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いない。キミが。
どこにも、どこにも。
どうして、なの?
「アキ、ご飯できたよ」
縁側に座り込み、ぼーっと庭を眺めていたアキに、長兄のハルが声をかけた。
夏真っ盛りの八月、夕方の庭には大輪の向日葵がまるで黄色い壁のように一面に咲き誇っている。さわさわと大きな緑の葉を風に揺らし、その存在を声高に主張する。
ちょうど縁側が陰になるように造られた棚に、キウイと葡萄が旺盛につるを伸ばし、その大きな葉を元気よく広げる。緑のカーテンに遮られた太陽の光は、夕方なのもあってだいぶ柔らかい。
鮮やかな水色のワンピースを纏い、ウェーブのかかった黒髪を背中に流したアキは、蝉の耳障りな鳴き声すら相殺する静かさを周囲に放ち、まるで一幅の画のようにそこに存在していた。
大学生である長男のハルは、学生の特権である夏休みをフルに利用して、今一番の心配の種であるただひとりの妹、アキにかかりっきりであった。体力を生かしたアルバイトに精を出しつつ、やらなくてはならない課題を適当に片付け、空いた時間のすべてでアキの世話を焼く。健康で体力が有り余るほどでよかったと、今ほど感じたことはない。時間は買いたいほどに欲しいが、全ては大切な妹のため。
だが当のアキは、呼びかけられたことにさえ気付かぬ様子で、微動だにしない。呼吸しているのかすら疑わしいほど、風景に溶け込んだ無機質な姿。目線の先にあるのに、咲き誇る向日葵の鮮やかな黄色さえ映さない暗いアキの瞳に、ハルはその広い肩を落とし、小さくため息をついた。
「アキ、ご飯だよ」
今度は肩にそっと手をやって呼びかける。アキはびくりと体を震わせはっと弾かれる様に顔を上げ、ハルを見た。そして瞬時に花の様な笑顔で笑った。
「わ、ハル兄、びっくりした。呼んでくれれば行ったのに」
明らかに驚いたのにそれを必死で誤魔化すアキの様子に、ハルは痛々しさを感じその頭を撫でた。
「呼んだよ。大声でな。……ほら、行くよ」
「はーい」
アキは元気に返事をしてすぐに立ち上がった。しかしその瞬間にふらりとよろめいた。慌ててすぐ傍にいたハルにしがみついて、バツが悪そうに微笑んで言う。
「ずっと座ってたからかなぁ? はは。……今日の夕飯なぁに?」
アキの足元がふらついたのを見逃さなかったハルは咄嗟にアキの身体を支えた。最近はいつもこうだったから、立ちくらみを想定していつも注意を欠かさない。ハルはやっぱり今日も、と思って一瞬険しい表情をしたが、すぐに笑顔に戻って言った。
「ナツ特製の天ぷらにそうめんだ。今日みたいな暑い日には最適だろ?」
その言葉にアキはにっこり微笑んだ。
「うん、そうだね。早く行こう!」
「……アキ」
「ん? 何、ハル兄?」
自分の腕から空気のようにするりと抜け出して、ひとりで歩き出したアキの背に、ハルは思わず呼びかけた。一瞬迷ったような表情の後で、ハルは短く刈った頭を掻いて笑った。
「いんや、何でもない。さ、飯だ飯だ!」
アキの背中に手を添えてそっと促し、家族の待つ居間に向かった。
日向家では、家事は分担制である。掃除、洗濯、食事……。全てをハル、ナツ、アキ、フユの四人兄弟と、父親である栄の五人で分担して行なっている。
今日の食事当番は次男のナツで、後片付けは長男のハルの担当であった。
次男のナツはアキと双子として生を受けた高校二年生で、地元の男子校へ通っている。今はやはり夏休み中で、時間を作っては短期アルバイトに勤しむ勤労学生だ。
家族そろって囲んだ夕食の後で、がちゃがちゃと音を立てて皿を洗うハルの元へ、ナツは少し長めに伸ばした明るめの髪をゴムで縛りながら近づいた。
「アキは、大丈夫なのか? 今晩もあんま食べてなかったし……。栄養失調になったりはしないだろうな……」
抑え目の声で心配そうにハルに向かって問うたナツは、泡だらけになった皿を水で流すべく、水道の蛇口をひねる。ナツは普段から多くの家事をこなしている為、本来ハルの当番を手伝ったりはしない。だがわざわざ自分の隣にやってきた理由をわかっているハルは、何故手伝うのかなどとは聞かず、スポンジを動かしながらナツの質問に答えた。
「栄養は……なんとか足りている……と思う。野菜ジュースやらサプリやらで……。だが絶対的にカロリーが足りてない。大分痩せた。さっきも立ちくらみを起こしたみたいだ」
ざばざばと放出した水を惜しげもなく使って泡を流していくナツは、重苦しいため息をついた。顔を下げた拍子に落ちてきた前髪を邪魔そうに首を振って払う。その間も顰めた眉は額の中心で細かい縦皺を刻んでいて、不満と悲しみが同居しているような表情だった。
「もう一ヶ月だぞ……。どうしたらいいんだ? 俺たち兄弟じゃ、アキの心は癒してやれないのかな……」
ナツの独り言のような問いに、ハルも答えを探しあぐねて黙っていた。
考え付く方法は何でも試した。ただアキの為、アキが再び笑ってくれるようにと願い、動き続けてきた。だがアキはその本来の笑顔も、瞳の輝きも無くしたまま、もうひと月が経ってしまっていた。
「アキのあの顔見てるとさ、俺、いっそ泣いていいよって抱きしめてやりたくなるんだよな……」
うめく様に言ったナツに、ハルも同意を示した。
「ああ、そうだな……。少しでも気持ちを吐き出してくれれば……」
泡だらけのスポンジを握り締めて、それっきり沈黙してしまったハルの隣で、ナツは呟く。
「……馬鹿やろー、隼人……」
『本当は、お前の仕事だろう』と続けて小さく呟かれた言葉を、ハルは聞こえない振りするしかできなかった。
重苦しい空気が立ち込める、男ふたりが皿洗いをする台所の隣。障子を挟んで居間では末っ子のフユと父の栄がテレビを見ていた。ゴールデンタイムのバラエティで、画面の中ではたくさんの人が賑やかにおしゃべりしている。
大人しくテレビを見ているのかと思いきや、身体だけテレビの方向に向けて実は、逞しい長兄と細身の次兄のふたつの背中を静かに見つめていたフユは、瞬きをひとつして、音を立てずに立ち上がった。
軽快な足音で去っていく末の息子を、同じく居間にいた父、栄は無言で見送った。テーブルに肩肘をつき、フユと同じように身体はテレビの方向に向けたまま、栄はちらりと居間の隅にある仏壇に目をやって、そしてまたテレビに目線を戻した。……画面の中で笑い転げる人々を、見つめるその目は冷めている。焦点もあっていない。
音は、テレビから聞こえる意味のない響きだけ。
家族が賑やかに喋り、明るく楽しかった日向家の面影は、今は、ない。
風呂から上がったアキは、自室のベッドに腰掛け、電気もつけないままの暗がりで、何をするでもなく座っていた。最近はこうしてベッドに座り、いつのまにか意識が途切れて眠るのを待っている。別の場所にいて眠ってしまえば、家族に迷惑がかかることを学んだのだ。
ここ二週間ほど夢遊病になったかのように、変な場所で目覚めることが多く、縁側で座ったままだったり、玄関の外で意識を取り戻したこともあった。一度はすっかり水に戻った風呂の中で目覚め、朝起きてきてそこに居合わせたナツが、真っ青になって叫び、大騒ぎになってしまった。それ以来、こうしてベッドの上にいれば、いつ眠ってしまっても目覚めたときはベッドの上であり、家族に要らぬ心配を掛けなくてすむ、とアキは思っていた。体が睡眠を求めるギリギリまで目を開けていて、気がついた時には眠っていた、というのが一番楽なのだ。無理矢理寝ようとしても、睡魔は襲ってこない。
ふと、見つめられている気がして顔を上げると、ドアのところに弟のフユが立ってこちらを伺っていた。フユは日向家の三男で末っ子、今年十一歳の小学校五年生だ。ナツと同じ少し明るめの、くるくるした髪に、母親譲りのくりっとした大きな瞳。まるで天使のような容貌は、ご近所のおばちゃんたちのアイドルと化している。
アキは少し首を傾げ、そしてフユに向かって手招きをした。
「どしたの? フユ。入っておいで?」
その言葉に、フユはとことこと近づいてきて、アキの座るベッドの端にちょこんと腰掛けた。
「アキちゃん、ぼくね……」
フユは言い出すなりそれっきり口ごもってしまい、もじもじしている。ものすごく可愛いが、それでは一体何が言いたいのか全くわからない。フユの柔らかな髪を撫でながら、アキは先を促した。
「フユ? どうしたの? 何か言いたいことがあるんでしょ? 言ってごらん?」
「う、うん……。あのね、ぼく……ね。……このあいだ、隼人兄ちゃんを見たんだよ。アキちゃんが座ってるえんがわのね、ひまわりの前に立ってね、アキちゃんのこと見てたの」
まだ幼い弟がもじもじと言った突拍子のない発言に、アキは目をみはる。言い難そうにしていた理由が分かった。幼くたってフユには分かっているのか。アキの顔が一気に歪む。
「……フユ。隼人兄ちゃんはもういないんだよ? 一緒に見送ったでしょ?」
動揺して声が震えるのが分かる。フユの頭を撫でていた手も、油の切れたからくり人形のように、ぎこちなく彷徨う。だがフユはアキの動揺に気付かずに、むしろ嬉しそうに話し出した。
「うん、アキちゃん言ってたよね。隼人兄ちゃんは、ママみたいに天国へ行ったんでしょ? ママもね、時々会いに来てくれるんだよ。夢でね、会ったんだ」
フユの何の気ない言葉と無邪気さがアキに激しい衝撃と動揺を与える。胸が苦しくて、思わず「ひゅっ」と息を飲み込んだ。
……本当にそうならいい。幽霊だって夢だってなんだっていい。もう一度会えるなら。
……だけどもう会えない。もうこんなにも純粋な子供じゃない。分かっている。……十分すぎるほど、分かっているのだ。
イライラが、言葉に棘を生やす。
「フユ、お姉ちゃんそういう冗談はキライよ。天国へ行った人には会えないの。……死んじゃった人には、二度と会えないんだよ」
自分の言葉に余計に傷ついて、胸がずきんと痛んだ。目の淵に溢れようとする涙を堪えるのに、のどが痛む。
上からポツリポツリと屋根に当たる雨の音が聞こえてきた。大粒の雨音。
いつもはやさしい姉が初めて見せる荒げた声と突き放すような態度に、フユはびくりと体を揺らし、アキから離れるように身を縮めた。
「……っ! アキちゃん、ご、ごめんね……。ぼ、ぼく……」
弟の大きな瞳から涙が溢れるのを見て、アキははっとした。慌ててフユを慰めるも、甘やかして育ててしまったのか、末っ子の彼は昔から一度泣き出すとなかなか泣き止まない。
泣く少年と連動するかのように、降り出した雨はスコールのように一気に本降りになり、屋根を叩く。
「フユ、ごめんね、フユは悪くないよ。お姉ちゃんが悪いんだよ、ごめんね……」
子供特有の少し高めの体温を感じながら、アキはその柔らかい体を抱きしめる。ざあざあと振り続ける雨の音に紛れながらひっく、としゃくりあげる小さな体をさすり、ごめんねを繰り返す。
心に、穴が開いている。
こんな風に、フユを怖がらせて泣かせたことなんてなかった。それ以上に、泣いているフユを見ても、動かない心。
ブラックホールのようにぽっかりと胸に開いた穴は、深く黒い闇の中で、何もかもを噛み砕き、飲み込み、沈ませ、全ての感覚を麻痺させる。痛みだけが、チクチクと刺すような、ジクジクと滲むような痛みだけが、執拗にアキを責め立てる。まだ、生きているのだと、体の存在を声高に主張する。
―隼人
動くべき脳の大半はただひとつの思念に取り付かれるように停止している。
―隼人
フユの柔らかな髪を撫でつつ、くちびるは想いのこもらない「ごめんね」を呟き続ける。さきほどは堪えられたはずの涙が、ぼろりと頬を伝っていく。
―隼人
どうして
死んでしまったの?
薄れていく意識の片隅に、耳障りな雨音がずっと響いていた。
雨はキライ。
君とさよならした日のことを
思い出してしまうから