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 ひとの都合も願いも、一切に関係なく無慈悲に流れ去る時間。……そして日常はやってくる、どんなときにも。



 気づいたときには窓の外が明るくなっていた。


 ゆっくりと瞼を上下させて、今自分がどこにいるのかを認識する。

 カーテンを引き忘れた窓から、緩やかな朝の光が差し込んでいる。頭の下に感じる枕の柔らかさ、手を動かすと慣れたシーツの感触がした。

 アキはぼんやりと思考を巡らせた。いつも通りの、ベッドの上。家族に迷惑のかからない、自分の部屋の。


 コンコン、とドアをノックされる音が響き、少しの間を置いてドアが開かれた。


「……おはよう、アキ、起きてる?」


 顔を出したのは、ナツだった。

 アキはぼんやりと思う。何故ナツが自分を起こしにくるのだろうか。いつもは、彼が。……彼が。


「……隼人……は……」


 口に出した瞬間、アキの思考は何か靄のようなもので全て遮られた。


 心の底のブラックホールがまた、ぱくりと大きな口を開いて蠢き出す。暗い暗い底なしのどこかへ向かって、アキの心の端を握ってずるずると沈んでいくような感覚。


「おい、アキ、大丈夫か?」



 ナツの心配する声も、表情も、何もかもがぼんやりとしている。


 ―隼人




 アキの頭の中は、完全に真っ白だった。



 ―明後日の朝。それが最後。


 そういったアレックスの声とその鮮烈な緑の瞳だけが頭の片隅に引っかかってぐるぐると回っていた。


 






 朝ごはんの目玉焼きにかけるはずの醤油を、味噌汁の中に入れた。それも大量に。

 後片付けをしながら、何枚も皿を割って。

 せっかく乾いて取り込んだ洗濯物を、何故かまた洗濯機に入れて回し。


「アキは大丈夫なのか? 隼人は一体……」


 ハルの心配そうな言葉に答えることができたのは、ナツだけだった。

 隼人がいなくなったことも、アキの様子が明らかにおかしいことも家族全員が気づいていた。だが栄はアキのことを気にかけつつも口は出さず仕事に行ってしまい、フユは何をしようにも幼すぎた。


「……わかんねぇ。隼人は多分、天国? 天界? いやどっちでもいいけど、帰ったんだ。正確に言えば強制的に帰らされたんだろうと思うけど」


 ふたりは風呂場の横の脱衣所に設えられた洗濯機の前にいた。アキが再び回してしまった洗濯物の脱水が終わるのを待ち、再び庭に干すためだ。日差しは傾いてきてはいるが、この暑さだから乾くだろうと踏んでいる。


「あの金髪天使……隼人の親友とか言ってたが」


 ナツは苦々しい顔でアレックスのことを思い出していた。少年にしか見えなかったが、多分そんな純粋な年でも可愛い気のある性格でもない。


「大体何だってんだ、あいつ。俺に……」


 唇を噛んで腕組みをし、普段は滅多に見せないイラついた表情を隠そうともしないナツに、ハルは首を傾げた。


「……? 何だ、金髪天使に何か言われたのか?」


「んー、いや、それはいいんだ、別に。ただ……」


 ハルの疑問を右手を挙げて遮り、ナツは首を振った。アレックスのことはいい、言いたいことはなんとなく分かったから。それよりもアキのことだ。ナツは見えはしないがアキが座り込んだまま動かない縁側の方へ視線を向けた。

 その視線の方向に目をやり、ナツが言いたいことに気がついたハルは、ため息と共に言葉を繋いだ。


「……アキ、戻っちゃったな。隼人が戻ってくる前に」


「……まるで人形だ。息してるのが奇跡みたいな」


 背の高い男二人が揃って肩を落とし、廊下の壁のその先を見つめていた。朝からのアキの失敗の数々はどうでもいい。皿は買えばいいし、洗濯物は干せばいい。ふたりが気にしているのはアキが話さなくなったことだ。

 隼人が死んでしばらくの間、食べもしないし眠りもしなかったアキは、その間一言も話さなかった。ただ家の至る所で立ち尽くし、座り込み、時間が流れていくのをじっとやり過ごしていた。今はそんなあの頃に、すっかり戻ってしまっていた。隼人が天使として戻ってきてからアキは本来のように明るさを取り戻していたためにその落差は激しかった。


「明後日の朝が最後だって、金髪天使は言ったんだよな……?」


 ぼそっとハルが呟いた。


「うん、そう言ってた。つまり明日の朝だね。……朝から、昼までだってあいつは言ったよ」


 ナツはハルの質問にぼんやりと返した。……希望があるとすればその短い時間の間だ。事情はよく分からない。でも隼人なら、自分が知っている隼人なら、ただアキを悲しませる為にわざわざ天使になってやってきた訳じゃないとナツは信じている。


「俺はさ、信じるよ。隼人を。あいつがきっと何とかしてくれる」


 ハルが遠くに視線を遣ったまま確信を持った響きで呟いた。自分と同じことを考えた兄に、ナツは一瞬大きく目を瞠り、そして微笑んだ。


「……ああ、俺もそう思う」


 ちょうど洗濯機がゴウンゴウンと音を立てて止まり、脱水を終了する合図がして、ふたりは互いを励ましあうように笑いながら洗濯物を取り出した。




 大きな洗濯籠を手に持ち、庭に出たハルとナツは、朝からずっとそこに座ったままのアキを見て、思わずため息を零してしまった。つい先ほど、隼人を信じると言ったばかりだったが、アキのこの状態にはほとほと頭が痛い。この暑い夏の日なのだ、せめて水分は取って欲しいと傍にスポーツドリンクのペットボトルを置いておいたが、開封された様子もなくすっかり温くなっているだろう。

 ハルとナツは目配せして、ナツはアキのほうへ歩み寄った。ハルは洗濯物を干し始める。


「なぁ、アキ。水ぐらい飲めよ。干からびちゃうぞ」


 ナツはそう言ってアキの隣に腰を下ろした。ペットボトルを開けてアキの口元まで持っていく。しかしアキはぼんやりと柱に寄りかかったまま、微動だにせずじっと、向日葵が揺れているのを眺めている。視線の先で洗濯物を干すハルがちらちらとこちらを伺っているが、おそらくアキには見えていないだろう。


「……なぁ、アキ。ちょっとでもいいからさ」


 焦れたナツは、ペットボトルの口を更にアキに近づけた。このまま放っておいたら熱中症になってしまうのではないかと心配しているのだ。隼人がいたら口移しで飲ませてもらうのにと思って、自分の思考の馬鹿さ加減を呪った。


「アキ」


 再三のナツの言葉に、アキは反応を示した。しかしそれは首を横に振る、拒否の反応だった。

 少しだけ首を振って、アキは再び視線を遠くに投げた。本当に人形のように、何の光も映さない暗いその瞳に、ナツは心に苛立ちが沸き起こるのを感じた。


「……アキ。そんな風に黙ってないで、話せよ。昨日何があったのか」


 手に持ったスポーツドリンクを蓋もせずに握り締め、ナツは言った。

 分かっている、隼人がいなくなってどうしようもなく動揺していることくらい。けれどもそれを家族の誰にも話さずに、ただ自分の心の中だけに押しとどめておくアキのやり方に納得できなかった。


「なあ、アキ、いい加減話せよ。何があったんだ?」


 アキはただ夕暮れに染まっていく空をぼんやりと眺めるばかりで、返事をしなかった。


「おい、アキ。聞いてるのか?」


 縁側から下りて正面に回りこむ。アキの肩を掴んで揺すってみる。


「なあ、アキ!」


「……ほっといて」


 ようやくアキの口から零れ落ちたのは、突き放すような一言だった。

 こちらを見ることもなく、ただ、拒絶するアキの言葉。ナツはその瞬間、自身を抑えることができなかった。


 ぱちん



 一瞬の間の後、じんじん熱を帯びてきた左のほおを、アキは目を丸くして押さえた。そうしてようやくナツの顔を見た。見たこともないくらいに辛そうに歪んだその表情。


 生まれてからずっと一緒だったナツ。叩かれたことなど一度もない。


「どうしてお前はそうなんだ? ひとりで抱え込んで、無理して。どうして俺達に分けてくれない?」


 ナツの叫ぶ声が、耳を通り過ぎていく。両肩を掴まれ、揺さぶられながら、アキはナツを見つめた。苛立ちと後悔が入り混じったような真剣な表情。茶色の大きな瞳が訴えてくるナツの思いを受け止めることができずに、アキは目を逸らした。


「……おい、ナツ! 興奮しすぎだ」


 そういってハルが割って入るも、ナツの言葉は止まらない。


「俺達はお前の心配をしちゃダメか? 隼人の心配をしちゃダメなのか? 家族だろう! そういうもんだろ?」


 ハルに押さえられながらなおも言い募るナツの言葉を、目を伏せて受け流し、アキは肩に置かれたナツの手を払い、立ち上がった。


「おい、アキ?」


 ゆらりと立ち上がったアキを見て、ハルは慌てて声を掛けた。だがその声に、アキを止める力はなかった。アキは素早く玄関にまわり、靴をはいてそのまま家を飛び出した。



 アキはひどく混乱していた。


 叩かれた頬が熱い。

 ナツの瞳、震える声、手の力。

 心配されている、心配されたくない。……触れられたくない、誰にも。


 ―明日が、来てしまうのに。


 わけもわからぬまま、走り続けた。住宅街を抜けて、足が向く方へ。

 だんだん切れてくる息が、苦しくなる心臓が、今のアキには甘美な毒のように、いっそ心地よく思えた。




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