20
緑に囲まれた庭ではあるが、きつい日差しが差し込めばさすがに暑い。干しかけの洗濯物で上手く作られていた日陰が、いつの間にか移動してアキと隼人に容赦ない日差しを浴びせていた。アキは隼人の手を取り促すと、涼しい縁側に並んで腰掛けた。
栄と葵も同じように、柱を挟んだ隣に座り、ハルは思い出したかのように立ち上がって洗濯物を干し始めた。アレックスは日差しもなんのその、全員を見渡せる位置で、腕を組んでつまらなそうに立っていた。
「あのね、隼人。隼人が『私が望むなら、ずっと傍にいてくれる』って言ってくれたとき、本当に嬉しかった。でもね、頭のどこかで嘘だって思ってた。だって隼人は……死んでしまったから。きっと私を慰めてくれる優しい嘘だと思った……」
アキは泣きそうに顔を歪めながら、数日前のことを思い起こす。
今なら分かる。隼人が、正天使という方法でもって自分の傍に留まろうとしてくれていたのだと。隼人にはそれしか選べる方法がなかったのだと、たとえそれが、隼人自身を犠牲にする手段であっても。
だからまず伝えなくてはならない。自分がどれだけ隼人を大切に思っているのか、アキ自身の言葉で。
「隼人の気持ちは嬉しい……でも隼人が隼人じゃなくなるのは、いやだよ」
アキは両手で隼人の手を包み込んだ。じっとその茶色の目を見つめ、願う。どうか、伝わって欲しいと。
そんなアキの大きな黒い目に見つめられ、隼人の涙で充血した瞳が、揺れる。
葵もアキも、アレックスも、こんなに強い思いで引き止めてくれているのだから、やっぱり正天使になるのはやめよう、そう隼人は思い始めていた。だが隼人には、どうしても拭い切れない懸念があった。
「だけど僕は……」
「ねえ、隼人。私、ずっと隼人のこと、好きだよ。死んだって好きだよ。何年経っても、大人になって、おばあちゃんになってもずっと好きでいる」
隼人の揺れる気持ちを見て取り、そのマイナスの思考を取り払おうとアキは隼人の言葉を遮って続ける。手の中の隼人の冷たい手に、温もりが移るくらいにぎゅっと握り締めた。
「でも……!」
真剣な表情でアキが言っても、隼人の顔から不安が消えない。
アキのことを信じられないわけじゃない。アキの想いは嬉しい。けれどもそれは無理なことだと隼人は思う。
アキはまだ十七歳だ、これから長い人生、いつか誰かを好きになって結婚もするだろう。自分が相手でないのは心底悔しいが、隼人にはどうすることもできない。「口出しする権利すらないのだ」、隼人はそう言って俯いた。
「権利ならあるよ」
アキは一瞬きょとんとしたが、すぐに至極真面目な顔になってさらっと言った。そして隼人の手を握り直し、アキはにっこり笑った。
「だって私、隼人と別れたつもりはないの。だから、あなたはずっと私の恋人。それにね……」
アキは何が可笑しいのかくすくす笑った。そして身を乗り出して隼人に近づく。
「……多分隼人以外のところに、お嫁に出してくれないわ、うちの男衆」
誰にも聞こえないように耳元で囁かれた内緒話に、隼人は思わず吹き出した。……ありえるかも。
隼人がようやく笑ったのを見て、アキもほっとした笑顔になった。
「それでもね、隼人が心配だって言うなら、うちの家族がいるよ。みんな、隼人のこと大好きだから。……ね、お父さん」
「ああ」と栄は頷いた。そして隼人をしっかりと見据えて口を開く。栄の隣で葵が笑いながら「ば か ね」と口を動かすのが見えた。
「俺も、お前のことは四人目の息子だと、思っていたよ。……家族だと。お前と過ごした時間は決して長くはないが、それでもお前はうちの家族だ。……なあ、そうだろう? ハル」
少し離れた場所で洗濯物を干しながら聞き耳を立てていたハルは、突然大声で話を振られて少し驚いた顔をしたが、すぐに即答した。
「ああ、当たり前だ」
栄によく似た低音がはっきりと響く。自信に溢れたその顔は、満面の笑みだった。
「ナツもフユもそう思ってるさ。お前のこと、絶対忘れたりしない。だから隼人、勝手に不安になるんじゃねーよ、ばーか」
笑い飛ばすみたいにハルは豪快に言った。大体の事情は昨夜ナツから聞いて知っている。だから隼人にはひと言言ってやりたかった。……見くびるな、と。一緒に過ごしてきた時間と絆を勘違いするな、と。
ハルの視線を受け止め隼人は笑った。悲しそうな含み笑顔ではなく、ちゃんと笑っていた。この上なく、嬉しそうに。
「……ありがとう、皆さん。僕は、本当に幸せ者だと思います。素敵な家族の一員にしてもらえて……良かった」
そして込み上げる涙を堪えきれずに、隼人は泣いた。
「死にたくなんて……なかった……」
嗚咽の間に零れた本音に、全員が途方もないやりきれなさを感じた。今のは隼人の、心の底からの本音であっただろう。
彼が死にさえしなければ、話はこんなにややこしくなかった。誰も傷つくことはなく、幸せな日常は続いていたはずだった。それでも隼人は死んでしまった。もう、どうしようもない、それが事実なのだ。
アキは泣き続ける隼人の頭を抱えるように抱き寄せた。せめて自分は泣かないように、と歯を食いしばって。
「本当の両親には、愛されなかったけど……でもこうして家族だって言ってもらって、僕は、ほんとにっ……」
「愛されてるよ!」
アキは慌てて言った。隼人に伝えなければならない大切なこと。ちゃんと伝えなければ、と隼人の背中に手をやって顔を覗き込む。ぼろぼろに泣き崩れた隼人は顔を見せたくないのか強情に屈んだまま、首を振った。……そんなことは、ありえないというように。
仕方がないのでアキはそのまま話し出した。せめて気持ちが伝わるように。隼人の両親の想いが、間違いなく伝わればいいと願いながら。
「……ごめんね、隼人。今までずっと隼人のお父さんとお母さんのこと、私すっかり忘れてた……。でも今朝、お母さんのお墓参りに行って、隼人のお父さんとお母さんに会ったの。……おばさん、すごく痩せちゃってた。目の下にはすごいくまがあった。おじさんも、すごく疲れた顔で、目が真っ赤だった」
ゆっくりと静かに響くアキの声に、隼人がぴくりと反応し、のっそり身を起こした。その目は信じられない、と言わんばかりに見開かれて揺れている。隼人の目を見ながら、アキは優しい表情で続けた。
「本当だよ……。隼人のお墓はお花でいっぱいですごく綺麗にされてた。……毎日、来てるんだって。 ね? お父さん」
自分の話に根拠があるのだと、証人を求めてアキは父に話を振った。
「あ、ああ」
栄は少し挙動不審に目を動かしながら頷いた。
「毎日、来ては泣いてるんだって。私だってびっくりしたよ。おじさんに初めて名前呼ばれたし……」
「……冗談はやめてよ、アキ。そんなこと、言わなくたっていいんだ。僕はもう……」
どうしても信じられないといった様子で、隼人はアキの話を遮った。片手で目の上を押さえ、もう片方の手で拒否を示す。
「僕の両親はそんな人じゃない。僕はもうずっとひとりで過ごしてきた。あの大きな家で」
隼人は言いながら首を振り、体を丸め、全身でアキの話を拒絶する。
「僕を育ててくれたのは母じゃなく家政婦さん、僕をほめてくれたのは父じゃなく執事の田中さんだ。……愛されてない。とうの昔に諦めたんだ、そのことは」
話を真っ向から否定し、聞く耳も持とうとしない隼人に、アキはどうしたらいいかと戸惑う。
隼人の心に頑なに縛り付けられた冷たい両親の面影。隼人がどれだけ悲しんでいたのか、今ならアキにも分かる。あんな大きくて寂しい家で、隼人のように優しい穏やかな人が育ったのが何かの奇跡みたいに、それほどまでに冷たい人たちだったと思う。でも今は、今の隼人の両親は以前の面影なんてすっかりどこかへ消えてしまって、アキのようにどこにもやれない重い気持ちを抱え込んで苦しんでいるのだ。それを知ってアキは、このまま、このすれ違う家族を放ってはおけないと強く思った。
「……私、連れてくる」
突然立ち上がったアキに、隼人は慌てた。
「は? 僕の両親を? アキ、そんなことしなくていい。来るはずないから!」
アキの腕を掴んで引き止めた隼人に、アキは強い意志を宿した瞳を向けた。
「ううん、絶対来てくれるから、行ってくる」
「だからっ! 絶対に来ないから、行くだけ無駄だよ!」
「行くだけ無駄かどうかは」
走り出そうとするアキとそれを止めようとする隼人の攻防戦に、聞き覚えのある高めの声がストップをかけた。
「仕上げを御覧じろ、ってやつだな」