21
颯爽と歩いてくる茶色の髪の美少年。シャツの首元をパタパタ動かしながら暑そうに汗を拭う姿さえ、爽やか過ぎて憎たらしいほどの。
ナツはにやっと得意の不敵な笑みを浮かべ、すたすたと縁側へ向かって歩いてきた。
「おお、隼人、真っ赤な顔して男前から遠ざかってんな。鼻水拭いとけ!」
ひらひらと手を振りながら隼人を揶揄する言葉を投げ、ナツは確かめるように後ろを振り返って舌打ちした。そして口元に手を当てて、大きな声で弟の名を呼ぶ。
「おーい、フユ! 早く連れて来いって!」
するとその声に応えるようにちょこんとフユが家の影から顔を出し、「わかっている」というように手を振った。そしてまたすぐに引っ込んでなにやらじたばたしている声が聞こえる。何をしているのだろうと一同が首を傾げる頃に、一組の夫婦が申し訳なさそうに庭に入ってきた。後ろから、ぐいぐいフユに押されながら。
「お父さん……お母さん……」
思わず、といった体で隼人は二人を呼んだ。その声にハッと顔を上げた二人は、きょろきょろと庭を見渡した後で、縁側で腰を浮かしてこちらを見る息子に目を留めた。はっと口元を押さえしばらく立ち尽くした後、目から大粒の涙を流し、力が抜けたように地面に膝を付いた。
隼人は両親を見つめた後、戸惑いの表情でナツを見た。
「ナツ……どうして……」
ナツは隼人の疑問には答えずに、ハルがアキのために持ってきて縁側に置きっぱなしだった麦茶をごくごく飲んだ。そして一息ついたところでじろり、とアレックスを見て言った。
「あの金髪天使が連れて来いって言うもんだから、ダメ元で家まで行ったの」
憮然とした顔で言うナツに負けず、アレックスもまた終始崩れぬ不機嫌そうな顔で応酬した。
「遅いよ、連れて来るの。間に合わないかと思ったじゃない」
「お前、自分で行ってから言えよな、そういうことは。大体考えても見ろよ、お宅の息子さん、天使になって家に来てるんで、会いに来ませんか、なんて言って誰が来るよ? あー、フユ連れてって良かったな。最後はフユの可愛さでノックアウトだ。なー、フユ」
自分が飲むだけでなく、ちゃんとフユにも麦茶を注いで渡したナツは、こくこくと頷きながら麦茶を飲む弟の頭を撫でた。
ふんっ、と背けたアレックスの顔が、ほんのり赤くなっているのを隼人は信じられない面持ちで見つめた。なんで、この二人は……と思わず泣き笑いの顔になってしまう。
「……隼人……」
背後から申し訳なさそうに自分を呼ぶ声が聞こえ、隼人は思わずびくっと肩を震わせた。この声に名前を呼ばれるのはいつぶりだろう?
ゆっくりと振り向いた隼人の前に、悄然とした両親が寄り添うようにしゃがみ込んでいた。アキとハルが必死に立たせようとしていたが、腰が抜けたようで、立つこともできずにじっと隼人を見つめていた。
自分を見つめる両親の目。真っ赤に染まって涙で潤んでいる。こんなに、痩せていただろうか? 肌も、見るからにぼろぼろになって、だいぶ老けたような。
ふらり、と隼人の足は両親の元へ向かっていた。そして少し手前で同じようにしゃがみ込む。口を開くも何も言えない様子の隼人に、母親が呆然とした様子で話し始めた。
「ナツくんが、うちに来て……『どうしても今すぐうちへ来て欲しい』って言うのよ……。最初はどこへも行く気になれないからってお断りしたの。でもどうしてもって……フユくんって言ったかしら、あんな可愛い子にお願いされたら断れなくって……」
母親はそこでいったん言葉を切り、両手で顔を覆った。
「まさかあなたに会えるなんて……ああ」
再び泣き出した妻を支えるように、父親が抱き寄せた。その自然な動作に隼人はぼんやりと思う。この二人、こんなに仲が良かったかなあと。
「隼人……すまなかった……お前を、大切にすることができなくて……亡くしてから、気づくなんて……」
すっかり白髪の増えた父は、唇をかみ締めて必死に涙を堪えているようだった。
「私達を、恨んでいるだろう、憎んでいるだろう……すまなかった……許してくれ、とも言えないが……」
がっくりと両手をついてうなだれる父の姿に、隼人は心底驚いた。いつも威厳に溢れて人をあごで使うような人だったはずだ。はつらつとしていて、隙なんて一部もないみたいな、怖い怖い人だったのに。こんなに憔悴しきった姿を見るのは、十七年も同じ家で暮らしてきて初めてだった。
「ごめんなさい、隼人、本当に、悔やんでも悔やみきれないのだけれど……あなたをいつもひとりにしてしまったこと、今更後悔して……」
そこから先は懺悔大会のように、父と母が交代で、隼人に対する想いをつらつらと吐き出していった。
隼人はその様子を口をぽかんと半開きにしたまま呆然と眺めていたが、しばらく経った後、どうしたらいいのだろうか、と目線でアキに助けを求めた。
「言ってあげたらいいんだよ。隼人が思っていることを、そのまま」
あまりに不器用な家族の姿に、アキは苦笑して隼人の隣にしゃがみ込んだ。安心させるように、手を握って。
アキの手は、優しい温もりでもって隼人の心まで包み込むようだった。
隼人は小さく深呼吸をして両親へ顔を向けた。本当は、振り向いて欲しかった、ずっとその手を求めていた、その暖かさを。
アキに後押しされた隼人は、思い切って息を吸い込んだ。
「……お父さん、お母さん」
隼人の声に、二人は勢いよく顔を上げ、真剣な面持ちで息子の言葉を待った。
「……僕は、確かにずっとひとりぼっちで、寂しかったけど……でもふたりを恨んでなんかいない」
罵詈雑言を浴びせられると覚悟していたのか、意外そうな表情を浮かべた両親を、隼人は優しい目で見つめた。
「僕は、感謝して……いるんです。僕を産んでくれたこと、育ててくれたこと。だって、ふたりの子供に生まれてきたから、アキやみんなに会えた……」
隼人は涙に震える声で紡ぐ。心が、歓喜に震えている。どうしようもなく溢れる、涙と笑顔。
「ありがとう、お父さん、お母さん。最後に、愛されてるって、分かってよかった……」
泣き笑いの隼人から向けられたこの言葉に、両親は再び泣き伏し、日向家のみんなはほっとした笑顔になった。
涙が、降り止まない雨のように際限を知らず流れ続ける。みんな泣いているのに、口元が笑っていた。
死んでからようやく分かり合えるなんて、冷静に考えれば後の祭り、今更な話だ。それでも誰もひねくれた理屈など言わない。言ったところでそれこそ無粋で、どうでもいいことだからだ。
ああ、いろんなことを諦めてるのに
こんな幸せな涙も、あるんだなあ
アキは笑いながら泣く隼人を見て微笑んだ。隼人もアキを見て笑った。曇りのない、笑顔で。どちらからともなく、引き寄せ合って抱きしめる。最後のぬくもりを分け合うように。
一度目のさよならは、何もかもが絶望だった。
二度目も唐突で、後悔が残った。
そして、逃れようのない三度目がやってくる。もうすぐに。
……今度は、きっと。
微笑みあう二人の元に、隼人の両親が近づき、息子の手を握ろうとした。ようやく分かり合えた親子の感動の一幕、になるはずだった。
「あー! それ、ダメっ!」
それまでにこやかに黙って見守っていた葵が、真っ青な顔で叫んだ。
「え?」と疑問に思った瞬間に、隼人と両親の手が触れ合った。時間にしてほんの数秒。鬼のような形相で走ってきた葵が、べりっという勢いで親子を引き離した。
その場にいる全員が、呆気に取られて葵を見た。説明を求める視線に、葵は息を整えると、大きなため息とともに渋い顔でこう告げた。
「本来ならあと三十分はこうしていられる予定だったけど、今のであと十分になったわ……」