13
「え……?」
あまりに突然の出来事に、アキは何が起きたのか一瞬分からず、きょろきょろと隼人を目で探した。
小さな部屋の中には半透明に透けるアレックスしか居なかった。先ほどまで確かに自分を抱きしめてくれていた隼人の存在が、なくなっていた。混乱しているアキを、アレックスは至極落ち着いた様子で腕組みをして、高圧的に見下ろした。
「ねぇ、さっきハヤトに何て言うつもりだった?」
未だ状況についていけないアキは、何故今、そんなことを聞くのだろうかと、涙目のままアレックスを見上げた。
「何って……。『私はもう大丈夫だから、天国へ帰って』って……」
混乱した思考の中でそれでも律儀に答えたアキに対して、アレックスはとたんに大げさな素振りで大きくため息をついた。
「はぁー。ぶっぶー」
両手を使ってわざわざバツ印を表現するアレックスを、アキは呆然と見上げるしか出来ない。
「この場合、『帰らないで』も『帰って』も、不正解だよ、バカ女」
『バカ女』呼ばわりされても、アキにとってはさほど重要なことではなかった。
隼人が、居ない。……居なくなった。
何も言えないまま、何も聞けないまま。
アレックスが何の目的でここへ来たのかは分からない。ただ彼は、彼も隼人のことが大好きで、守りたいと思っている、そのことはアキにも理解できた。しかしこの仕打ちはあんまりではないか? アレックスに一体どんな権利があって、こんな風に隼人と引き離すのだろうか。
「……どうして、突然隼人は消えたの?」
じわじわと浮かんできた怒りを押し隠した瞳で見上げ、問う。するとアレックスは意外だったのか、一瞬驚いた表情を見せたが、次の瞬間またいじわるな顔つきになって言った。
「あのヒマワリはキミのママがボクに持たせたものだよ? あんまり言うこと聞かないようなら使うようにって。アレで有無を言わさず強制帰還させたのさ」
―お母さんが? 隼人を?
ああ、それならきっと、何か意味があるはずだ。一瞬、頭が真っ白になったが、アキはそう思い直した。そして今は母のことよりも、気になっていることがひとつ。
「……でもさっきのタイミングを選んだのは、あなたよね? 何で? 私にそんなに意地悪したかった?」
涙の滲んだ瞳で、キッとアレックスを睨みつける。お母さんが隼人と関わりがあって天国に帰そうとしていようと、先ほどの、あの瞬間はアレックスの選択だ。何もあんな風に別れさせることはない、お母さんだって望んでいなかったはずだ。もう苛立ちは隠さない。きっと彼とは闘わなくちゃならないんだ、とアキは思った。
するとアレックスは少し嫌そうな顔で眉間に皺を寄せた。もはや美少年の面影のない、ブラックな顔つきになっている。
「キミはさぁ、自分のことナニサマだと思ってる? 生きてる人間がそんなに偉い? 死んだ人間には選択権なんてない?」
「そ、そんなこと思ってないっ!」
アレックスが黒いオーラとともに、プレッシャーをかけて来て、アキは思わず肩を揺らした。先ほどの心の中での決意が、アレックスの謎の威圧感に揺らいでいる。彼が何をどう考えての質問なのかよく分からない。だがたじろぎながらも、アキは必死に否定した。
「仮にキミはそう思っていないとして」
一呼吸の後で、アレックスの声から棘が消えた。先ほどまでの圧力はどこかへ消え、妙に軽い雰囲気になったアレックスがアキのほうへと歩み寄ってきた。アキが後ずさったのは無理もないが。
アレックスはまるで仕事帰りのサラリーマンのように、首を左右に曲げ肩を回した。疲れを訴えるその動作にアキは不審げに眉を顰める。最初から今まで、彼についてはわからないことばかりだ。そしてそんなお疲れの様子のアレックスは、肩を回しながらぼそりと言葉を零した。
「死んだ人間は、生きている人間が羨ましい」
告げられた言葉は、一言で噛み砕けない、真理。
「だって考えてもみなよ? こっちからはあっちの様子見れないけど、あっちからはほとんど見放題だよ? 自分がいなくなっても、みんな何事もなかった顔して生きていく。これほどの拷問はナイと思うね」
アレックスはアキの前を通り過ぎ、先ほどまでアキが座っていた化粧台前の椅子に、足を組んで腰掛けた。座った瞬間、アレックスの半透明の体は一瞬実体を持つようにはっきりしたが、すぐに半透明に戻った。
「その上、『自分』が癒えるか消えるかが、生きてる人間に託されてるなんて、一体誰が決めたルールなんだか」
先ほどまでの黒い気配も刺々しさもすっかりどこかに消え、だいぶ楽な空気になった。しかし気分屋なのか、とにかく大変自由に振舞うこの金髪の少年は、全く掴みどころがない。
アキは無言でアレックスを見つめ、彼の次の言葉を待った。先ほどの言葉が一体どういう意味なのか聞きたかったし、何より天国での様々なことを、アキは知らなすぎる。突然消えた隼人がどうなったのかも、もはやアレックスにいろいろ尋ねるしかないが、これまでの短い経験上、刺激する言葉を言うよりも黙っていたほうがアレックスは機嫌を損ねずむしろ勝手に話してくれそう、という判断だった。
「……キミに教えてあげる。天国に存在する無数の魂の行く末を」
アキを見る視線はいまだ温かいものではなかったが、アキの思ったとおり、アレックスは話を始めてくれた。
天国に存在する魂は、長い時間をかけてその身に付いた傷を癒し、そして次の生へと転生していく。ただし転生前の魂の状態には二通りある。自我を保っているか、いないかという大きな違いが。
ひとは死んで、天国にやってくる。死ぬ日を自分で選べる人はまずいない。突然に、あるいはゆっくりと、命の時間は奪われ、そして天国へやってくる。
天国で目覚めたとき、ひとはそれまでの記憶と意識、つまり自我を保っている。誰が言い始めたのか、それは『第二の生』とも言われている。だが死ぬ前と死んだ後とで大きく違うことがひとつ。それまで当たり前に存在していた全てが傍にないこと、である。
肉体のない魂に合わせて、天国にある全てのものには実体がない。それゆえに天国の住人は何不自由することなく、望むならば生きていたときと同じ生活を、もしくはさらに良い生活さえも選べる。物欲は満たされる。しかしそこに、どんなに望んでもいて欲しい人は存在しえない。
愛するひとも、家族も、会社の人間も、隣近所の人も、飼っていた犬も。ああ、こんなにもたくさんのひとに囲まれていたのか、と感じた後で、誰もが心配に思う。自分は、誰かの記憶に留まれるだろうか。誰も思い出してくれなくなったら、寂しい、と。
寂しくなって、<窓>を覗きに行く。
<窓>は生きていた世界を見せてくれる唯一の場所だ。それは幻想でも想像でもない、本物の姿。自分が、いなくなった後も平然と流れて行き着いた時間の姿。
まるで空から見下ろすようなアングルでしか覗けない<窓>から、“地上”を見下ろし、ああ、大丈夫、と安堵する。
自分は、まだ、忘れられていない。
その安堵感が、魂が大なり小なり抱えた傷を癒していく。
のんびりと流れていく天国の時間の中徐々に癒されていく魂は、しかしある時、<窓>に何も映らないことに気づく。
「<窓>に映るのは、死者の望みじゃない。生きてる人の想い、なんだよ。つまり、死んだ人を想っている人の姿がそこに映る。だから何も映らないってことは、誰からも忘れられたってことなのさ」
アレックスが足をぶらぶらさせながら言う。
ひどく不満げなその様子が、アキを何故かほっとさせた。椅子に座ったアレックスを、床に座り込んだアキは見上げる形になる。
その身長と柔らかそうな肌、まだ幼さの残る顔立ちから、アレックスは自分より少し年下だろうと想像する。しかし生意気でかつ大人びた言葉ばかり口にするこの少年はきっと、死んでしまってから長い時間を過ごしてきたのだろう、そう思った。
生きているひとに忘れられたとき。それを魂の『第二の死』と呼ぶ。
自我を持った魂は、自分が忘れられてしまった事実に耐えられず、『自分』を消してしまう。自我を無くした魂は、それは何の意思も感情もない、ただのまっさらなエネルギーとなり、転生の時を待って天国の周囲を浮遊する光となる。
大抵の魂がこの『第二の死』を迎える一方で、一部の魂は自我を保ったまま、転生の時を迎える。
「別に自我がない状態が悪いってワケじゃないよ? いつかはなくなってしまうものだから。でもボクの目標は、このボクの意識を保ったまま、転生の儀を受けることなんだ。……ボクのことはね、ボクの妹がずっと覚えててくれてる。もう六十になるんだよ、それでもまだ忘れないんだから」
照れるように笑ったアレックスは、これまでにない一番素敵な顔だ、とアキは思った。ずっとそういう顔でいれば可愛いのにと、思ったが口には出さない。間違いなく怒ることは考えなくても分かる。
優しい笑顔で笑ったのも束の間、アレックスはひとつため息をつき、視線を窓の外、瞬く星空へと投げた。
「……ボクは大丈夫。妹が覚えていてくれるから。でもハヤトは恐れてる。自分が、いつか、消えてしまうんじゃないか……って」
正天使になれば、生きている人間が覚えているかに関わらず、ある程度の時間は自我が保たれる。隼人はそれを狙っている。
アレックスの話から、アキにも隼人の考えが読み取れた。それに気づいた瞬間、パジャマの裾を握り締め、アキは思わず叫んだ。
「それはつまり、誰からも忘れられてしまうって隼人が思ってるってこと? そんなこと、ありえないのに……他の誰が忘れても、私が覚えてるのに!」
生きているひとに忘れられたときに隼人の意識が消えるなら、私が絶対にそれを阻止するのに。頼まれたって、忘れたりしないのに。
……忘れたり、できないのに。
―ねぇ、隼人。どうしてそんな風に思うの……?
アキはパジャマの襟元をぎゅっと掴んで床にうずくまった。何故隼人がそんな悲しいことを考えるのか、理解できずに苦しかった。自分を頼ってもらえないことも、その意思も選択も、何もかもが苦しくて悲しかった。胸にあいた黒い穴が、また傷口をあけたようにぎゅうぎゅう締め付けてくる。痛くて、苦しい。
アレックスの緑の瞳が、静かにアキを見つめた。
「キミがこの先、誰か別のヒトをスキになっても、同じコトが言える?」
静かに響いたその言葉に、アキは目を大きく見開いたまま、アレックスを見た。
半透明の彼の体のその先に透ける、窓の向こうの漆黒の夜空と細かい星の光。……未知の、世界。死後の世界。
死んだ後、もう一度『死』が訪れて、それが生きている人間の想いにかかってるなんて。
……なんて、怖いの。
「……忘れたり、しない。何があっても、絶対に」
目を見開いたまま、強い気持ちで、アキはその言葉を口にした。泣きそうなほど胸は苦しかったが、不思議と涙は落ちてこなかった。
そんなアキを静かにじっと見つめていたアレックスだったが、ふいに立ち上がって背伸びをした。
「ま、ボクからひとつ忠告させてもらうとね。血の繋がりは強いってことかな」
「え……?」
瞬きをして見つめるも、アレックスはそれ以上を言おうとはしなかった。
「じゃあボクもそろそろ天界へ戻ろっかな」
長話に疲れたといわんばかりに首をぐるりと回し、いつの間にかしまわれていた翼を現したアレックスに、アキは思わず立ち上がって引きとめようとした。まだ、聞きたいことがあるのに。
そのとき、開け放したドアの向こうから、ナツの声がした。
「アキ? 何かあったか?」
先ほど大声を出したのを聞きつけて来たらしい。隼人と話しているんだろうと思い込んで一歩部屋に踏み込んだナツは、そこにいた見知らぬ人物に警戒心をあらわにした。
「誰だ? お前」
ナツの切れ長の目に睨みつけられたアレックスは、ばさりと翼を震わせて、にやっと笑った。それはそれは感心するほど不敵な笑みで、ナツはすぐにその少年を敵と認定した。
「あー、キミが『ナツ』、だね」
言い当てられた名前に驚くも、その半透明に透けた姿と背中の双翼に、ナツは冷静に隼人繋がりだと判断する。
笑みを形作ったままで、ゆっくりと歩み寄ってくるアレックスを睨む一方、ナツはアキの様子を確認し、別段変わったことはないようだと少し安心する。
「ハヤトのシンユウの、ね。ふふ。シンユウ同士、仲良くしようよ、ナツ」
明らかに仲良くしようとは思っていないアレックスの態度に、ナツは警戒を強めた。
「……何考えてる?」
目の前までやってきた金髪の天使は自分より背が低かったため、ナツは見下ろす形になった。緊張感を保ったまま尋ねると、アレックスはふわりと笑った。
まるでイタリアの絵画の中に描かれた天使がそこに現れたかのように美しく微笑むアレックスに、一瞬瞬きをした、その瞬間だった。
ナツはパジャマの襟元をつかまれ、意外なほど大きな力でアレックスに引き寄せられた。
「っ……! アレックス!」
暴力を振るわれるのではないかと、アキは思わず叫び、目を瞑った。
だがその一瞬後、アレックスの暢気な声が響いた。
「さーてと、帰ろ帰ろ」
何事もなかったかのように窓辺へすたすたと歩いていくアレックスを、アキは呆然と見ていた。ナツはといえば、同じように呆気にとられた顔をして、瞬きを繰り返していた。何もなかったみたい、と安堵したアキに、アレックスは現れたときと同様、唐突に最後のメッセージを残した。
「ハヤトは明後日の朝戻るよ。でもその日の昼には天界へ帰る。それが本当に最後だ。いい? ちゃんとジュンビしといてよね」
「え? ア、アレックスっ!」
アレックスはにっと不敵な笑みを残し、ばさりと羽を広げたと思ったら、次の瞬間、空気に溶けるようにして消えてしまった。
「……行っちゃった……」
ぽつりと呟いたアキのもとへ、ドア先にいたナツが近寄った。
「アキ、大丈夫か? あいつ、結局誰なんだ?」
ナツの質問はもっともだった。だがアキにはナツの疑問に答えられる余裕はなかった。
アレックスがいなくなったことで、先ほどの衝撃が時間差でアキの胸に押し寄せた。
隼人
アレックスの言葉を反芻する。
……明後日の朝。それが本当の最後だ、と。