10
隼人が日向家に現れて四日。それまでの静けさが嘘のように、日向家は活気付いた。それはやはり、一家のムードメーカーであるアキが元気になったことが一番の原因だろう。
本来アキが多く請け負っていた料理を再開し、家族は久しぶりのアキの味に舌鼓を打った。アキはあまり几帳面ではないが、アキが一番母親から料理を教わっていて、いわばおふくろの味の継承者であり、意外にも料理は上手い。ナツが料理上手なのは単に器用だからで、アキが料理をしないときはナツが適当に作るのだ。
隼人は食べられないながらも、楽しそうに料理を作るアキの姿をにこにこして眺め、みんなが食卓を囲むのを微笑ましく見守っていた。
その日の夕食が終わって、それぞれが自由な時間を過ごしている頃。隼人は何気なく縁側に座って、外を眺めていた。サワサワと風に揺れる向日葵。薄暗闇の中に浮かび上がる大輪の花をぼんやり見つめていると、ふいに後ろから声を掛けられた。
「アキは、どうした?」
一番風呂を浴びて、すっかりくつろいだ雰囲気の栄であった。浴衣を着流し、飄々とした様子である。
「お風呂に入ってますよ」
にこっと笑って隼人は答えた。ほぼ一日中べったりしているが、さすがに風呂まで一緒に入っては、アキ馬鹿たちになんと罵られるか。確実に無言の圧力を掛けてくるであろう、アキ馬鹿その一である父親の栄を前に、隼人は思考を笑顔に隠した。
しかし不意に真剣な表情になって、囁くように言った。
「……そろそろ、来る頃かなぁって、思ってましたよ」
栄はその滅多に感情を表さない顔を翳らせて、遠くを見つめた。視線の先には、庭の向日葵。
「……ああ」
そうして隼人の隣に腰掛け、男ふたりは一旦沈黙した。月明かりの下、ただ黙って庭を見つめる栄は思いつめたような表情で、しかし隼人は逆に口元に笑みを浮かべた、穏やかな顔をしていた。何をするでもなく、言うでもないふたりの間には、それでも優しげな空気が流れていた。まるで、そのときを静かに待っているかのように。
「……アレは、元気だって言うが、その……」
口を開いた栄が、再び口を閉ざしてしまう。その姿に苦笑して、隼人は栄が聞きたかったことを汲み取って答えた。
「はい、元気にしてますよ、葵さん。……おばさんって呼ぶと怒るんですよね」
思い出したように苦々しく笑いながら、隼人は一瞬途切らせた言葉を、静かに続けた。ずっと話したかった言葉を、栄に伝える為に。
「……天国に着いた時、祖父母と一緒に僕を迎えてくれたんです。『来るのが早すぎよ』って怒られました」
気がついたとき、隼人は真っ白な門の前に立っていた。
門、といっても扉はなく、ちょうど神社の鳥居のように、くぐる穴が開いているだけのものだ。しかし上は見上げるのに首が痛くなるほど高く、それを支える左右の柱は四角く、柱というよりは建物のようにそこに建っていた。石造りの重厚なその門は、表面を繊細でかつ大胆な彫刻に覆われ、そのデザインは歴史の教科書にあった昔のヨーロッパの彫刻を思い起こさせた。
こんな大きな門、造るのにすっごく時間がかかるだろうなあ、などとつい暢気なことを考えてしまったのだが、ふと前をみると、門の向こう側に子供の頃に亡くなった祖父母の姿が見えた。泣きながら手を振る、懐かしい姿に、あぁ、もしかしてとその答えが頭をよぎる。
ほとんど無意識のうちに、一歩、二歩と踏み出して、その門をくぐり終えたとき、とても大きな力で締め付けられるような気配とともに、隼人は自分の死を知った。
思わず立ち止まって門を振り返る。が、そこに今さっきくぐってきたはずの重厚な門は影も形もなくなっていて、真っ白な空間が広がっているだけだった。
ああ、もう戻ることはできないんだな、と頭で理解する。
行く場所も分からず、とにかく前へ進む。祖父母が必死に呼んでいたから。だんだん近づいていく祖父母の姿は、幼い頃見送った姿よりも幾分若い気がした。けれどもやっぱり皺くちゃな顔にもっと皺を寄せてふたりは泣いていた。
「隼人……」
名前を呼ばれ、抱き寄せられ、隼人はぼんやりと考える。
ああ、僕はやっぱり、死んじゃったんだな
「何でこんな早く」と、手を握り締めながら泣く祖母と、もみくちゃに抱きしめてくる祖父。
頭では理解していても心が追いついていない。わんわん泣く祖父母を逆に慰めるように、隼人はその曲がった背中を撫でる。
ふと、前を見ると、その場にもう一人の人物がいた。おかしいな、父方の祖父母はまだ健在だったはずだし……と隼人は思い、顔を上げてよく見てみる。
今にも泣きそうな顔で立つ若い女性。どこかで見たことがある、と隼人は思った。
「あ……えっと、おばさん……?」
記憶を探ると、その答えはすぐに出た。毎日のように出入りしていた日向家。その仏壇に飾られた写真の中に、このひとは笑っていた。
日向家の四兄妹の母。栄の妻。日向葵。
隼人が呟くと、そのひとはその写真と同じ笑顔でにっこりと笑った。そしてその笑顔を顔に貼りつけたまま、無言で拳骨を飛ばしてきた。祖父母を抱えて辛うじてよけた隼人は、突然の展開に目を白黒させる。
葵はちょっと残念そうに、当たらなかった拳をぶらぶらさせて言った。
「今度おばさんって言ったら、本気でぶっ飛ばすわよー! 葵さんって呼べって言ったじゃない!」
プンスカ、という形容がぴったりくるほど、子供っぽくむくれる姿は、とても四十近くで亡くなった人とは思えない。歳はどうにせよ、隼人にとっては恋人のお母さんなのであるから、初対面ではおばさんと呼ぶしかなかったのだが。
おっかなびっくりしながらも、隼人は口を開いた。
「い、いや、僕、おば……葵さんとは初めてお会いするんですが……写真でしか」
「あら、そう言われてみればそうかも。ふふ。わたしったら勘違い! じゃあ改めましてよろしく。アキたちの母です」
コロコロと表情を変え、今度は満面の笑みで手を差し出した葵に、隼人は少し警戒しながらその手を握り返した。
「初めまして、吉川隼人です。アキさん……いや、日向家の皆さんにはお世話になって……」
社交辞令のようだったが、初めて会う彼女の母親に、隼人は緊張し何を言ったらいいか分からなかった。
「うん、こちらこそ! でももう死んじゃったからお世話できないわね!」
あっけらかんと言い放った葵に、隼人はもちろん、はらはらと成り行きを見守っていた祖父母も沈黙した。祖父母ももちろん初対面であったし、葵が誰なのかすらいまひとつわかっていない。だがもう少し言い方があるだろうと、三人でじとりとした視線を向けてみるものの、自由な雰囲気のそのひとは、そちらを気にすることも見ることもなく、口元だけは笑みの形を保ったまま目を閉じた。
「来るのが早すぎよ、もう」
瞬間、零れ落ちた涙が、本当の葵の人となりを物語っていた。
ああ、アキはこの人の不器用なところに似たんだろう
隼人はそう思った。よく見てみれば、本当に似ている。アキの目は、お母さんの目だ。くるっとした髪の毛のくせも。
「僕も、そう思います」
目の前で涙を流すそのひとには、残してきてしまった恋人の面影が確かにあった。
子供の恋、だったのかもしれないけど、本当に大切に、大切にしてきた、最愛の人を。
……残してきて、しまったんだ。
自分の死を理解しながらも泣く暇もなかった隼人の目から、ようやく一粒の涙が落ちた。
「ちょっと、あっけなさ過ぎますよね、こんな終わり方。……さよならもできなかった」
それでも静かに、冷静にしか涙を流せない隼人を、葵は抱きしめた。
「……本当にもう、何してるのよぅ。ほんとにっ……」
そして声を上げて泣き出す葵に、隼人はどこか気持ちが落ち着くような思いがした。
葵の声がアキの声と似ていたせいもあったろう。何の遠慮も配慮もなく、ただ感情のままに泣く葵につられるように、とうとう隼人も声を上げて泣き出した。それを見て、それまで葵に対し微妙なわだかまりを抱えていた祖父母でさえも泣き出し、ひとしきり四人でわんわん泣いた。
ただ真っ白な空間に、泣く人の声だけが響き、どこかへ吸収されるように消えていく。
自分がこれからどうなるのか、どこへ行くのか、まったく未知なる不安の中、隼人は温かさに包まれて泣き続けた。
ぼんやりとしている間に場所が移動し、はっきりと目を覚ましたときにはベッドの中だった。
部屋に見覚えはなかったが、温かい空気に包まれた空間に、隼人は思考を巡らす。
僕は、死んだんじゃなかったっけ?
そう思いつつも、身を起こすとそれは見慣れた自分の身体、手に触れるのは布団の感触。存在している、僕。
何もかもが夢だったのか、と飛び起きて、部屋を後にする。いきなり飛び出してきた隼人に驚く祖父母の姿も目に入らず、外へ飛び出した。
まぶしい光に目を顰め、慣れた頃にあたりを見渡すと、そこは期待したとおりの住み慣れた住宅街でもなんでもない、ただ果てなく広がる平原だった。
「あれ、引っ越したっけ?」
ぽつりと零れた言葉は、自分でも間抜けだと思った。
力を失くしてその場にへたり込み、どこまでも続く野原を見つめた。
花のにおいが漂う明るい場所。地平線の先には青い空。何も変わらない、生きていたときに見ていたのと同じ空なのに。
ふっ、と顔に影ができた。目だけ動かして確認すると、そこには葵が立っていた。
陰になっているのに、その黒い瞳は自ら光を放つかのように、煌めいて見えた。
「あなたは、死んだのよ」
厳かに響くその声が、ふわりと吹いてきた風に乗って流れていく。
殴られるよりも、大声を出されるよりも、心にずっしりと響いた。
「……はい」
隼人は理解していたはずの死を、ようやく受け入れた。
その後葵は、祖父母と暮らす隼人のところへしょっちゅう遊びに来ては、お茶を飲んだりおしゃべりをしたりするようになった。不安定だった隼人を心配したのか、それとも単に暇だったのか。真意は分からなかったが、いつも明るく元気な葵の姿が、隼人の心をゆっくりと上向きにしていった。
「……時々、思い出したように僕に聞くんです。フユは大きくなった? とか、ハルは相変わらずにょきにょき育ってるのかしら? とか」
隼人は苦笑して言うのに、栄は無表情を貫き黙っている。いつの間にか持ち出してきた酒をちびちびと舐めながら、ただ黙っているのみだ。隼人のために用意してくれたお猪口には酒が注がれてはいるが、やはり飲むことはできない。なんだか仏壇に供えられた形だけの酒みたいだなぁと思いながら、隼人は慣れない匂いだけで酔った気分になる。
「……天国には“窓”って呼ばれる場所があって、そこから生きてる人の世界を見ることができるんですよ。そのひとが見たい人の姿を映してくれるんです。僕もよく“窓”へ見に行きました。アキのこと」
隼人は飲めない酒を手に取り、手の中で転がすように揺する。その小さな水面には、白い月の光が、おぼろげに反射して揺らいだ。
「葵さんも自分で見に行って知っていたのかもしれません。でも、葵さんは僕に聞くんです。知ってることを、わざわざ確認したいみたいに。話してあげると葵さんは、いつもすごく優しい顔でありがとうって言うんです。……本当に、喜ぶんですよ」
とぽとぽと酒を注ぐ音だけが響いて、栄はやはり何も言わない。元来無口な性格ではあるが、こうも話さない栄を見るのは、隼人も初めてであった。隼人は仕方なく目の前の向日葵に目を遣って話し続ける。
「不思議な人ですよね。葵さん。僕がこうしてここに来ることも、葵さんには反対されたんですよ。結局行くと決まった後も、『何か伝言はありますか?』って聞いても、『ないわ』って怒るんです」
隼人はその時のことを思い出すように笑った。
「……でも、葵さん、僕がここへ来る直前に、わざわざ僕のところに来て言ったんです。『しょうがない人ね』って、おじさんに伝えてくれ、って」
不貞腐れたような照れたような表情でそうひと言口にした葵を思い出し、できるだけ真摯な思いでその言葉が伝わるようにと、隼人は静かに言った。そしてくるりと首を回して栄を見るも、栄は変わらず下を向いたまま、目線は地面に固定されている。
隼人はしばらくの間黙っていたが、沈黙の重さに堪り兼ねて小さく訊ねた。
「……おじさん何かしたんですか?」
素敵な夫婦であり家族であることは隼人には分かっているし、別に夫婦の間の詳しいことが知りたいわけではない。『しょうがない人』という短いメッセージの意味を自分が知る必要なんてない。伝えることが隼人に託された仕事だ。ただ何故栄が何もいわないのかが気になった。
普段から無口な人ではあるが、もしかしたら、亡くなった奥さんが天国で元気にしてるだなんて話、無神経だっただろうかと隼人がおろおろしだした頃。
「……それだけ、か?」
ようやく重い口を開いた栄は、低く呟いた。小さすぎる低音を、隼人は聞き逃した。
「え? 何ですか?」
目をぱちくりさせて聞き返す隼人に、栄は渋い顔をしてもう一度言った。
「葵は、それだけしか言わなかったのか、と聞いたんだ」
ぷいっと顔を背けて言ったその栄の様子は、誰がどうみても照れ隠しそのものだった。自分の話が栄を嫌な気分にさせたわけではないと分かった隼人は、赤くなった耳を微笑ましいと思いつつ、申し訳なさそうに笑った。
「すみません、これだけ、です」
それを聞くと、栄はお猪口に残った酒をくいっと飲み干し、立ち上がった。
「……そうか」
そのまますたすたと歩き出してしまった栄の背中に、隼人は慌てて声を掛けた。
「あ、あのっ……! そのときの葵さんっ!」
廊下の途中で歩みを止めた栄は、背中を向けたままで隼人の言葉を待っているようだった。隼人は慌てて立ち上がって、その浴衣の似合う広い背中に告げた。
「……すごく照れてました。はにかんでたって言うか……。僕は葵さんが生きていた頃のことは知りません。それでもこの家で、葵さんがどれだけ大切にされているかは知っています。家に最初に来たとき、写真に挨拶しろって四人みんなに言われたんですから!」
勢い込んで大声を出したため、息が切れて、隼人は急いで深呼吸をした。
「僕は知ってます。おじさんがずっと葵さんのことを想っていることも、葵さんがずっと、ずーっとおじさんのことを想っていることも」
ぴくりと、栄の肩が動き、栄は半身をこちらに向け、何か言いたそうに口を開いた。だが隼人はそのまま言葉を続けた。
「だって葵さん、僕に一度も聞かなかったんです、おじさんのことは。ハルさんやナツ、アキ、フユ君のことは何度も何度も聞くのに、おじさんのことは一度も話題に出さなかった。しかも僕からおじさんのことを話すと、葵さん逃げるんです」
栄の瞳が訝しげに顰められた。妻は自分が好きだという内容の話ではなかったか、とその瞳は言っている。職人の持つ独特の鋭い眼光に捉えられた隼人は、少し怯みながらも、拳を握って気持ちを奮い立たせた。……葵に頼まれたわけじゃない。だけど、伝えなくては。そう、思って。
「僕も最初は疑問でした。だけど気づいたんです。葵さんは、本当はおじさんの話を一番聞きたかった。何より気になってた。聞いても聞いても足りないくらい。でも聞いてしまったら際限がなくなるから、もう二度と会えないのに、会いたくなるから……。大好きな気持ちばかりが大きくなってしまうから……。だから聞きたくても聞けなかったんです」
栄はあまり大きくない瞳を精一杯見開いて、隼人の必死な顔を凝視していた。それに気づかないまま、隼人の勢いは止まらない。
「きっと、“窓”にも近づかなかったんだと思います。だって“窓”からは見えてしまうから、おじさんの姿。……でも、みんなに会える僕が頼まれた伝言は、ひとつだけです! おじさんへの伝言だけだったんですよ! それって……、葵さんの気持ちそのものだと思いませんか!」
最後にはぜーはーと肩で息をしながら言い切った隼人は、額にうっすら汗さえ滲ませていた。その様子に栄は、ふっと息を吐き、首を振りながら隼人に近づいた。わずかに見える口元は、笑いの形に歪められていた。
隼人の目の前までやってくると、栄はおもむろに隼人の肩に手を置き、その目を見つめた。
「ありがとう、な」
まさにはにかみの表情で告げられた短い一言に、隼人は一瞬息を止めた。頬を薄っすら赤く染め、口元の笑いを必死にこらえるように息を詰め、それでもその瞳が幸せそうな光を宿していることは隠し切れない。
普段無表情の人の、滅多に見れない表情には、なんという威力があるのだろうと、隼人は目を見開いて立ち尽くした。そして隼人が呆然としているうちに、栄は今度は本当に立ち去ってしまった。
置いてきぼりにされた隼人は、気まずげに頭を掻き、その後視線を下に移して同じく置いていかれた隼人の分のお猪口を見つけた。とりあえず片付けないと、と手を伸ばしたとき、自分より少し大きな手が、横からお猪口をさらっていった。
「……父さん、とっときの日本酒開けたのか」
減ることもなくお猪口に残ったままの酒を、一息に飲み干したハルが、楽しそうに笑った。
「ふふ、それだけ気になってたんでしょ、母さんの話」
栄が去っていったのと反対側の、西に続く廊下の影から、ナツも姿を現した。隼人は目をぱちぱちさせながら、のっそり現れたふたりに尋ねた。
「ふたりとも、聞いてたんだ……?」
ぽかんとした表情の隼人に、ナツが苦笑して答えた。
「そりゃあれだけ大きな声じゃさ。そこまで大きくないもん、この家。防音設備なんてないし。丸聞こえだよ」
「それにしても母さんも本当に天国にいるんだな。しかもかなり元気そうだ」
ハルは安心したように笑った。ナツもつられる様にしてくすくす笑い出した。隼人は栄とふたりきりで話していたつもりだったが、予想外にギャラリーが居たことに、複雑な心境だった。そんな隼人の顔を見て、ハルは隼人の髪をぐしゃぐしゃと撫でた。
「別に大層な内緒話ってわけでもなかっただろう? 俺たちの母さんの話だ、聞いて悪いことはない」
「うん……まぁ、そうだけどね」
隼人は諦めたように笑った。すると今度はナツが隼人の肩を労う様に叩いた。
「父さん嬉しそうだった。……ありがとな、隼人。母さんからの伝言が聞けるなんて、父さんも思ってなかっただろうな。しかし……」
そこでまたくすくす笑い出したナツを、隼人は不審そうに見た。
「ど、どうした? ナツ?」
同じくハルが不審そうに問うたのに、ナツは笑いながら答えた。
「いや、あの、母さんの伝言……。はは、見抜かれてるな、父さん!」
「……? ナツは葵さんの伝言の意味が分かったの?」
隼人が意外そうな顔でナツを見た。『しょうがない人ね』の意味するところなど、隼人には見当もつかない。
「伝言聞いたときの父さんの顔、苦いもの食ったような顔だった? それとも赤くなった? ああ、見たかったなぁ!」
ひとり興奮するナツに、ハルも疑問を浮かべた表情で隼人を見た。
「……? 俺はさっぱりわからんけど……。うーん、母さんの伝言かぁ、どういう意味なんだ?」
「いいんだよ、俺はわかっちゃったけど、母さんから父さんへの伝言なんだから、父さんだけに伝わればいいのさ」
ナツがようやく笑いを収めてそう締めくくった。自分だけ答えを知ってるなんてずるいと、隼人もハルも思ったが、これは面白おかしいクイズではないと、そう思い直して諦めた。
一方、自分の飲んだ酒の後始末をするために、どかどかと台所へ向かっていた栄は、その足を居間の仏壇の前で止めた。いつのまにかそこに飾られていた向日葵の花に、酒瓶を持ったまま大きくため息をついた。
子供たちはみな、向日葵は母親の大好きな花だったと知っている。だからしょっちゅう飾っているし、庭の向日葵も毎年咲くように手入れしている。だがこの花に込められた思い出は、栄しか知らない。
今でも鮮明に思い出せる。結婚を申し込んだときの、葵の咲き誇るような満面の笑顔。
『ふふ、じゃあ私、“日向葵”になるのね。順番はちょっと違うけど、“向日葵”になれるのね』
唐突に蘇った記憶に、栄は思わしげにため息をつき、その場を離れた。
『しょうがない人ね』
死んだ妻からの伝言。栄は、その意味することをちゃんと知っていた。