序
青年は空の中に立っていた。
それはちょうど、透明なガラスの板の上から、地上を見下ろしているような感覚。
けれども東京タワーの展望台もこんなに高くはなかったし、と青年―隼人は内心でごちる。足元もそうだが周りに一切掴まれるものもないことが、より一層の恐怖をあおって無意識に体が震えた。
茶色がかった短い髪を風に躍らせた隼人は、確かに立っているというのに足元には何もないという不安感にやっとの思いで慣れ、この状況を作り出した隣に立つ小さな老人を横目で見た。
隼人の腰ぐらいまでの身長しかない、小柄な老人は、ふさふさの白髪と膝近くまで伸びた白いふわふわな髭がご自慢のようだ。絵本の世界から飛び出してきた小人のような様相であるが、笑い方が独特で、歯をむき出しにして「しっしっし」と笑う。だがどんな顔をしても可愛らしい部類に入ってしまう、そういう得なタイプだ。先ほど聞いたところによると、雲を司る神様なのだという。
この小さな神様と対面してから十分も経っていない。ものすごく気さくに声を掛けられ挨拶し、気がついたらこの見渡す限り遮るもののない空の上にいた。もし高所恐怖症だったら今頃気絶していただろうな、と隼人は全くどうでもいいことを考えため息をつく。この世界に来てから今までの常識やらなにやらは全く通用しないことを痛感していたため、この突飛な状況を受け入れられるだけの余裕はあった。当の老人は先ほどから懐を探り、何かを探しているようだ。
小さな空間をどれだけ整理できていないのか、しばらくごそごそしていたが、ようやく何か缶のようなものを引っ張り出した。自慢げに、にっ、と笑って見せてくれたその缶の中に入っていたのは、無色透明の液体。銀色の缶の底が見えるほどに透明であるが、水のようにさらりとはしておらず、とろっとしているようだ。
老人はにやりと笑って「これは特殊な絵の具なのじゃ」と言った。絵の具だ、と言われても、隼人の記憶ではこんな色の絵の具を使った覚えはない。透明ではただ紙が濡れるだけだと首を傾げる。
にやにやと笑ったままで、老人はおもむろに缶の中に指を入れ、その絵の具をすくった。皺だらけの指に光るその液体は、透明な蜂蜜のようにとろりと滴った。
一体それで何をするのだろう、と隼人が考えていると、老人は絵の具をつけたその指を、目の前の空に向かって横一文字に薙いだ。すると。
青い青い空の中に突如現れた白い雲。
それは老人の指が走るほうへ緩やかに伸びていく。隼人が声もなく目を瞬かせているのをちらりと見た老人は、楽しそうに笑いながら更に絵の具を指に乗せ、青を埋め尽くすように真っ白な雲を連ねていく。
先ほどまで雲ひとつない、文句のない快晴だったはずの空に、今ひとつ、またひとつと生まれていく雲。隼人は無言のまま、老人を見つめた。雲を司る神なのだと、そういった老人を。
「しっしっし」
しわしわの顔にさらにしわを寄せて老人は笑った。体の揺れにあわせて、ご自慢の白い髭もふわふわと揺れる。
隼人は、もう一度雲に目をやった。
青空にまっすぐに伸びた白いライン。強い風に流されてその姿を徐々に変化させ、そして緩やかに空に溶けていく。
隼人は思わずため息をついた。
ああ、こんなふうに
こんなふうに雲を描くところを見せてあげられたらなぁ
「行くか? 見せに」
老人は、透明なその絵の具に濡れた指を動かしながら言った。目線は雲の方に投げられているが、間違いなく自分に向けて発せられた言葉に、隼人は瞬いた。
「え? はい?」
まるで心を読まれたように向けられた突拍子もない言葉に正直理解が追いつかず、聞き返してしまう。
「行ってもいいぞ。おぬしが見せたい者のところへ。わしが許す」
そっけなくも優しい言葉に、隼人は瞳を瞬かせた。許す、とそんな言葉ひとつで行き来できるような世界ではない。それぐらいは隼人にも十分分かっていた。隼人が、隼人として存在していられるだけでも驚きで、幸せなことだと思っているのにまさか会いに行ってもいいだなんてどんな奇跡だろうか。ああ、でも。
目の前にいるこの小さな老人が“神”ならば。そんな奇跡も奇跡ではないのかもしれない。
隼人は見上げてくるキラキラした視線を受け止め微笑んだ。そして大きく息を吸って吐き出す。戸惑いを、打ち消すように。
―会いにいける。きみに。
ただそれだけの想いを胸に、隼人は目を輝かせた。
「よろしくお願いします!」
「ではその前に修行じゃー。描けんことには見せられんぞー」
勢い良くお辞儀をして宣言した隼人に対し、非常に暢気な調子で語尾を延ばして言った老人のその口調に、隼人は思わずくすりと笑った。この羊のようなもこもこ老人、見た目以上にかわゆい。
「はい、頑張ります!」
若者らしい元気のよい返事に、小さな老人は元々細い目をさらに細めた。
お話の骨格は数年前から、そしてお話の全体の流れが決まったのも3月11日の震災の前でした。人の生き死にを扱う題材で、正直戸惑いもありました。でもこんなファンタジーがあってもいいのではないかと私は思います。少し長くなりますが、最後までどうぞお付き合いください。