキ、起きたの? 具合はどう?」
今朝、朝日に輝いていた真っ白な二枚の翼が隼人の背中で揺れていた。アキはその美しさに、悶々と思考の渦にいたことも忘れ、そういえば話しているときとかご飯食べているときはなかったのになぁと、ふと疑問に思った。
「ん? ああ、翼はね、使わないときはしまっておけるんだ。便利だよね。どんな風になってるのかは僕も知らないんだけど」
アキの目線で言いたいことを理解した隼人は、そう言いながらばさりと翼を震わせてたたんだ。次の瞬間、消えたように見えなくなった。
「……どこかに、行っていたの?」
しまっておいた羽を広げて行くところは、きっと空を飛んで行かなければならないところなのだろうと、アキは思った。アキの手の届かない、どこか。
その問いに隼人は優しく微笑んで、人差し指を上に向けた。
「うん、屋根に」
風が頬を掠めていく心地よさに、アキは声を上げた。
「わぁ、気持ちいい!」
夏の夕方、じりじりしていた太陽もその暑さを潜め、少しだけ涼しい風が吹く。遮るもののない屋根の上で、風は踊るようにアキの周りを吹き抜けた。
しまったばかりの翼をもう一度出して、隼人とアキは屋根の上にのぼった。隼人に抱えられて空を飛んだアキであるが、ほとんど一瞬だったために声を出す暇すらなかった。
屋根の上に腰掛けたアキは、しばしオレンジ色に染まる空と、家々のその向こうに広がる田んぼと川原の緑を気持ちよさそうに眺めていたが、横からじっと見つめてくる視線に気づいてぱっと顔を背けた。
せっかく隼人と一緒にいるのに、思わず景色に夢中になってしまった。そんなアキを見て隼人はふっと笑って、そして言った。
「僕の仕事、見せてあげる」
そうして懐から件の缶を取り出した。
「あ、<神様の絵の具>」
「うん」
空に雲を描くための絵の具。どんな風にするんだろう、とアキは期待して身を乗り出した。
「こうやってね」
そう言って隼人はおもむろに絵の具に指を突っ込んだ。透明な水のように見えたその液体は、意外なほどの粘性を持って隼人の指に纏わり付く。隼人はそのまま空に指をかざし、すっと左から横に薙いだ。
オレンジ色の遠くの空に、ふわり。
それまでなかった白い雲が、薄く溶けるように滲み出した。
「わぁ……」
それだけを声に出し、アキは手で口を押さえて、雲に見入った。
隼人はそんなアキを横目に小さく微笑み、さらに絵の具に指を入れ、次の雲を描く。
「今度は犬でも描いてみよっか?」
その言葉に、いたずらっ子のように瞳を輝かせたアキに、隼人は満足そうに笑う。
まるで魔法のようにしなやかに動く指先から、少し茶色みを帯びた、耳の垂れた犬の横顔が空に映し出された。
「空がオレンジだから、あんまり違和感ないでしょ?」
そういってくすりと笑う隼人に、アキは破顔で答えた。
くま、うさぎ、アイスクリーム……と、隼人の指は次々に可愛らしい雲を描き出す。元々絵を描くのが好きだった隼人は、なかなか上手な絵を描く。次のリクエストを尋ねてきた隼人に、アキは少し考えてから「串にささったお団子」と言った。隼人は笑いながらお団子の雲を浮かび上がらせる。お団子はアキの大好物で、よくふたりで分け合って食べた、思い出の品だ。
「アキ」
隼人が唐突にアキに呼びかけた。
「……時が来たら、僕は天界に帰る」
アキの口元だけが笑みの形のままで凍りついた。ふたりの間を、夕方の生ぬるい風が吹きぬける。
「勝手に来て勝手に帰るだなんて、ごめんね。……ごめんね」
帰る。
その言葉にアキの胸は張り裂けるように痛んだ。
ああ
「いつ……? いつまでいられるの……?」
隼人の顔から目を逸らせないまま、アキの口は勝手に、聞きたくて聞きたくないことを尋ねる。ただ、胸の痛みを堪えるのに必死だった。
「長くても……一週間くらいだと思う」
申し訳なさそうに呟かれた返事に、アキは負けそうになる。
一週間。
あと一週間の後で、また隼人はいなくなる。自分の前から、消える。
ああ
何か言わなければ、とアキは思った。
風の音だけが沈黙を破る。太陽はみるみる沈んでいき、オレンジは紫に変化していく。泣きたくなるほど美しい絶妙なグラデーションの中、先ほど隼人が描き出した雲が、形をゆっくりと変えながら流れていく。
ああ、そうか。
私が天使の隼人を受け入れられなかったのは。
……二度目のさよならを、怖れていたから。
アキの瞳からとうとう流れ出した涙に、最後の光が反射した。
「隼人」
搾り出すような小さな呼び声に、隼人は答えた。
「……何?」
「もう……さよならしたくない」
アキは隼人のほうを見ずに言った。隼人はそんなアキをじっと見つめて言った。
「アキがそれを……望むなら」
何か大切なものを、心の奥深くに沈めたような気がした。何か、忘れてはいけない大切なものを、自分の手で泥の底に沈めたような。このまま、どこまでも、落ちていったらいいと、アキの心のどこかで誰かが呟くのが聞こえた。
急に強風が吹きつけ、隼人は無言でアキを抱き寄せた。アキも何も言わず、その腕に寄り添う。
下からふたりを探すハルの声が響いてくる。夕飯の時間になったのに、見当たらないふたりを心配する声だ。
擦れるような風の音に便乗して、聞こえない振りをした。黙って抱き合ったまま返事すらしなかった。
ただ、お互いが惜しくて、この時間が惜しくて、離れたくない。
希望と絶望の境界線の上で、ふたりは何かを必死に繋ぎとめるように、抱きしめる腕に力を込めた。
いつの間にか輝き始めていた星々と黄金の月に、アキがようやく時間経過を知ったとき、隼人はアキを抱えたまま、よっと立ち上がった。
「じゃ、下に降りようか。ハルさんが心配してる。おじさんも帰ってきてるよ」
うん、とアキが返事をする前に、温度はなくとも柔らかい腕でアキを抱きしめたまま、隼人は屋根の上から庭に飛び降りた。心の準備もなしのいきなりのダイブに、アキはパクパクと口を開け、抗議の目で隼人を睨み付けた。
「なっ、何で直接飛び降りるのっ!?」
必死に呼吸を整え、ぜーはーしながらそれだけ口にしたアキに、隼人は思わず噴出しながら、縁側にアキを下ろした。
「はは、いや、ちょっとやってみたくって。ごめんごめん」
ぷーとふくれたままのアキを見て、苦笑しながら隼人は足の裏に少しついた土を払う。昼間の強烈な太陽の下でカラカラに乾いた土では、そんなに汚れていない。
アキはそんな隼人を横目でじとっと見つめ、
「ぞうきん持ってくる」
と、走っていってしまった。
隼人が仕方なく縁側に腰掛けると、廊下の薄暗がりから、栄がぬっと顔を出した。
「アキは、大丈夫か?」
娘を心配して低く響く声に、隼人は柔らかく微笑む。
「はい、大丈夫です。すみません、日も落ちちゃったのに、屋根の上なんかにいて」
「……お前は、大丈夫なのか、隼人」
アキに向けられたのと全く同じ響きで自分に向けられた言葉に、隼人は驚いて一瞬返事が遅れた。
「! はい、大丈夫です」
その返答に満足したのか、栄は口元を綻ばせて隼人の後ろを通過した。通り過ぎるときに、隼人の頭にぽんと手を置いて。
「……あのっ!」
一瞬触れた暖かさに、隼人は思わず声を掛けた。振り返り首をかしげて、栄は言葉の続きを待った。
「おばさん……いや、葵さん、元気ですよ」
小さく囁かれた言葉に、栄は目を大きく開けて固まってしまった。普段表情の変化に乏しい栄には、珍しい表情と言える。その顔を見つめたまま、隼人は更に続けた。
「……おじさんに、伝えてくれって。……『しょうがない人ね』って」
隼人を凝視したまま、栄は口を開きかけた。が、廊下を走ってくるアキの足音を聞き、出かけた言葉は、のどの奥に飲み込まれてしまった。
「あれ? お父さん、何してるの?」
雑巾を片手に戻ってきたアキは、そこに不自然に立ったままの父親に声を掛けた。栄は少しだけ息を吐いて、踵を返した。
「いや、なんでもない」
そのまま立ち去ってしまった栄に、アキは首を傾げて、その場にいた隼人に疑問をぶつける。
「何だったの? お父さん」
「……ううん、特に、何も」
隼人はにっこり笑って答えた。アキから雑巾を受け取り、足の裏を拭く。やはり大して汚れていないようだ。
「ただ、心配してくれただけだよ。僕たちのこと」
そう言って隼人は縁側の上に立ち上がり、アキを見下ろした。明かりの灯されていない薄暗い縁側では、隼人の表情は見えにくい。栄と隼人が何かの話をしたのは確実だ。ただ、隼人に言うつもりがないことはわかったし、それになんだか隼人が嬉しそうにしているような感じがして、アキはそれ以上、何も聞かないことにした。
その後、相当心配したのだろう、憔悴した表情を隠さないハルに、アキと隼人は正座させられ説教を受け、バイトから帰ってきてそれを目撃したナツに大爆笑された。フユは、ハルが半泣きでふたりを探し回っている間、ハルに指示された通りに先に大人しくご飯を食べ、お風呂に入って早々に寝てしまった。このマイペースぶりは栄に似たのであろう、当の栄も、説教をするハルたちを横目に、黙々とひとり食事をとり、そのまま自室に引き上げてしまった。
くどくどと同じことを繰り返し話し続けるハルの前、殊勝な面持ちで正座したアキの手を、隣で正座する隼人が握った。膝の上に置かれたまま、優しくも強い力を感じさせる手。アキの視線を隼人が受け止めた。
それは共犯者の約束。
それは悲しくむなしい約束。
寂しさと恋しさに囚われた、ふたりの愚かさが形になったもの。
長い一日が、終わる。