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年明けですね。物語も中盤に差し掛かってきました。のろのろペースではありますが、もう少しお付き合いください。
「それで今日は、どうする予定なんだ?」
朝食の席で口をもぐもぐさせながらハルが問う。目線の先は、アキだ。
「どうって……どうしよう?」
問われたアキは、さらに質問を隼人に回した。
食卓には着かず、少し離れたところでぼんやりテレビのニュースを眺めていた隼人は、話題を振られて考える様子を見せ、またアキに質問を戻した。
「そうだね……アキはどうしたいの?」
「えっと……、天気もいいし、どこかへ出かけたい……かな」
箸を持ったまま、アキはもじもじと言った。せっかく隼人がいるのだ。デートくらいしてもいいじゃないか、と。
しかしその答えに、隼人は困ったように笑った。
「外へ行くなら、僕は一緒にいけないな……残念」
「は? 何でだよ」
玉子焼きを摘んだハルが、口に放り込みながら聞く。ナツも視線だけ隼人に向けた。
「えっと……どう説明したらいいかな。簡単に言うとね、この家の周りには結界が張ってあるんだ。僕が問題なく存在できるように」
分かるような分からない説明に、アキは額にしわを寄せて首を傾げた。
「死んだ人間は生き返ることはない。これはこの世界の絶対のルールだ。僕は厳密には生き返った人間ではないけど、ここに存在するべきではない魂だ。……わかる?」
隼人は全員を見渡して確認する。みんな黙って頷いた。栄はひとり黙々とご飯をかき込みながらテレビを見ていたが。
「それを無理なくこの場に居られるようにしているのが今張ってある結界で、そこから出ると、僕はこうしてのんきに存在できなくなる。存在を保つのがとても難しくなるんだ。力が要る。だから僕はこの家を離れられない」
隼人の固い説明に、全員が黙り込んでしまったため、食卓は重い空気に支配された。箸を持つ事さえ躊躇われるような静けさの中、会話するきっかけすら失ってしまった。
そこにずずずー、気の抜けた音を立てて、栄が味噌汁を啜った。そして固まってしまった子供達を見渡し、ことん、とお椀を置いて一言呟いた。
「……家にいればいい」
渋い低音の声が響き、つっかえていた空気が流れ出す。ハルは大げさな素振りをしながら、いつのまにか落としてしまった箸を拾う。
「うん、そうだそうだ、外はめちゃくちゃ暑いぞ、家にいればいい。そうだ、庭で水遊びなんかしたらどうだ? な、フユ、やりたいだろ?」
「うん、ぼくやりたーい」
きゃらきゃらと笑いながらはしゃぐフユと、安堵の表情のハルを見て、隼人はがっくりと肩を落とした。
「ご、ごめんなさい……何か……。僕、もうしゃべらない方がいいかも」
先ほどの重い空気を作り出したのは自分だと、鈍くはない隼人は謝った。仕方のないことだが、隼人が『死んでいる』ことを強調してしまう話題では、雰囲気が盛り下がる。説明も自分が話すとどうしても硬くなってしまう気があり、隼人は落ち込んだ。
「だ、大丈夫だよ、隼人。ね、今日はみんなで水遊びしよ!」
デートに行けないのは残念だが、一緒にいられるならどこだって構わないと、アキは笑った。
「うん……ごめんね」
再度隼人が申し訳なさそうに言うと、ご飯を食べ終わり、食器を持って立ち上がったナツが、通りすがりに隼人の背中をバーンと叩いた。
唸ってうつぶせに倒れた隼人が『何するんだ』という顔で振り向くと、そこには凶悪な笑顔を浮かべたナツ様が降臨していた。
「……水着は貸してやる」
それは暗に、食卓の空気を重くした罰として、水浸しにするぞ、という意思を含んだ笑顔だった。
水しぶきに陽の光が乱反射する。
庭のキウイ棚の下に出した丸いビニールプールで、フユとアキが水着姿で戯れていた。ハルは上半身裸になって、ホースで水をかける役だ。
日向家の庭は高めの生垣で囲まれていて、さらに大きなサルスベリと一面の向日葵が、外からの視線を遮っている。可愛い妹と弟が変な輩に狙われる心配もなく、またキウイ棚が容赦ない直射日光から肌を守ってくれるため、ハルも安心して水遊びを推奨したのだ。
ナツと隼人は遊びに加わらずに、縁側でスイカを切りながら、きゃあきゃあと弾ける笑い声を聞いていた。
ナツはスイカの切れ端を口に放り込みながら、ざくざくと切り分けていく。
切り終わる頃には、おいしい部分はなくなってしまうんじゃないかと隼人は思ったが、逆らえば水浸しの刑になるので、黙ってそれを見ていた。
適当な大きさに切り分けたスイカを、ナツが隼人の持っているお盆の上に置いていく。
「そういや、天国にスイカはあるのか?」
素朴な疑問だ。大体ものを食べているのかすら分からない。
「あるよ。世界中のどんな食べ物も、食べたいと思ったら出てくるよ」
隼人は食べたそうにスイカを見つめて言う。
「出てくる?」
「うん、料理好きな人は自分で料理もするけど、そうでない人はね、ただ自分が食べたいなって思えば、なんだって食卓に上がるのさ」
隼人は何でもないことのように言うが、ナツとしてはとても意外な話だ。
「天国って便利なのな。じゃあ例えばフランス料理のフルコースが食べたいって思ったら、それが出てくるのか?」
「うん、そうだね。ちゃんと想像できたら、の話だけど」
「は? まさかアレか、全部自分の想像の産物ってヤツか? じゃあ食べたことないもんだったら結局食べられないんじゃないか」
ナツは切ったスイカを盆に載せて、水遊びに夢中になっている三人の元へ持っていってまた戻る。あの輪の中に加わるつもりはない。スイカの汁でべたべたになった手を、濡れ布巾で拭きながらナツは微妙な顔をした。
隼人はそんなナツを見て笑う。
「はは、正解。要するにね、天国に住んでる人って体がないじゃない? 食べる必要が最初からないんだよ。食べ物は食べてるつもり、飲み物は飲んでるつもり、で、精神的に満足できたらそれでいい、って仕組みになってる。本当は天国に住んでる人たちはそのことに気づいてない。自分には体があるって思っているんだ。おいしいものいっぱい食べられて幸せだなって。僕は天使になったから、それを知っているだけ。僕も最初天国に住んでたときは、何て便利なんだろうって思ったけど」
当時のことを思い出したのか、隼人は苦々しく笑った。隼人は思い出す。祖父母と暮らしていたあの頃。娘よりも早く天国に来てしまった孫を、可哀想に可哀想に、と毎日パーティーのように盛大にもてなしてくれた。毎日こんなに料理を作るのは大変だろうから、もういいよと、数日してから言うと、「あら、作っているわけじゃないから大丈夫なのよ」と何事もないかのように言われ、きょとんとした。
天国で暮らすと、それまでの生活観が一変する。
物は売っていない。欲しいものは願いさえすればすぐに手に入るから。お金も必要がない。買う必要がないから。服も、食べ物も、高級な化粧品も。車や家、広大な土地。望めば何だって手に入る。ただし、細部まで思い描くことができるものに限り。
「空想の中で、生きてるようなものなんだ。それに気づいてしまえば、ひどく虚しい。だから気が付かないように、そういうふうにあの世界はできている」
あっという間にスイカを食べ終え、再び元気いっぱいに遊び出した三人の姿を、羨ましそうに見つめる隼人の目は、さらにどこか遠いところを見ているような気が、ナツにはした。確かに、この自分の親友は、遠い世界へ行ってしまった。
「お前は、虚しいと思ったのか?」
ナツの茶色の瞳のその奥が、水底に揺らめく宝石のように光って、隼人は少しだけ微笑んだ。
生きている人間が、擦り切れるように生きるこの世界。死んだ人間が、夢の中を生きるあの世界。虚しい世界は、どちらか。
「……そのことに気づいたときは、ちょっと虚しいって思ったよ。でもその世界に生きる人にとっては、全部本物なんだ。だから本当は、虚しいとか、そうじゃないとか、誰にとってもどうだっていいんだ」
どこで生きていたって、どう生きていたって、願うことはひとつだ、と隼人は笑った。何か大切なものを見つめるような、慈しむような柔らかい笑顔で。
「大切な人が、幸せに暮らしてくれたら、それでいい。できれば自分も、一緒に幸せに暮らせたら、それが一番嬉しいと思うけど」
二つの世界を知る隼人。その一番の願いが、叶えられないまま宙ぶらりんに揺れている。誰にだって叶えてやれない。たとえ神様だって叶えられない。
緑色の葉の下で、顔にかかる陰も緑色だ。風に揺れて擦れる葉の音に、蝉の合唱が重なる。
ここに、いるというのに。
すぐ傍に、いるというのに。
ナツはどうしようもないやるせなさに、両手で顔を覆って後ろ向きに倒れこんだ。
「ナツ?」
不審そうな隼人の声が聞こえた。
『死』というものの本質は、案外こういうものかもしれない、そうナツはぼんやり思った。
指の隙間からこちらを覗き込む親友の顔が見えた。知り合って、友達になって、一年とちょっと。水の中を泳ぐように、適当に世の中を渡ってきた自分に対し、真面目一辺倒で誠実にやってきた隼人。実際どこに共感を覚えて意気投合したのかすら不明だ。
―何で死んだんだよ
そう言いたくてナツは口をつぐんだ。誰も責められない。ただ、隼人はもう戻らないと、それだけが分かっていることだから。大きく息を吸って吐き出した後、ナツはよっ、と勢いをつけて体を起こした。
「大丈夫か? 暑いのか?」
心配そうに覗き込んでくる隼人の顔を見て、ナツは思わず笑ってしまった。何がおかしいのか、と不思議がる隼人の顔を見てさらに笑う。
……真面目すぎるからダメなんだよ
長所でもあり欠点でもある。しょっちゅうそう言ってあげていたのだが、持って生まれた性格なのだろう、死んだって直っていない。
隼人はナツのことをもったいないくらいのいい友達だとよく言ってくれた。しかしナツに言わせれば隼人こそナツにとっての“もったいないくらいにいい友達”であった。母親を早くに亡くし、寡黙な父と不器用な兄と共に家を、家族を守らなければならなくなったナツにとって、同年代の少年達は幼すぎてうるさかった。ピリピリした雰囲気を出していたこともあって自然とひとりになってしまっても、ナツには静かでちょうどいいとしか思えなかった。そんなナツの隣に、隼人はいつの間にかそっと、まるで最初からずっと隣にいたかのように寄り添っていた。凹凸のようにぴったりとはまる会話にナツの心がどれだけ癒されたかを隼人は知らないだろう。ナツがどんなに不貞腐れた、いじけた発言をしても、真面目に考え応えてくれる隼人の素直さがどんなに救いになってくれていたかも。
「馬鹿は死んでも直らないって言うけど、真面目すぎなのも直んないもんか」
ぼそっと聞こえないように呟いた言葉は、やはり隼人には聞こえていないようだった。ナツは心に浮かんだ感傷を吐き出すようにふっと笑った。
「ほら、スイカ食べろ、熱中症かもしれない」
真面目な顔でスイカを差し出してくる隼人に従い、ナツはくすくす笑いながらすっかりぬるくなったスイカを頬張った。泣きそうになっていることなど微塵も表に出さずに。
―俺だって、大好きだったんだよ、隼人。お前のそういうところが。もちろん、アキとは違う感情だったけど。
強い強い日差しの下、揺れる緑に遮られた日陰に踊る水しぶきと歓声。そこに加わる蝉の大合唱。
ナツはスイカを齧りながらも、心配そうな顔で見つめてくる隼人に、『心配するな』と笑顔を見せた。これが、隼人と過ごす最後の夏だと、本当の最後なのだと、スイカと一緒に腹の底に飲み込んだ。
―死んで欲しくなんて、なかったよ、隼人。
スイカを持っていない左手が無意識に虚空を彷徨い、隼人の腕に触れた。夏の暑い日差しと気温の中で、触れた瞬間は暖かく感じたが、中から伝わってきたのは冷たさだった。確かに触れているというのに、この上なく不確かな存在をぎゅっと捕まえるかのように、ナツは無言で隼人の腕を掴んだ。つかまれた隼人は何を思ったか、ナツの頭に手を載せて、髪をそっと撫でてきた。
まるで聞き分けのない子供を撫でるような優しい感触に、ナツは照れくさくなって頭を豪快に振ってその手を落とした。
「……何すんだよ」
「最初に腕掴んできたのはナツだろ?」
唇を尖らせて照れを隠すように言ったナツに対し、隼人は明るく笑いながら再びナツの頭に手を伸ばした。
「だからやめろって!」
「ははっ」
キラキラと輝くようなナツと隼人の笑い声が辺りに響いて、ハルとアキ、そしてフユはビニールプールの中で顔を見合わせた。そしてお互いにっこりと笑い合い、いつのまにかくすぐり合いに発展して子供のようにはしゃぐ二人を、キウイ棚の下から静かに微笑ましく見守った。
かつて過ごした日常が、再び戻ってきたような、そんな幸せを絵に描いたような一瞬だった。
「そういえばさ」
ずっと気になっていたんだけど、ひとしきり騒いで疲れたナツが額の汗を拭いながら口を開いた。髪の毛はぐちゃぐちゃになり、汗だくになりながらもなんだかすっきりした表情だ。
「何?」
隼人は髪を少し乱した程度で、ひとり涼しい顔をしてナツに振り返る。
「お前、家には行かなくていいのか? いや、ここから出られないとは言ってたけど、さすがに親には会っておいた方がいいんじゃないか?」
「家にいるのは全く構わないが」と付け加えながら髪を手櫛で整えるナツに、隼人は一瞬固まったように動きを止めたが、何事もなかったかのように手をひらひらさせた。
「いや、いいんだ、あの人たちは。息子の幽霊が出たって、大騒ぎになっちゃうよ」
笑って言うその言葉が、ぎこちなさにぶれているのに、ナツは気づいていた。だから何か言おうとして開いた口をすぐに閉じた。両手を固く握り締め、それでも顔だけはにこにこ笑う隼人に、それ以上は追求することができなかったから。
「……なあ、隼人」
蝉の声が一瞬途切れた。
「……何?」
首を傾げた隼人に、ナツは単刀直入に聞く。聞けない質問の代わりに問う。もうひとつ聞きたかった事。
「お前、まだ何か隠してるだろ」
隼人が貼り付けるように浮かべていた微笑がさっと消えた。驚きに見開かれた瞳を、ナツの真剣な表情が食い入るように見つめた。一瞬で場に鋭い緊張感が満ちた。
「……うん」
小さく、零れるように隼人の口から落ちた肯定の言葉。戸惑いと驚きが綯い交ぜになったような表情で、隼人はそれ以上を口にしなかった。
しばらくの間、緊迫した状態のまま見つめあっていたが、ふいにナツがため息をついて顔を背けた。
「……お前らよく似てるよ、双子の俺よりずっとな」
ナツは吐息にのせて囁くようにそういうと、先ほど整えたはずの自分の髪をぐしゃぐしゃにかき乱した。隼人はそんなナツを見つめたまま立ち尽くしていた。
「ナツ……」
「あんまり、思いつめるんじゃねーぞ」
言葉と共に、ぼすっ、と隼人の腹に軽いパンチを入れ、ナツはスイカの皮を回収し、家の中へ入っていった。
残された隼人は、痛みはしないがお腹を擦り、首を緩く振ってため息をついた。
「あんまり勘がいいのも、どうかと思うよ……ナツ」
目の前のプールでは、はしゃぎすぎて疲れた様子のハルに、水をかけていたずらするアキとフユが笑っている。その向こうで一面に咲いた向日葵が、風もないのにざわりと揺れた。こちらを向く花の中心が、ちょうど自分を監視する目のように見える。ただそこに咲いているだけの、無害な花であるというのに。
「……わかってますよ、葵さん」
隼人の呟きは、再び鳴き始めた蝉の声にかき消された。