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アキの恋人である隼人が死んだのは、大雨の降る日だった。
所用で少し遅くなった学校からの帰り道、まだ明るい夕方だったのに雨で視界が悪かったのが災いし、走ってきたトラックに跳ねられ、その身は宙を舞った。
道路に倒れた彼に駆け寄った通行人が、かすれる声で呟く彼の最期の言葉を確かに聞いた。
大量の出血さえ洗い流されていくような大雨のなか、彼はその場で意識を失い、二度と目覚めることはなかった。
間をおかず連絡を受けた日向家の面々は、すぐに病院に駆けつけた。そこにいたのは彼の両親と、氷のように冷たくなり、その瞼を閉じたままの隼人だった。トラックに跳ねられたものの、大きな外傷を残さなかった彼の顔は、ただそこで眠っているかのように安らかであった。
霊安室の入り口で立ち尽くしてしまったアキを促して、横たわる隼人に近づいたハルとナツは、その死に顔に涙すら流せず、ひたすら呆然としていた。隼人の両親がすすり泣く声だけが、その場に響く音だった。普段は無邪気なフユも、そのただならぬ気配を読んだのであろう、神妙な顔をして父親の手を握っていた。
そして最悪の対面から数日、隼人とのお別れの日がやってきた。
黒と白で統一された空間に、一様に暗い顔をした人々が並ぶ。あまりに早すぎる青年の旅立ちに、誰もがショックを隠しきれない。またその日は、何かの冗談のように、今にも雨の降り出しそうな嫌な天気であった。
法要が終わり、出棺の時となった。
霊安室での対面からショック状態のまま、食事もとらず、眠りもせず、一言も口をきかなかったアキの下へ、隼人の両親が近づいた。そして、通行人が確かに聞いたという息子の最期の一言を、アキに告げた。
<アキ、どうか幸せに>
その言葉を聞いた瞬間、アキは初めて涙を流した。まるで、凍り付いていた時間が溶けるように、みるみる零れ落ちる涙は、ようやくアキを人形から人へ戻した。と同時に、アキにこの逃れようのない現実を、決して認めたくない事実を否応なしに突きつけた。
隼人は死んだ。
そしてアキは泣き続けた。涙は枯れることを知らず、ただ、零れ続けた。
隼人が灰になって、煙突から立ち上がる煙が、空に消えていってしまっても、ずっと。
アキ
誰かに呼ばれたような気がして、アキは眠りから覚めた。
瞼を上げると、南向きの窓の端にうっすらと光がほのめいている。夕べはフユを抱きしめたまま、眠ってしまったらしい。泣いたのをそのままにしてしまったせいで、がびがびするほおを撫でつつフユを見ると、フユは自分の腕の中で、くうくうと安らかな寝息を立てている。うっかり布団もかけずに寝てしまったが、夏だし、寒くて風邪を引くということもないだろう。
熟睡するフユを起こさないように、そっとベッドから抜け出たアキは、せっかくこんな時間に起きたのだから、朝日でも見ようと思いついた。ちょうど日の出の時刻のようだし、と立ち上がり、まずがびがびの顔を何とかしに、洗面所へと向かった。
南を向いている縁側の雨戸を開け、昨夜降った雨のせいでぬかるんだ庭を眺める。雨露に濡れた黄色の大輪の花は、昨日のような大降りの雨にもその太い茎を折ることはなかった。ゆっくりと顔を出した太陽が左手からその光を煌かせたとき、薄暗い中でも、存在を主張していた向日葵が、いっそうの輝きを増した。起きたばかりの目に、痛いくらいの黄色。朝焼けに染まる空は美しく、澄んだ空気は心地いい。
アキは朝の空気をめいっぱい肺に吸い込み、吐き出した。まだ少しかさつきの残るほおを撫でる。
緑の匂いがする、朝の清清しい空気を吸い込んだら、なんだか気が楽になった。心が死んだように感じた昨夜が嘘のように、昨日のフユへの態度はあんまりだったと、素直に申し訳なく思った。
眩しいくらいに輝いている向日葵の黄色。そして大きく豊かに茂る葉の緑。それは大好きな母の、大好きな花。毎年夏になると向日葵を見て喜ぶ母の姿を思い出し、アキは少し笑った。私にも会いに来てくれたらいいのに。そして……。
あまりに純粋な心を失わないフユが、羨ましく思えた。もし私がフユみたいに純粋に信じられたなら、私にも見えたのかもしれない。
縁側の柱に寄りかかるように手を置き、アキは向日葵に向かって話しかけた。フユが言っていたように、もし彼がそこで私を見ているなら、と。
「……ねぇ、隼人。そこにいるなら私にも姿を見せてよ。ずるいよ、フユにだけ見えるなんて」
少し軽くなったはずの心が、ただひとりの人を想って感傷的に疼く。それを誤魔化すかのように小さく息を吸って吐いた。眼に痛い向日葵を見ていられずに、瞼を閉じる。零れそうになる涙を堪えて、何回か深呼吸した。泣きすぎて目の下が痛い。
―ねぇ、隼人、本当はわかっているんだよ。
家族のみんながずっと心配してくれていること、このままではいけないこと。大丈夫だと笑顔で振舞っていても、みんなには無理していることがばれていると、アキにだって分かっていた。
―でもどうしたらいいの? どこにいても何をしていても隼人を思い出してしまうのに、泣かずにはいられないのに、どうしたらいい?
目を閉じたまま、涙をこらえてじっとしているのが苦しくて、アキはいつのまにか呼吸を忘れるほど体を硬く緊張させていた。固くむ結んでいた唇を緩め、空気を大きく吸った。必死にこらえていた涙が零れないように上を向いたら、何とか零れずに済んだ。
―隼人……
やり場のない、どうしようもない苦しい思いに胸を詰まらせたまま、アキは再びそっと目を開けた。少し荒い呼吸、少しだけ滲んだ視界。
新しい朝の、その差し込む朝日の中に、ふわりと舞う、羽。
突然舞い落ちてきた白い大きな羽に、アキは驚いて目を瞬いた。鳥かと思って周囲を見回すと羽に遮られた視界の向こうに誰か人が立っているようだった。
「だれ?」
先ほどまで庭に誰もいなかったのに、と訝しげに呟いたアキは、声にならないほど掠れた呟きを零した。
「う……そ……」
大輪の向日葵の前に佇む、そのひと。体に沿ったすっきりしたラインの青い上着は膝の丈まであって、黒いズボンに黒い布靴。ノースリーブの肩口からすらりと伸びた腕。やわらかく差し込む光を反射する茶色がかった髪が風に揺れる。背中の真っ白な双翼がばさりと、存在を主張するように大きく動いた。
「アキ」
揺れる向日葵を背に、白い翼がふわりと閉じる。
白く差し込む光の中、絵の中でしか見たことのない、その天使の姿をした人は、自分の名前を呼んだ。
「アキ」
再び呼ばれた名前に、ようやくアキは反応した。目の前に佇むその存在を、大きな瞳をさらに見開くようにして見つめる。
……失った恋人の、記憶に残るその声音。
「……アキ……?」
三度遠慮がちに囁かれた名前に、心臓がぎゅっと締め付けられる。瞳から大粒の涙がこぼれた。とても自然に、当たり前のように。震える体を抱きしめる。立っていられるのが不思議なくらいだ。
くちびるが動く。声にならずにその人の名前を形取る。
は や と
ゆっくりと自分に近づいてくる天使が、にっこりと微笑んだその瞬間、アキの意識はブラックアウトした。
それはアキが大好きな恋人の、大好きな表情だった。