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 戦闘が終わっても、スピカは青年から目を離さなかった。


 リザードマンは去った。青年は立ち上がり、砂埃を払い、帰路についた。戦場は静まった。けれどスピカはモニターの前から動かなかった。両手を膝の上に置いて、少しだけ前のめりになって、画面の中の小さな背中をじっと見つめている。


 ズーPが事務所に戻ったのは、それから二時間後だった。


 コートの裾に瘴気の残り香がついている。いつもなら片手にあるコーヒーの紙カップがないのは珍しかった。裏路地の空気を思い出したのか、買う気になれなかったらしい。


 モニターの前に、スピカがまだいた。


「まだ見てるのか」


「はい」


「戦いは終わったぞ」


 スピカは、小さく首を振った。


「新しいパンの焼き方を覚えたんです」


 ズーPは一瞬、意味がわからなかった。


「……なんの話だ」


「今日、伝えるはずだったんです。神託で。もし今日が――戦争じゃなかったら」


 スピカの声は震えていなかった。泣いてもいなかった。ただ、まっすぐだった。


「だから、見届けます。あの人が窯の前に戻るまで」


 どうやら、青年が無事に帰り着いて、もう一度パンを焼くその瞬間まで、この場を動くつもりはないらしい。


 ズーPは何も言わなかった。


 コートを脱いでデスクの椅子に放り、隣の席に座った。モニターに目をやると、画面の中では青年がのどかな街道をとぼとぼ歩いている。戦闘地域はとうに離れていた。穏やかな午後の光が、土の道を淡く照らしている。


 危険は、もうない。


 それでもスピカは、画面から目を逸らさなかった。


 日常を見守るとき、この新人女神は少しだけ変わる。おろおろした泣き虫の顔が消えて、凪いだ水面のような、静かな真摯さが滲み出る。ズーPはそれを横目で見て、黙って腕を組んだ。


 画面の中の青年が、道端の石に躓いた。


 ほんの小さな段差だった。戦場で消耗した足がもつれて、身体が前に傾ぐ。


 ――転ばなかった。


 奇跡的に、とでも言うように。重心がふっと戻って、青年は何事もなかったかのように歩き続けた。本人すら気づいていない。


 スピカのモニター脇に表示された信仰ポイントの数値が、ほんの一粒だけ減った。


「まだ見てるのか」


「まだ、です」


 空が曇り始めた。画面の中で、ぽつりと雨粒が青年の肩に落ちる。二粒、三粒。すぐに本降りになりそうな暗い雲が空を覆っていく。


 青年が足を速めた。見渡す限りの街道に、雨を凌げる場所はない――はずだった。


 道の脇に、大きな樫の木があった。


 枝ぶりは広く、葉は分厚く、人ひとりが入れば雨粒をほとんど通さないほど見事な樹冠を広げている。青年は駆け込み、幹に背を預けて息をついた。ふう、と白い息を吐いて空を見上げる。運がいい、とでも思っているのだろう。


 スピカの信仰ポイントが、また一粒、減った。


 ズーPはモニターを見つめた。それから、スピカの横顔を見た。


 奇跡というには、あまりに小さい。歴史にも記録にも残らない。誰にも気づかれない。青年本人ですら、自分が守られていることに気づいていない。


 けれどこの女神は、消えかけの灯火を一粒ずつ割いて、信者の帰り道を照らしていた。


 消えない遠くの光のように。


 少しずつ、少しずつ、彼を家へ導いている。


「…………」


 ズーPは何も言わなかった。採点もしなかった。腕を組んだまま、静かにモニターを見つめていた。


「まだ見てるのか」


「まだ、です」


 三度目だった。


 画面の中の青年は、もう故郷の街の近くまで来ていた。街道の向こうに、見慣れた街門の輪郭がぼんやりと浮かんでいる。雨は上がっていた。


 スピカのモニター脇の信仰ポイント表示は、最初から微かだったものが、いまはほとんど消えかけている。奇跡に使えるような数値はとうに残っていない。


 それでもスピカは、画面を見つめていた。


「まだです」


 声は穏やかだった。


「窯に火が入るまで、見守っています」


 ズーPが、ほんの少しだけ眉を動かした。


「だって、私――」


 スピカは振り返った。


 泣き虫でもなく、おろおろしてもいない。フェスの舞台でもなく、戦場でもなく、ただモニターの前で信者の帰りを待つだけの、小さな女神の顔だった。


 ――笑っていた。


「パンの女神なんです」


 画面の中で、青年が街道を歩いている。


 一歩。


 また一歩。


 街門をくぐる。石畳の道を曲がる。見慣れた通りに出る。パン屋の看板が見えてくる。裏口に手をかける。扉を開ける。


 家の灯りが、点いた。


 その小さな光がモニターに映った瞬間、隣からかすかな寝息が聞こえた。


 スピカは椅子の上で丸くなって、眠りに落ちていた。


 膝を抱えて、頬を腕に預けて、子供みたいな寝顔だった。起きているときのあの真摯な横顔はどこにもなくて、ただの、疲れ切った小さな女神がそこにいた。口元がわずかに動いて、寝言のように何かを呟いている。


「……あたらしい……ぱんの……やきかたを……」


 ズーPの眉が、ほんの少しだけ動いた。


 寝言にしては、やけに具体的だった。


 ズーPは立ち上がった。


 デスクの椅子に放ったコートを手に取り、スピカの肩にかけた。大人の男のコートは新人女神には大きすぎて、丸まった身体をすっぽり覆い隠した。裾から小さな靴の先だけが覗いている。


 ズーPはモニターに目を戻した。


 画面の中では、青年がパン屋の厨房に戻っていた。棚には備蓄の小麦袋がいくつか並んでいる。今日の分はある。明日の分も、たぶんある。けれど物流が滞り始めていることは、袋の数を数えれば誰にでもわかった。


 青年は首のお守りを一度だけ握って、窯の前に座った。


 薪をくべる。火口に息を吹きかける。赤い火が灯った。小さな炎が窯の中に広がっていく。青年の顔が橙色に照らされて、ようやく戦場の強張りがほどけた。いつもと同じ手つきで生地を捏ね始める。


 窯に、火が入った。


 モニターの前で丸くなったスピカが、そのことを知るのは明日の朝だ。


 そして明日の朝、スピカは知ることになる。


 新しいパンの焼き方を教えようとモニターを開いたとき、備蓄の小麦が底をつき始めていること。明日のパンの小麦すら危ういこと。パンの焼き方を伝えるはずだった神託が、もう届けられる状況ではないこと。


 ――でも、それは明日の話だ。


 今はまだ、窯に火が灯っている。


 ズーさんはモニターの電源を落とさなかった。画面の明かりがスピカの寝顔をぼんやりと照らしている。橙色の窯の火と、モニター越しの白い光。ふたつの灯りが、神界と人間界でそれぞれ静かに揺れていた。


 スピカはまだ知らない。


 この先、小麦は尽き、窯の火は消え、新しいパンの焼き方を伝える日は遠く遠くなっていく。


 新しいパンの焼き方を教える――たったそれだけの奇跡を起こすために、この小さな女神がどれほどの季節を待つことになるのか。


 けれど今は、寝言で漏らすくらい、楽しみにしている。


 それでいい、と思った。


 ズーPは腕を組み直し、目を閉じた。

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