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最終話です。ちょっと長めですが一気にいきます。お付き合いください。



 それから先は右へ左への大騒ぎだった。タイムリミットは十分。


 とは言え騒いでいるのはほんの一部の人間だ。アキ、ハル、隼人の両親。巻き込まれる形で隼人。わけもわからずキャーキャー言っているのがフユ。残りの人間は縁側にお茶セットを持ち出し、並んで冷たい麦茶を堪能していた。


「しかしまー、そこまで騒ぐことかね? さっきまでいい雰囲気で笑顔でさよならって感じだったのに」


「やっぱり日本人はオモシロイな」


「いや、日本人という括りで納得しないでほしいね」


 気が合わないかと思いきや、精神的に老成気味のナツと、見た目は少年だが実際は六十を越えて存在しているアレックスのふたりは、揃って遠い目をしつつ、目の前のどたばた劇を見守っていた。


「隼人、写真とるなら翼はしまっときなさいよー。後でめんどくさいから」


 暢気な声は(あおい)のものだ。(さかえ)の隣に再度ぴったりと陣取った葵は、ナツに用意させた大好きなお菓子を頬張ってご満悦だ。


「あれ、お母さんは食べられるんだ?」


 隼人の両親のために部屋からデジカメを持ってきたアキは、以前隼人が食べられないと言っていたことを思い出す。何かを言いたげに葵は手をひらひらさせているが、もぐもぐと頬張り過ぎてしまったようで飲み込むまでに時間がかかりそうだ。


「やー、そのじゃじゃ馬は規格外じゃ。普通ならそうして実体でいることも難しいんじゃがの」


 と、変なところから答えが聞こえてきた。並んだ向日葵の向こう、生垣の外……かと思いきや、空間が歪むようにしてその人物は現れた。


「あ、雲じい」


 隼人とアレックスが何事でもないかのように言う。ふわふわの白髪に白い髭。カーテンのような厚地の紺色の布を、被るように身に纏い、左前をブローチのようなもので留めている。また一人増えた珍妙な客に、ナツは額に手を当てた。


「しっしっし。みんな楽しそうじゃのー」


「何しに来たのよ」


 皺くちゃの顔を嬉しそうに歪ませて笑う雲じいに、葵は鋭く言葉を投げる。それをひょいと避けるような素振りをして、雲じいは隼人のところへ近づき、そっと手を握った。


「……あと七分じゃ。……悔いのないように」


 皺くちゃな小さな手に握られた瞬間、隼人は全身を春の陽だまりのようなやさしさでふわりと包まれた気持ちがした。少ししわがれた声も、そのまなざしも、まるで本物のおじいちゃんのように隼人に注がれていた。


「……はい」


 こくりと素直に頷く隼人に、雲じいは目を細めた。 

 そしてくるりと振り向いたかと思えば、その小さな身長で懸命に背伸びをして、興味津々といった瞳でアキのデジカメを注視した。


「お、写真か、写真を撮るのか?」


「あ、はい、えっと、一緒に撮りますか? っていうか、あれ? どこかでお会いしたことなかったですか? あれ? でも、神様には会った事ないし……」


 天然爆発なアキの発言にも、雲じいはにこにこするだけだった。






 わいわいと再びまた盛り上がり始めた庭先には、これまで日向家から遠ざかっていた笑顔が溢れていた。大人も子供も、天使も神様も、笑う姿からは幸せがはじけるようだった。

 今からもう二度と会えないひとを見送るのだという悲しい空気は微塵もなく、ただ、それぞれがこの貴重な一瞬を、包み込むように大切に大切に過ごしているだけだった。



 目の前の光景を、(さかえ)に寄り添って微笑ましく見守っていた葵の隣に、雲じいが「よいしょ」と縁側によじ登り座った。「茶!」と誰にでもなく発せられた声に、葵は無言で麦茶の入ったコップを叩き付けた。


「おーこわ! ガラスが割れてしまうわい!」


 そういいながらも割れていなかったコップで、雲じいはおいしそうに麦茶を飲む。そしてぽつりと言った。


「……()いのう、子供達は」


 いまだ写真撮影に夢中になって大騒ぎをする面々を見つめ、雲じいは目を細めた。先ほどまで静観していたはずのナツとアレックスも、巻き込まれる形で撮影隊に強制参加させられている。


 笑い声が響く夏の庭。

 風に揺れる洗濯物の、なんと平和なことか。



「……一応、時間は止めておいたぞい」


 ふいに雲じいが呟いた。葵と栄にしか聞こえないほど、小さな声で。


「そ、ありがと。……で、私は強制的に天界行きなのかしら? もうバレてるんでしょ? お偉方に」


 興味もなさそうに耳掃除をしながら葵は尋ねる。こういう形を選んだ時点で予測している結果だ。後悔はしていない。


「ん……そうじゃの、そうじゃろうの」


「……何よ、はっきりしない返事ねぇ。まさか逃げられるとは思ってないわ。はっきり言って」


 口ごもる雲じいは、渋るようにもごもごしながら答える。


「ま、わしのところに居ればいい。一人くらい増えたところでなんとでも誤魔化せる。多少仕事は手伝ってもらうが……。どちらにせよ意思を持った天使じゃ、引く手はないぞい、かはは」


「……バレてないわけ? どんな手使ったのよ? ……知らないわよ、後でどうなっても」


「しっしっし」


 天界の、神様と天使の事情など栄に分かるはずもなく、栄はただふたりの会話を黙って聞いていた。


 ……天使であることを知っていて妻にした。十何年か連れ添って、だんだん弱っていく妻に、どうすることもできずにうろたえた。これ以上この世界に存在すれば、魂ごと消滅してしまうとわかったとき、天国で身を潜めて機会を待つという妻の決断に従うほかなかった。

 まだ幼かった子供達の目を誤魔化し、死んだことにした。墓の中にはもちろん骨などない。分かっていて栄は毎日墓参りを欠かさなかった。自分にできることは、それしかなかったから。……ただ信じて待つことしか、できなかったから。


 だから隼人が天使の姿でやって来たとき、栄は正直期待した。妻の話が、聞けるのではないか、と。そしてそれは叶った。妻は自分に伝言を残した。……あまりいい言葉ではなかったが。


 ……振り回されているとは思う。天真爛漫を地で行くような、感情の揺れ幅の大きい、自由なひと。こっちは大人しく待っていたというのに、また自分で決めて、天使に戻ってしまった。またこれで共に暮らせる日々が遠のいた、と少しがっかりしている自分もいる。だが四人目の息子のため、隼人のためなら。 どちらにせよ、自分が天寿を全うして天国に行ったとき、妻が迎えてくれるだろう。その時まで、伸びただけだ。楽しみが、伸びただけなのだ。


 考え込んでいた栄の顔を、いつのまにか葵が楽しそうに覗き込んでいた。隣で雲じいが、足をぷらぷらさせながら嬉しそうにしている。




「あ~、わし、懺悔します!」


 突然雲じいが挙手をしてそんなことを言い出したので、葵は嫌そうな顔で体を引いた。


「何よ、突然」


「えー、その、隼人なんじゃが。あー実はの、アレの魂はな、その」


「はっきりしなさいよ! 何なのよ?」


 言い出しておいてもごもごはっきりしない雲じいに、沸点の低い葵はキレそうになる。大声をだした葵に、「しー、じゃ! 内緒話なんじゃ!」と雲じいは周りを見渡した。

 俺は聞いていてもいいんだろうか、と栄が思って立ち上がろうとすると、雲じいはそれを手で制して、こほん、とひとつ咳払いをした。


「……懺悔します。隼人の魂は、実はあそこの双子と一緒に、つまり三つ子として生まれる予定じゃった。それをわしが……その、……星を、みてな。隼人とアキがな、運命の恋人じゃったもので、それで、その、隼人の魂だけ、別の母体にな、移しちゃったんじゃな」


 てへ、という態度でとんでもないことを暴露した雲じいに、さすがの葵もすぐには反応できずに、固まってしまった。栄はその時、『ドン引き』という言葉を初めて体感した。


「いや~、その、な。星が、な。いや、別にわし、しょっちゅうこんなことはせぬのじゃよ? うん、ただな、やっぱりな、可哀想かな~と思ってな、うん」


 言い訳にならない言い訳を並べてわたわたする雲じいを、葵は放置することに決めた。『無視』が、この小さな神様にとって非常に大きなダメージになることを知っていての行動だ。


「うわ~、いっそ罵ってくれい、怒ってくれい! いたたまれなさ過ぎるぞ、わし!」


「…………」


「ううう……すまん、許してくれ~」


「…………」


 小さい体をさらに小さくして(ゆる)しを請う神と、態度のでかい上から目線の天使。傍から見ているととても面白いのだが、この二人の関係について栄にはひとつの答えが浮かんでいた。次に会ったときには、つまり自分が死んで天国に行ったときには聞いてみようかと自分の中にしまっておく。そして「しかし……」と、ぼそっと呟いてくすりと笑う。


「隼人が、本当に自分の息子だったとは知らなかったな」


「あら、あなたが許すのなら、私は構わないわ」


 栄の発言に、葵はすかさず反応し、栄の腕をとって寄り添った。栄もそんな葵の髪を愛おしそうに撫でて微笑む。なんだかんだ言ってこの夫婦、お互いがお互いにベタ惚れなのだ。


「許すも許さないも……隼人は吉川さんの子供だよ。そして、私達の子供でもある」


 ふたりでにっこりと笑い合って、この話はもうよしとする。今あることが、事実なのだ。


 うまく収まった、と雲じいはこっそり胸を撫で下ろしたが、葵から氷柱の塊のような冷たい視線を送られ、「うひょ~」と奇声を上げながら、そそくさとその場を離れた。






 ところで、アレックスは地獄耳である。


「……だってよ」


 周りの状況をよく見て行動するタイプのナツは、何かこそこそ話をする大人たちを見つけ、見るともなしに様子を見ていた。そこに写真撮影のテンションについていくのに疲れたアレックスがやってきて、こともなげにその内容を伝えてくれた、という次第だ。


「あー、こりゃたいそうな内緒話だな」


 ナツは頭をがしがしと掻きながら困った顔をした。何してくれてるんだ、神様。


「ってゆーか神様って、そんなに自由にいろいろしちゃうわけ?」


 傍らで腕を組んで考え込む様子のアレックスに聞いてみる。


「いや……魂の移動なんて、聞いたコトないよ……。神様にできるコトなんて、アレとコレとソレしかないのに」


「なんじゃそりゃ」


 疑問は深まるばかりだ。それにしても……と、ナツは未だにカメラの前から解放してもらえない隼人を見る。おろおろしながらも楽しそうだ。


「魂レベルで兄弟なら、気も合うってわけか」


 神様の事情なんてどうだっていいし、考えたって分からないことは考えるだけ無駄だ。ただ、そういう不思議なこともあるものかとナツは笑った。




 懐かしい庭で繰り広げられる微笑ましい光景を笑いながら見守っていた葵は、そろそろか、と立ち上がった。その腕を、栄は半ば無意識のうちに引き止めていた。

 見下ろす夫は、迷子の子供のような情けない顔をしていて、葵は少し吹き出した。


「よぼよぼのおじいちゃんになって天国へ来るのを、待っててあげる」


 額へのキスとともに贈られた言葉に、栄は残念なような嬉しいような顔で笑った。





「隼人、元気に暮らすのよ。あなたの好きなお菓子、仏壇にお供えしておくから、お腹が空いたら遠慮なく食べなさいね」


「そうだ、寂しくなったら電話……はないか、メール……もないんだな。えっと……」


 この期に及んでそんなボケをかます両親に、隼人は脱力した。この人たちってこんな面白い人たちじゃなかったんだけどな……。



「あ、そうだ、忘れてた。隼人」


「ん?」


 すたすたと歩いてきたナツの言葉に、無防備に振り返った隼人は、腹に重い衝撃を与えられ、うずくまった。


「痛っ!」


 何するの? という隼人の目に、ナツはふふん、と笑った。


「アキを泣かせてくれたお礼、だ」


「ちょっと、ハヤト、大丈夫? ……うっ!」


 よほど痛いのか、うずくまったまま動けない隼人を心配して近づいてきたアレックスにも、ナツはパンチをお見舞いした。緑色の目をまんまるにして非難の目線を送ってくるアレックスに、ナツは高慢に言い放った。


「ナツ様をパシリに使ってくれたお礼」


 その言葉にアレックスは、ほおをぷくっと膨らませ、負けじとキックで応戦する。


「やっぱりオマエ、キライだ!」


「はいはーい、そろそろ終わりにしてねー」


 悠々と歩きながら、葵は三人の頭に拳骨を落として黙らせた。隼人は完全にとばっちりであったが。


「つ、強いな」


 これはハルの感想である。隣でフユがうんうん、と頷いた。






「さてと、最後に言いたいことは? アキ」


 隼人とアレックスを立たせ、その後ろに葵が並んだ。そしてその時に向かって流れ出した時間についていけず、未だにカメラを手にしたまま呆けたように立っているアキを呼んだ。


「えっ、えっと、あの……」


「ちょっと、待って」


 戸惑うアキのもとへ、隼人が走り寄った。


 そのほおがピンク色に染まっているように見え、アキは首を傾げた。隼人はそっとアキの顔を両手で包み込み、真剣な、でも恥ずかしがるような瞳でアキを見つめた。


「最初で最後にはしたくないけど」


 掠れるように触れ合う唇。


 温かく柔らかいぬくもりに、アキは驚いて隼人を見つめる。照れて真っ赤になっていたが、隼人の笑顔はこの上なく嬉しそうだった。



「……最初って」


「やーい、甲斐性なし」


 ハルの気の抜けたようなツッコミと、葵の野次にも隼人はめげない。


「大切にしてきたのっ!」


 わざわざ振り返ってギャラリーに憤慨して見せると、再びアキに向き合った。


「……アキ」


 そしてもう一度大事そうに口づけてアキを抱きしめ、そして葵とアレックスの元へ戻った。アキの瞳には葵に髪をぐしゃぐしゃに撫で回され、アレックスにからかわれている隼人が映っていたが、アキはもう何がなんだか分からない。


 一瞬のように目まぐるしく終わってしまったファーストキスに、アキは目を白黒させて固まってしまっていた。そんなアキが可愛くてみんな笑った。


「な、なんでこんな」


 ようやく状況を把握し、アキの顔に血が上ってきた。


「なんでこんな、どさくさみたいにキスするのー!」


 そして顔を真っ赤にし、手足をバタバタさせて照れ隠しするアキに、またみんなで笑う。


 最後の最後まで、にぎやかで楽しい家族だ、と雲じいは目を細めて見守る。

 だが時間はいつだって無慈悲だ。そして始まった物語には必ず終わりがくる。



 ようやくアキが落ち着いてきたころ、その肩に栄が手を置いた。時間だ、と。


 ちょうど真後ろにハルが、隣にナツが並んだ。フユは正面からアキに抱きついて大きな瞳で見上げる。

 向かい合うように立った、三人の天使と日向家の面々。隼人の両親は日向一家の脇で、手を握り合って息子の顔を見つめている。雲じいはすべてを見守るように縁側の日陰に立っている。


 二つのグループの真ん中に引かれた不可視のライン。決して越えることのできない、明確な違い。


 変わることはなかった、奇跡が起きても。隼人が死んだという事実だけは、覆らなかった。それでも。


 アキはその場にいる全員を見渡した。

 ……みんなの目が、大丈夫だと言っているのが分かる。



 言いたいことはたくさんある。伝えきれない、こんな短時間じゃ。それでも。


「いつか私が天国に行ったら、私も隼人と同じ天使になるから! だからそれまで待ってて!」


 いろいろな感情を振り切って、大切な人たちに支えられて、アキは叫ぶ。高く青い空より澄んだ、さよならじゃない言葉を。



 アキの叫びを聞いて、隼人は思う。込み上げてくる感情を素直に言葉にする。……こんなこと、絶対言えないと思っていたのに。

 

「待ってる。ずっと待ってるよ。アキがお嫁にいけないように、天国から邪魔してあげるね!」


 満面の笑顔で隼人が言うと、アキの後ろで日向家の男衆が親指を立てて頷いた。




 きみが、教えてくれた。


 さよならじゃない、さよならの方法。




 笑顔に囲まれて、その時は来た。葵はばさりと翼を伸ばし、その羽で隼人とアレックスを包み込んだ。そしてこの場にふさわしい言葉をひとつ残し、空間に溶け込むようにして、消えた。


「またね」




 ふわり、と夏の熱い風が庭を吹きぬけ、ざわざわと向日葵が揺れる。今まで聞こえていなかった蝉の鳴き声が、急にうるさく戻ってきた。青い空は雲ひとつなく澄み切って、遠慮ない太陽の日差しは、空の真ん中でじりじりと肌を焼く。



 あっさりと、あっけなく、三度目のさよならは過ぎ去った。

 思っていたよりもやさしく、思っていたよりも悲しくなかった。


 誰かがいなくなっても、当たり前のように世界は続く。時間は巡る。そうして生きていくのなら、やっぱり笑って過ごしたほうがいい。

 

 アキは大きく息を吸って、吐き出した。暑すぎる日差しも、湿度の高い空気も、何もかもが愛おしい。ひとつ大人になったような気がして、口元は笑みの形になる。





 そんなことをそれぞれが思って立ち尽くしているとき、かの空気を読まないことで有名なじいさんが、いつの間にか縁側に戻ってずずっと麦茶を啜りながらしみじみこぼした。


「やー、いいお別れじゃったのう」


 なんでまだいるんだろう、という全員一致の心の声が聞こえたのか、雲じいはひげをさすって笑った。


「いやいや、まあまあ。ちょいと一言、な」


 そういってひょいっと縁側から下りると、ちょこちょこと歩いてアキの前にやってきた。高くはない身長のアキからしても、胸まで届かない身長の雲じいを見下ろすのは悪い気がして、アキはその場にしゃがんだ。


「嬢ちゃんや、ひとつ天国の秘密を教えよう」


 雲じいはにっと笑って、やさしい口調で語り出す。


「<(まど)>の話を隼人はしたな? あれがちょうど空の上から見下ろす格好になっとるもんで、天国に住むものは自分たちは空の上にいると錯覚しとる。じゃが、<窓>は単にああいう設定になっとるだけで、実は天国はこの世界の隣にあるのじゃ」


「隣に……?」


 話が読めないアキは、目を瞬かせて雲じいを見た。


「そう、隣じゃ。天国、地上という呼び方は通称のようなものでな。この世界とあの世界は、目に見えない、通り抜けることができない膜で隔てられているだけで、実はすぐ傍にある。ほれ、ちょうどそこのチビちゃんが」


 そう言って雲じいはフユを手招きした。呼ばれたフユは首を傾げて近づく。


「母親や隼人を見たと、言っておったろう? それはこの子が見る力を持っていて、たまたま膜が薄くなったタイミングが揃って見えたのじゃ」


 雲じいはフユのふわふわの髪を、愛おしそうに撫でた。フユはわかっていないのか、大きな瞳を雲じいに向けて瞬きをした。


「天国の者はこちらの世界に干渉できぬ。じゃが、こちらの世界の声は、向こうに届く。……だから、祈ってやってほしい。すぐ隣で、見守るしかできない者たちのために」


 想いが、祈りが、天国の空に歌のように響く。それは止まることなく、延々と、吹き続ける風のように巡る。その満ちる歌こそが、魂を癒す一番の薬なのだ、そう雲じいは言った。


「よいか、忘れないでくれ。ひとに忘れられたとき、そのものは本当の死を迎えるんじゃ」


 隔てられた世界。簡単には会えないけど、死は、永遠の別れじゃない。アキはそう思うようになっていた。一緒に日々を過ごせないことは確かに悔しいけれど、大切な人がいつか会える日まで笑って待っていてくれるなら、きっとそれは、悲しいだけのお別れじゃない。


「ありがとう、ございます」


 アキはにっこり笑って雲じいを見た。隼人の願いを叶えてくれた小さな神様に感謝する。そして心の中で想う。きっと聞こえているだろう、母に、アレックスに、そして隼人に。……心から感謝する気持ちが。


 雲じいは嬉しそうに目を細め、頷いた。ふさふさの白い髭を揺らし、しっしっしと笑う。そしてふと気づいたように隼人の両親を見た。


「<窓>もな、万能ではない。あれが映し出すのは、お互い想い合う者の姿。今までは無意識のうちに避けていたようじゃが、これから先、隼人はきっとご両親の姿も見るじゃろう」


 突然雲じいに見つめられた隼人の両親は、何がなにやら分からないまま、神妙に頷いた。


「まぁせっかく仲がよろしくなられたのじゃ。隼人に弟妹を見せてやってもいいんじゃないかとわしは思うが?」


 軽妙なウインクとともに言われた言葉に、ふたりはお互いを見合い、照れたように笑った。







「あ、そういえば」


 ハルが唐突に声を上げた。


「母さんに聞くの忘れてた。父さんへの伝言の意味」


 何気なく呟かれた言葉に、栄はぶっ、と吹き出し、胸を叩いた。そして真っ赤になった顔を、ハルへと向けた。『余計なことを言うんじゃない!』 とその顔には書いてあった。


「え、何? 何のこと?」


 伝言を知らないアキは無邪気に尋ねた。父の顔色を読みきれずに。


「いや、それがな……」


 ハルから詳細を聞いたアキには、思い当たる節がひとつあった。

 『しょうがない人ね』と母に言わせる父の行動。


「……それってあれかな。毎日お母さんのお墓参りしてること?」


 あ、とナツが止める間もなく、アキの口はぽろりと父親の秘密をこぼした。

 栄は顔を真っ赤にし、口元を押さえてそっぽを向いてしまった。……どうやら正解らしい。


「あーあ、言っちゃった」


 呆れた顔でナツはため息をついた。しかし父の方をちらりと見遣り、面白くて仕方がないという顔をする。


「ナツは知ってたのか? 父さんが毎日墓参りしてるってこと」


 ハルは不思議そうな顔をして問う。全く気づかなかった、と。


「いや、一応うちのお金って俺が管理してるだろ? 父さん昔はよくタバコ吸ってたんだけど、今は吸わないでしょ。その金はどこへ行ったのかなって思ってたら、ある日花屋のおばさんに声掛けられてさ、『いつもありがとう』って。それでぴーんときたんだよね。ま、墓参りすりゃすぐ分かるでしょ。いつも綺麗なんだから」


 うまく隠してきたはずの己の暴露話に、父親の威厳は形無しだった。栄は完熟トマトのように真っ赤な顔のままだったが、そのうち開き直ったかのように腕を組んで仁王立ちになった。


「……悪いか」


 ぼそっと呟かれた言葉に、子供達は揃って首を振った。


「いや、ぜーんぜん。いいんじゃない?」


 むしろ誇らしげに笑う子供達の顔を見て、栄も照れくさそうに笑った。

 アキは、ナツが言っていたツワモノが父を指していることに気づき、よくいままで隠していたなあ、と感心した。そして思う。一人の人をずっと好きでいたいと思うのは、遺伝なのかなあ、と。




 微笑ましい家族の姿を、雲じいは満面の笑みで見守っていた。その慈愛に満ちたまなざしに、どこか羨ましさも滲ませながら。

 そしてふと、「ん?」と耳を澄ました一瞬後、苦笑して「おーこわ、じゃじゃ馬娘が」と呟き、わいわいと父親をからかう日向家の面々に向かって言った。


「さてとわしも帰るぞーい。怒られちゃったわい」


 両手を腰に当てて言う姿は、隼人がいつか言っていた通り、確かに『可愛い』部類で、ナツは思わず吹き出してしまった。


「じゃじゃ馬って、うちの母さんのこと?」


 雲じいはにっと笑ってナツの質問には答えず、栄に向かって言った。


「……婿殿。娘を愛してくれて、ありがとう」


 突然話しかけられた栄は、それでもさして動揺もせず穏やかに笑い、丁寧に頭を下げた。

 その様子を見た雲じいは、満足げな笑みのまま手を振りながら、静かに溶ける様に消えていった。日向家に新たな爆弾を落として。


「ちょ……ちょっと待って、父さん。今のって……」


「え、え、まさか……おじいちゃん? 神様が?」




 「え―――!」とか「はあ―――?」とか、「ちょっと父さん説明して!」と、わぁきゃあ騒ぐ兄達を余所に、ひとりふと空を見上げたフユは、あるものを発見してアキの手を引いた。


「ね、アキちゃん! あれ見て!」


 フユの指のその向こうにあったのは。



「……隼人だな」


「間違いないな、うん」


「……ああ」



 騒ぐのも忘れ一様に見上げた青空に浮かぶ、大きなハート型の雲。ほんのりピンク色に見えるのも、きっと錯覚ではない。


―ありがとう、隼人

 

アキは風に流されて少しずつ形を変えていく雲を、いつまでもいつまでも眺めていた。




                                    <了>

『神様の絵の具』を最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

お話を書いていたのはちょうど一年前、とある小説賞に応募しようと書き上げたもので、震災前のことでした。(今回大幅な加筆・修正を経て皆様の目に触れているわけですが、まだまだダメな部分が多数目に付いて、これで公募かよ、というレベルではありますがその辺りは捨て置いてください…。)


大震災が起こり、たくさんの命が空に還りました。心を痛めた人たちにとって、人の死を扱う物語は冒涜かもしれないと、掲載することをためらいました。でも私にとってここに描いた世界は理想の空想です。死んだ人がどうなるのかは誰にもわからない。天国などという存在はないと叫ぶ人がいるなら、あると願ってもいいのではないでしょうか。私は願います。できれば死んだ後も、こうして見守れる時間があれば、と。いつか無に還る命だとしても、こうして意思が生まれた以上、完結できる時間は与えられてもいいんじゃないか、と。その願いをこめて物語を書き上げました。


隼人は天使になって現れましたが、結局生き返ることはありません。アキも、自殺という選択しは捨てました。生と死は人を引き離す、この道理がひっくり返ることはないでしょう。だからこそこの物語に救いがあるとは言えない。それでも願うことは自由だから、大切な人がたとえ死んでいても幸せに生きていてくれると信じることは自由だから、こんな結末になりました。ここに描かれた天国の姿が、誰かの心の支えになるといいなぁと願っております。


このお話を読んで、気分を害されるかたもいらっしゃるかもしれません。でも少しでも共感をしてくださったり、感動してくださったなら、ぜひ一言作者までお寄せください。

もちろんその他ご指摘、感想等ぜひぜひお寄せください。よろしくお願いします。


もう一つ、最後にお知らせです。

このお話の番外編を只今執筆中です。本当はこの話の後に番外編として続ける予定だったのですが、ちょっとR15的展開になってしまったことと、予想外に長くなっていることを鑑みて、別の作品として掲載する予定でおります。

掲載された暁には、そちらもぜひよろしくお願いいたします。


それでは長々と失礼しました。

ここまでお読みくださってありがとうございました。これからもよろしくお願いいたします。



蔡鷲娟

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