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 ナツとハルが、栄と隼人のやりとりを廊下の影から立ち聞きしている頃。

 

 風呂はカラスの行水派のアキは、濡れた髪を拭きながら自室に戻っていた。アキも年頃の女の子なので、風呂上りの肌の手入れは欠かさない。実のところ、ここ一ヶ月はそれどころじゃなくほったらかしにしていたが、やはり隼人が戻ってからは気になるらしい。ドレッサーの前に陣取り、入念に化粧水をつけ、鏡の中の自分を覗いた。

 自分でも呆れるくらいに一気に元気になって、とアキは思う。本当に現金な性格だ。痩せた頬も身体も、そう簡単には戻らないけど、顔色は大分良くなった。泣くことも無くなったから、目の下の赤みも取れてきた。


「……あと、三日……」


 鏡を前に、頬を両手で挟んだまま、アキは呟いた。


 隼人の言った一週間という期限まで、残された時間はあと三日。三日、その時間を考えると心が壊れそうになるほど痛む。隼人が、また、いなくなる。鏡の中の険しい顔をした自分にはっと気が付いて、アキは瞳を閉じた。

 けれども隼人はこうも言った。……私が望むなら、そばにいると。可能なのだろうか、そんなことが。

 隼人は死んでしまったと、分かっているはずなのに期待してしまう。隼人が天使として戻ってきた事実、神様の存在、今。死んだ人が天使になってこの世に留まり続けるなんて、聞いたこともないけれど、もしかして、もしかするのか。



「ふーん、アンタがアキ?」


 不意に背後から掛けられた声に、アキはぎょっとして振り向いた。ベランダに続く窓からの侵入者。けれども悲鳴を上げる前に、その背中にふわりと揺れる羽を見て、アキは声を出すのを躊躇った。


 金色の髪に鮮やかな緑の目をしたその人は、見るからに日本人とは違う欧米人系の顔立ちである。身長はあまり高くなく、少年といった感じだ。隼人が着ているのと同じノースリーブの青い服を纏い、手に一輪の向日葵を持っている。ただなぜか彼の眉は顰められ、イライラのオーラが全身から発せられていた。


「ちゃんと“道”があるから迷わないって言われてたけど、まぁこんな結界張ってたら迷いようがないよね。“道しるべ”も持ってるし」


 金髪の少年はその手の中の向日葵をくるくると回しながら、きょろきょろと物珍しそうに部屋の中を見渡した。ぶつぶつ呟いているのは独り言のようだが、アキの耳にも届いた。

 だがそのときアキは絶対的におかしなことに気がついた。羽を背負ったままの少年の姿の背後がぼんやりと透けて見えるのだ。よく見れば手に持った向日葵さえも透けている。色は付いているのだが、何しろ背景が透けて見えるのだから、まるで幽霊を見ているような気分になる。


「あのう……」


 アキは警戒しつつも半透明の彼に声を掛けた。しかし少年はあえて無視するかのように独り言を続けた。


「大体ハヤトの大馬鹿は何してるんだ? <器>に定着しちゃったらどうなるかってアイツも分かってるだろうに」


 ぶつぶつ言いながらもどんどん部屋の中に入ってくる。足音はしない。アキはわけの分からなさに混乱し、椅子の上で固まっていたが、その言葉に思わず聞き返した。


「え、どうなるの?」


 すると少年はいきなりアキの方に向き、くっつくくらいにぎりぎりまで顔を寄せてきた。


「アンタのせいだよ、アンタの! ハヤトが正天使になっちゃったらぜーんぶアンタのせい!」


 驚いて身を引いたアキの鼻先を刺す勢いで指摘してきた少年の表情は怒りと焦りのそれだ。アキがわけの分からなさに目をぱちくりさせて絶句していると、今度は一転、呆れた表情でため息をついた。


「……ったく、何も知らないんだね。ハヤトらしいといえばそうだけど、止めないとあのオバサンに怒られるの、ボクなんだよね!」


 じとっと見つめられる視線に居心地悪くたじろぐも、アキは懸命に質問した。


「あの……すみません、全く分からないので説明していただけませんか……? あなたが誰なのか、とかも……」


「ボク? ……ちぇ、ハヤトのやつ、このボクというシンユウのことも話してないワケ? ……まぁいいか、ボクは」


「アレックス?」


 開け放したままのドアの向こうに、隼人が驚いた表情を浮かべて立っていた。いま正に名乗ろうとしていた少年、アレックスはすぐに喜びの表情を浮かべて隼人に駆け寄った。


「わぉ、ハヤト! 元気そうだね! ってゆーかボクのこと話してないってヒドクない? ボクたちってシンユウかと思ってたんだけど!」


「ちょ、ちょっと、アレックス! え? 何でここに?」


 飛びついてきたアレックスを驚きながらも慣れたように抱きとめた隼人は、疑問を口にした。その隼人の質問に答えないまま、アレックスは隼人にがっしりしがみつき、次の瞬間がばりと顔を上げて言った。


「ハヤト! キミ、もしかして汗かいたりした?」


 そしてくんくんと鼻を動かしだしたアレックスを訝しげに見遣って、隼人は先ほど少し汗をかいた額を撫でた。


「は? ……いや、そういえばさっきちょっと……。におう?」


「におうとかそういう問題じゃなくて! その身体で汗かくなんてありえないデショ? ねぇ、今の状況、ちゃんと分かってる?」


 慌てた様子のアレックスに対し、隼人は冷静だった。


「……大丈夫、分かってるよ」


 余裕を持って呟かれた言葉に、アレックスは不満げに口を尖らせた。


「絶対分かってない! それ以上融合が進んだら、<器>から離れられなくなる! そうしたらどうなるかってちゃんと説明聞いてたよね? ボクは」


「アレックス」


 隼人の真剣な色を湛えた瞳に見つめられ、アレックスは頬を膨らませて黙った。隼人はくるりと身体の向きを変え、未だ状況を把握できずにただ二人の成り行きを見守っていたアキに向き直った。


「……アキ」


「は、はいっ」


 名前を呼ばれたアキは、目を瞬かせて背筋を伸ばし、隼人と、その後ろに立つ不機嫌そうな顔をしたアレックスをきょろきょろと見比べる。アキの不安そうな表情に気づいた隼人は、アキに歩み寄り膝を付いて、その手を握った。


「アキ、ごめんね。びっくりしたでしょ?」


 少し悲しそうな表情で見上げてくる隼人に、アキは首を振って否定するほかない。


「彼は、アレックス。天界で知り合った友達なんだ。準天使としては先輩でね。彼は雨じいのところで働いてるんだけど、いろいろ……」


「……ハヤト。話すべきはそんなコトじゃないだろう?」


 にこやかに話し出した隼人の後ろから、腕組みをしてしかめっ面のアレックスがイライラと口を挟んだ。


「アレックスはちょっと黙ってて」


「…………」


 注意されたアレックスは、その本来なら優美に整った顔を存分に歪ませ、苛立ちを隠さずにその場に勢いよく座り込んだ。つーんとした態度は、「もう話さないぞ」といった様子だ。

 アキはそんなアレックスをハラハラしてみていたが、隼人の目が「気にするな」と言っていたので、話に集中することにした。

 ふう、とひとつ息を吐いた隼人は、アキをまっすぐに見据え、本題を話し出した。


「アレックスが言いたいのはね。つまり、この僕の身体のことなんだ」


「……<天使の器>……?」


「そう。よく覚えてたね」


 不安を隠せない瞳でアキは記憶を掘り起こし、隼人は苦笑いした。その笑顔は切ないような、誇らしいような、いろいろな感情をない交ぜにしたような、複雑な笑顔だった。

 そうして、隼人はゆっくりと語りだした。自らの今の身体に秘められた秘密……<天使の器>の真の用途についてを。










「はぁ? 地上へ行く?」


 葵は思わず素っ頓狂な声を出し、目の前で澄ました顔をしている隼人を見つめた。


 準天使となり、天界で過ごすようになった彼が、天国の葵の家にやってくることは稀だ。ひさしぶりに訪ねてきた隼人が全くとんでもないことを言い出したので、考えを整理するためゆっくりと紅茶を飲み、何度か目を瞬かせ、ようやく口を開いた。


「雲じいがぎっくり腰になったって言う噂は聞いたけど、それと関係ありそうね。まさか代わりに仕事をするとか……?」


「そのまさかです」


 にっこりと、いっそ清清しく言い切られた言葉に、葵は納得しそうになったが、いやいや、と首を振った。


「ちゃんと理解して言っているの? たとえ雲じいが許可して、|神議〈しんぎ〉にも通ったのだとしても、準天使が地上へ降りるなんてありえないわ。負担が大きすぎる。ましてあなたは日も浅いし力だってそんなにないって言うのに」


 非難がましい葵の言葉をさらりと流すように、隼人は目の前に出された紅茶を飲み、視線を窓から庭へやった。


 葵の家の庭には、一面の向日葵が広がっていた。四季も時間の流れも実質存在しない天国では、全てが住人の思い通りとなって実現する。葵の小さな家の周りには、いつでも大輪の向日葵が揺れている。目に痛いほどの黄色と緑のコントラストに少し目を細め、隼人は葵に視線を戻した。

 暖かい光が差し込む室内は、葵の苛立ちで温度を少し下げたようだ。冷ややかな葵の視線を感じながら、隼人はタイミングを見計らって口を開いた。


「はい、まぁそうですよね。葵さんの言う通りです。……それで、<天使の器>を借りることになりました」


 軽い調子で言われたその言葉に、先ほどまで興奮気味で赤かった葵の顔から血の気が引き、一瞬で青白くなってしまった。ぎぎぎという音がしそうなほど、不自然にゆっくりと向けられた顔には、驚愕が貼り付いていた。


「ちょっ、<天使の器>って言ったの?」


 振り絞るように出された小さな問いに、隼人は躊躇なく答えた。


「そうですよ、<天使の器>です。アレ使わないと、地上で<絵の具>使えないじゃないですか。あの絵の具、ホント不思議ですよね、天界では実体ないのに地上へ持っていくと実体化するなんて。神様はそんなこと気にしないかもしれないけど、僕ら準天使は……」


「アレを使ったらどうなるか分かって言ってるの?」


 怒気を孕んだ言葉に、隼人はこっそり苦笑した。下を向いたままの葵の表情は、きっとものすごく怒っているときの憤怒の表情だろう。反対されることなど最初から分かっていた。


「……そうですね、わかってます」


「わかってるなら、簡単に使うなんていえないはずよ! あなた二度と転生できなくてもいいわけ?」


 興奮して叫ぶ葵は、涙目になっている。抑えきれない感情が爆発するのを何とか抑えるように、両手をしっかり握り締め、隼人の目をまっすぐ見つめた。


「あれはただの肉体を貸してくれる人形じゃない! <正天使>になるための<器>なのよ! そして<正天使>になれば、再び転生することもなく、永遠に天使として天界に留まるの! あなたそれをちゃんと分かってて……!」


「わかってます」


 葵の勢いを遮るように、隼人は静かに、しかしはっきりと声に出した。葵に向けられたその瞳には、凄烈な程の決意がみなぎっていた。


「僕は、再び生まれ変わることが出来なくても、その代わりに正天使としてアキを見守り続けることが出来るならそれでいいんです。この先アキが危ない目に遭ったとしても、正天使なら助けられる力がある。……アキは僕が守ります。たとえアキが僕を忘れてしまっても、他の誰かを好きになっても」


 少しの躊躇も揺らぎもなく、まっすぐに言い放たれた決意に、葵は大きくため息をつき、「あなたちっともわかってないわ」と、ぽつりとこぼした。

 そうして頭痛を堪えるかのように額に手を遣り、しばらく考え込んでいたが、静かに目線を上げ、何も言わず葵の返答を待っている隼人を見つめた。


「正天使は、あなたが考えるほど自由な存在じゃない。長い長い年月を経て、自我をなくし、ただ神の命に従って動く人形になる。自らが存在する意味も、希望も何もかもを失って、疑問を抱くことも忘れて、そして消えることすら許されない。永遠に存在し続けるのよ? あなたもそうなりたいと?」


 可愛らしい内装の部屋の真ん中に置かれた、暖かい温もりを持った木のテーブル。それを挟んだ二人の間には、空間に全くそぐわない、重苦しく痛いほどの空気が立ち込めていた。恐ろしい響きを持って告げられた真実にも、隼人は動じなかった。


「そのことは、聞きました。でも僕が完全に僕でなくなるまでに、アキが一生を全うするよりも長い時間がかかるとも言われました。……僕の望みはひとつです。アキを見守ること。僕が、消えてしまう前に」


「消えないわよ、そう簡単に! そのままの状態だってアキのことを見守ることは出来るでしょう? 私を見なさいよ、死んで何年経つと思う?」


「僕と葵さんでは違うんですよ! 僕はあとどれくらい僕でいられるのか自信がない!」


 言い争いの状態になって、始めて隼人が声を荒げた。がっしりとした木のテーブルは、隼人に叩かれて少し揺れ、紅茶のカップがカチャリと音を立てた。今までの冷静さを欠いた隼人に、葵は感じた違和感と疑問を口にした。


「……あなた、まさか……」


「とにかく僕は<天使の器>を使って地上へ行きます。もう決めたんです」


 葵の言葉を遮って、隼人は口論を無理やり終わらせた。ぷいっと逸らした横顔には、最初の冷静さも余裕もなく、若い青年の焦りと不安が滲み出ていた。

 葵はそんな隼人を見て、再びため息をついた。少し零れた紅茶を見つめ、内心の苦々しさを抑える。


「そこまで言うのなら、じゃあこうしましょう」


 渋い顔をして切り出した葵に、隼人はぱっと顔を向けた。


「あなたは<天使の器>を使って地上へ行く。地上の時間と天界での時間は流れ方が違うわ。<器>が魂と融合してしまうのに天界の時間で約一ヶ月かかる。地上の時間でのおおよそ一週間と少し。保険をかけて一週間よ、あなたが地上に居られるのは。一週間以内に、確実に天界に戻り、そして器との融合を解くの。……これが約束できないなら、私はどんな手を使ってでもあなたを地上へは行かせない」


 有無を言わさない圧力を持った葵の言葉に、それでも隼人は反論した。


「でも、それじゃあ正天使には……」


「言ったはずよ、約束できないなら行かせないって」


 隼人の反論もなんのその、ぴしゃりと撥ね付けるように葵は冷たい視線を投げて寄越した。


「あなたが地上へ行きたいと思った最初の目的は何? アキに逢うためじゃないの? 正天使になりたいなんて希望は、後から付いてきたものじゃない? ダメよ、惑わされては。最初の目的を思い出すの」


 ぐうの音も出ない隼人は、唇をかみ締め苦い顔をしながらも、葵の言うことを聞くことにした。どちらにせよこのままでは葵は自分が地上へ行くのを、それこそあの手この手で邪魔するだろう。それなら条件付でも行くことを選ぶ。決意を固めた隼人は、キッと顔を上げて、目の前で澄ました様子で茶を飲み始めた葵を見た。


「わかりました、葵さん。その条件、飲みます」


 もうすっかり冷めてしまった紅茶はおいしくも何ともない。形だけでも格好が決まるようにとぐいっと一息に飲み干すと、葵は隼人の目を見つめた。


 何の因果か、お互い死んでから初対面を果たすことになった、いつかは義理の息子になっただろう青年。一度天国に来た人間は、どんなに望もうともそのままの姿で生き返ることがないように、愛しい人に会えるようなチャンスも用意されてはいない。どんな形であれ、再び恋人に再会する機会など、誰にでも与えられる幸運ではないし、今回の一件はほとんど奇跡に類する事件だ。


「……いい? 一週間よ。守れなかったら引きずってでも連れ戻すから」


 だがしかし、あくまで正天使になってしまう危険からは遠のけたい事情が、葵にはあった。葵の固執する態度に、疑問を抱きながらも、隼人はそれを尋ねなかった。そうしてそのまま「行くまでにもう少し時間かかるんで、また来ます」と言い残し、陽だまりの中に浮かぶ小さな家を後にした。




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