二
フェス当日。
人間界の大平原に、巨大な祭典会場が出現していた。
色とりどりの屋台が並び、グッズ屋が軒を連ね、人々は戦の疲れを忘れたように笑い声を上げている。子供たちが女神のお面をかぶって走り回り、露店では焼きたてのソーセージの匂いが漂い、吟遊詩人が大物女神グループの賛歌を奏でている。
グッズ屋の一角では、パン屋の青年が列に並んでいた。首にはスピカのお守りが揺れている。
「スピカさまのお守り、追加で一つください」
「はいよ。……あんた、この前も買ってなかったかい?」
「布教用です」
青年は真顔で答えた。
遠く離れた場所では、フードを目深に被った村娘がグッズ屋の前で足を止めていた。
「あら……スピカさまのアクスタが出てますわ……」
彼女は財布を開き、中身を確認し、アクスタとパンの屋台を交互に見て、小さく唸った。
「……ここは、パンですわね」
村娘は迷いなくパンの屋台へ向かった。
さらに別の場所――会場の隅で、一人の青年が壁に背を預けていた。レオンという名の、フレマルの古参信者だった。
彼の服は白かった。
白いシャツ、白いマント、白い手袋。腰には白い鞘の剣。白い太陽神だった頃のフレマルのカラーで全身を染め上げていた。周囲の信者たちが赤いサイリウムを手に浮かれ騒ぐ中、レオンだけは何も持たず、何も買わず、暗い目でステージを睨んでいた。
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舞台裏は、表の華やかさとは別種の熱気に包まれていた。
衣装を着けたスピカは、鏡の前で震えていた。白いドレス。白いリボン。白いサイリウムが客席で揺れるのを想像するだけで胃が痛くなった。邪神に狙われやすい色。ズーさんの警告が頭の中でぐるぐると回っている。
「……大丈夫、大丈夫、大丈夫……」
自分に言い聞かせても、手の震えは止まらなかった。
そのとき、廊下の向こうからコツコツと足音が近づいてきた。
「邪魔するよ」
フレマルだった。
赤いドレスに身を包んだ火の女神は、鏡台の隣の椅子に腰掛け、足を組んだ。
「何震えてんのよ。見てるこっちが緊張するでしょ」
「す、すみません……」
「別に謝んなくていいっての」
フレマルは鏡に映る自分の髪を指で弄りながら、ちらりとスピカを見た。
「……白、似合ってんじゃん」
「え?」
「あんたには白が合うって言ったの。一回しか言わないからね」
スピカはぽかんとフレマルを見つめた。そして、堰を切ったように口が動いた。
「あの、フレマルさん! 私、ずっと言いたかったことがあって――」
「なに」
「私、女神になる前から、フレマルさんのファンだったんです」
フレマルの指が止まった。
スピカはドレスのポケットから小さなお守りを取り出した。使い込まれて角が丸くなった、火の紋章が刻まれたお守り。
「これ、子供の頃からずっと持ってたんです。朝、パンを焼くとき、フレマルさまの火でおいしく焼けますようにって、毎日祈ってました」
「……」
「フレマルさんの色は、白だったんですよね。太陽の、白」
フレマルの表情が凍った。
それは触れてはいけない過去だった。白い太陽神――平和の象徴だった自分。戦争の時代が来て、人々は太陽の恵みよりも火の破壊力を求めた。信仰が変質し、白は赤に塗り替えられた。自分の意志ではなく、時代が、人間たちが、フレマルを「赤い戦争神」に変えたのだ。
「どうして」
スピカが聞いた。声は震えていたけれど、目は真っ直ぐだった。
「どうして白じゃなくなったんですか?」
長い沈黙が落ちた。
舞台裏のざわめきが遠く聞こえる。フレマルは目を伏せ、自分の赤いドレスの裾を見つめた。
「……信仰が移り変わっただけよ」
声は静かだった。怒りも悲しみも押し込めた、平坦な声。
「求められるものが変わっただけ。あたしが変わったんじゃない。世界のほうが変わったの」
「そう、ですか……」
「今さら白に戻れとか言わないでよ。あたしは赤でやってくの。それがプロなんだから」
スピカは首を横に振った。
「戻ってほしいなんて言いません。……私、あの頃はお日さまの下でパンを焼いてたんです。フレマルさまが火の神さまになってから、かまどで焼けるようになって——もっと美味しくなったんです」
フレマルは一瞬だけ目を見開いた。すぐに横を向いたが、赤い髪の陰で耳の先が同じ色になっていた。
「……そんなの、あんたがまだ人間だった頃の話でしょ?」
「私、今でもパンを焼くとき、フレマルさんに祈ってますよ? 赤くても白くても、フレマルさんの火は温かいです」
フレマルの顔がさらに赤くなった。イメージカラーの赤とは違う、頬を染める赤。
「ば、ばっ……馬鹿言ってないで、いくよ! 開演時間!」
フレマルは立ち上がり、大股で廊下を歩き出した。
何千年もの間、信仰の変遷に翻弄されてきた。太陽を求められれば太陽になり、戦争を求められれば戦争神になった。誰もがフレマルに「何か」を求めた。強さを。火力を。勝利を。
――パンがおいしく焼けるように。
そんな祈りを、最後に聞いたのはいつだっただろう。
「フレマルさん!」
「なに!」
「ありがとうございます。お守り、これからも大事にします」
フレマルは振り返らなかった。振り返ったら顔を見られる。それだけは駄目だ。
「……勝手にしなさい」
小さくそう呟いて、赤い背中は舞台袖の暗がりに消えていった。




